第一章「告別の朝」
朝の通勤電車は、いつもより静かだった。梅雨明け間近の東京は、湿度と気温が押し寄せるように高く、葵は汗ばむ首元にタオルを当てながら電車の窓をぼんやりと眺めていた。
スマートフォンのニュースアプリが振動を伝えた。
——『都内OLマンションから転落死』——
記事には見慣れた地名。
そこに添えられた顔写真を見た瞬間、葵の心臓が跳ねた。
「……田島さん?」
社内の情報管理部に所属する田島奈々。年齢は二つ下の29歳。いつも柔らかく笑っていたあの同僚が、昨日、マンションの屋上から転落したという。
『自殺の可能性が高いと見られています』
記事の文が、不気味な静けさを連れてくる。
会社に着くと、空気は明らかに張り詰めていた。社内チャットでも「警察が来るらしい」との噂が飛び交い、誰もが話したがらない雰囲気だった。
葵はそっと自席に座り、PCを立ち上げる。だが手は進まない。田島さんの机は昨日のままで、昨夜までそこにいたはずの人間が、この世界から消えてしまった現実が迫ってこない。
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噂通り、あれから会社に警察が来て、田島奈々と関わりのある社員が順次聞き取り調査を受けている。
午後四時。会議室に呼び出される。
「佐倉さん、こちらへどうぞ」
声をかけたのは総務部の主任だった。会議室のドアを開けた瞬間、そこにいた人物に、葵の足は止まった。
まるで時間が一瞬だけ止まったように、視線と呼吸が硬直する。
——黒いスーツ、背筋の伸びた姿。鋭い目。
「……柊……?」
名前が咄嗟に口を突いて出た。
十三年前、同じ施設で日々を共に過ごし、家族のように寄り添っていた存在。
連絡を絶ったまま、それぞれの道を選んだ過去。
一瞬、彼の目が微かに揺れる。
「久しぶりだな、佐倉」
十三年ぶりの再会だった。
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柊真志。幼いころ、同じ児童養護施設で育った、かつての“家族”のような存在だった。
高校を卒業する頃には別々の進路を選び、連絡も途絶えた。
まさか、警視庁の捜査一課の刑事になっていたとは。
彼は冷静に、田島さんについて質問してきた。
「田島さんと最近、何か話をしたことはあるか?」
「……最後にちゃんと話したのは、三日前です。外部委託のデータ処理に問題があって、調査してたんです。彼女、少し様子が変だった気がします」
「変だった?」
「……急に周囲を気にしていたり、スマホを握りしめて、誰かと連絡を取っているような感じで」
柊は頷いた。
「誰かと連絡を取っていた可能性があるんだな」
「でも、何も聞けませんでした。田島さん、最後に『誰にも言えないことがあるの』って……それだけで。
あの、ネットニュースでは自殺って記載ありましたけど……本当に自殺なんでしょうか?」
葵は自分の声が震えていることに気づいた。
田島奈々とは、ランチを一緒にとることもあったし、時折LINEで愚痴をこぼし合った仲だった。職場の中では、気を許せる数少ない存在だった。
そんな田島が自殺したとは到底思いたくない。
「それも含めて調査中だ。……話せる範囲でいい。何か思い出したことがあれば、すぐ連絡してほしい。……小さな違和感でもいい。全部、繋がる可能性があるから」
受け取った名刺をそっとポケットにしまいながら、葵は静かに頷いた。
柊の瞳の奥には——どこか、深く冷たい何かが沈んでいるようにも見えた。
まるで、自分の感情のほとんどを削ぎ落とし、職務という仮面だけを纏って生きているかのような目。
十三年という歳月の重みが、その眼差しに刻まれていた。
「分かりました。……私にできることがあれば、言ってください」
「助かる」
だが、どこかで確信した。彼は、真実を追いかけ続けてきた人間なのだと。
会議室から出る頃には、柊の名刺が手元に残った。
『警視庁刑事部 捜査第一課 警部補 柊 真志』
重たい名刺だった。
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その日、残りの仕事は形だけこなした。社内には「自殺だ」と言い聞かせるような空気が蔓延していたが、一部では「事故じゃない?」「いや、誰かに突き落とされたのでは?」と不穏な噂も飛び交っていた。
夜、マンションに戻って玄関の鍵を閉めた瞬間、体から力が抜けた。
冷蔵庫から水を取り出し、飲み干す。吐息が熱い。
田島さんの死。それが何を意味するのか。
自分の中で膨らむ違和感は、彼女が最後に口にした「誰にも言えない」という言葉と、妙に重なる。
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その夜、眠りは浅く、夢の中で田島さんの声がした。
『佐倉さん、気をつけて……』
目が覚めたとき、全身が汗に濡れていた。
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翌朝、会社の自動ドアをくぐると、そこに彼がいた。
「また話を聞きたい」
柊が静かに言った。
会議室のブラインドは半分閉じられ、照明も控えめだった。午前十時過ぎ。葵は、再び柊の前に座っていた。
「わざわざ来てもらって悪いな。会社には俺から連絡入れてある。
昨夜に田島さんのデスク、誰かが触った形跡があった」
葵は小さく息をのんだ。
「誰かって、社員ですか?」
「まだ分からない。けど、今朝確認したときには、封印シールの上に、爪で引っかいたような痕跡があった。細い、白い跡だ」
葵は心当たりを巡らせたが、部署で昨夜遅くまで残っていた社員は限られている。
「監視カメラには映ってないんですか?」
「エントランスと廊下にはあるが、執務室内にはないらしい」
葵は思わず机の下で拳を握った。
「何か探してたってことですよね。田島さんの……何かを。でもなぜ私にその事を?」
柊は少しだけ視線を外して、机の上に目を落としたまま答えた。
「こういうのは本来、捜査関係者以外には伝えないが……
田島さんは自殺という線が濃厚だが、どうにもそうとは思えなくてな。
部屋に争った形跡もなければ、遺書もない。にもかかわらず、彼女はマンションから転落した。——何かが足りないんだ。そう感じてしまう」
「田島さんが何か残していたとしたら、社内で気づくのは佐倉の可能性が高い。
佐倉は社内の情報管理に携わっている。人事やアクセス権の動きにも敏感な立場だ。誰よりも早く気づける——そう思った。気になることがあれば教えて欲しい」
「……部署には田島さんや私以外にも数人います。……私を疑っているってことですか?」
「違う。むしろ逆だ」
柊は顔を上げ、まっすぐに葵を見た。
「昨日の証言の内容から疑ってはいない。実際、佐倉の勤怠もPCログも調べたが、不可解な点はなかった。
それに、田島さんが佐倉に伝えた『誰にも言えないことがある』という言葉。内容までは分からないが、そういう話を任せられる相手は限られている」
「……実は、田島さんの私物から出てきた手帳の走り書きに、佐倉の名前が残っていた。詳細は書かれてなかったが、佐倉と何かを共有しようとしていた痕跡はある」
沈黙が落ちた。
葵はそのまま数秒間、柊の目を見つめ返し、やがて小さくうなずいた。
「今はこちらで昨日の事情聴取を基に社内外での田島さんの人間関係と、主に田島さんが関わっている業務を洗い直してる。特に問題があったデータ処理案件は重点的に調べてみる」
「私も、気になることがあったら連絡します」
柊は少しだけ表情を緩めた。「頼む」
会議室を出た後も、葵の胸には重たいものが残った。
田島奈々の死の裏には、何かがある。葵の直感が、そう訴えていた。
執務室はさらに沈黙を深めていた。誰もが、田島奈々の死がもたらした重さを言葉にできずにいる。目を合わせない。口を開かない。その空気の中で、葵だけが、何かを知らなければならないという焦りに背中を押されていた。
田島のデスクに向かうと、柊が言っていた通り、引き出しは封印テープが貼られていた。中にはまだ、彼女の使っていた文具や書類が残されているらしい。総務の管理下に置かれているとはいえ、何かあれば警察に提供される状態だという。
葵は一度、小さく頭を下げ、その場を離れた。
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昼休み、コンビニで買ったパンと飲み物をデスクに並べる。食欲はないが、何かを口にしなければ思考が持たない。
そんなとき、スマートフォンが震えた。
《着信:非通知》
一瞬、手が止まる。
(また——)
昨日の朝、田島が亡くなったと知るより前、非通知の着信が一度だけあった。名乗らず、すぐに切れたその電話。そのときは間違い電話だと思ったが……今、このタイミングで再び。
躊躇いながらも、葵は通話ボタンを押した。
「……もしもし」
返答は、なかった。
だが、息遣いだけが聞こえた。遠く、微かに。そして、それが女性のもののように感じられた瞬間——突然、切れる。
(……女の人?)
耳に残った音は、田島の声に似ていた気がした。もちろん、そんなはずはない。だが、耳と記憶が否応なく結びつけてしまうほど、その声には聞き覚えがあった。
その直後、また別の通知が入る。
《メール:差出人不明》
本文には、たった一言だけが記されていた。
> 「あのファイルを探して」
心臓が、跳ねた。
思わず周囲を見回す。だが誰も、こちらを気にする様子はない。デスクで昼食を取る同僚たちの姿があるだけだ。
“あのファイル”——それが何を意味するのか、葵にはわからない。だが、田島が関わっていた「外部委託のデータ処理」に何らかの問題があったとしたら、その中に“鍵”となる情報があった可能性がある。
(田島さん……何を伝えたかったの?)
喉が渇き、手元のペットボトルに指が伸びる。けれど、水の味がわからない。
背後から、静かに声がした。
「……佐倉」
振り返ると、再び、柊がそこにいた。彼の顔に、昼の静けさが影を落としている。
「一つ、確認したいことがある。少し時間、いいか」
無言でうなずき、彼に続いて会議室へ向かう。エレベーターでは誰ともすれ違わず、二人きりの静かな空間に息が詰まる。
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「これを見てくれ」
柊が見せたのは、印刷された社内記録の一部だった。そこには、田島奈々が社内システムにアクセスした履歴が示されていた。
「亡くなる前日、彼女は23時過ぎまでこのファイルを見ていた」
「“R-7091-A”……?」
「業務記録に出てこないファイルだ。存在自体が、部内で共有されていなかった」
「隠してたってこと……?」
「たぶん。しかも、削除されてる。だけどログだけが残ってた」
葵の喉が鳴る。
「そのファイル、何が入ってたんですか?」
「まだわからない。ただ、このコード——『7091』って番号、心当たりは?」
「……いや、分かりません。でも、その名前……メールにあった“あのファイル”と、関係あるかもしれない」
「メール?」
「さっき、非通知から電話があって……その後に届いたんです。“あのファイルを探して”って。差出人は不明で……」
柊は一瞬目を細めたが、すぐに頷いた。
「転送してくれ。警察のほうでも調べる」
「はい……!」
葵はスマホを取り出し、メッセージを転送する。その指先がかすかに震えていた。
「……佐倉。これからの話だが——お前には、今後協力してもらうことになるかもしれない」
柊と再会したことで、日常の境界線が少しずつ壊れ始めているような気がした。
——もう、元には戻れない。
そんな予感が、背中をひやりと撫でていった。
はじめまして。初めて筆を取りました。
お見苦しい点があると思いますが読んでくれてありがとうございました!