95.麻婆豆腐と花椒
――厨房、午後
「……よし。今日は、しいたけと昆布」
私は深呼吸をして、そっと出汁の材料を鍋に入れた。
セリアさんの事件のあった日、レンさんが持ってきてくれた――味噌と、昆布。
あのときは余裕もなくて、丁寧に味噌汁を作る気持ちになれなかった。
でも今日は、ちゃんと味噌汁を作りたいと思えた。温かい出汁が、きっと気持ちを整えてくれる気がした。
(……落ち着こう。あのことは、ちゃんと考えて、ちゃんと答えたいんだから)
椎茸の香りと昆布の旨みが混ざって、じんわりと広がっていく。
湯気が静かに立ちのぼり、くつくつと煮える音が、胸のざわめきを少しだけ和らげてくれた。
――そのとき、厨房の扉が静かに開く音がした。
「ミーナ、こんにちは。ここにいると思って……入ってもいい?」
「あっ、レンさん。もちろん!」
入ってきたレンさんは、手に籠を抱えていた。中には、真っ白な豆腐がひとつ。
その滑らかで柔らかそうな姿に、思わず笑みがこぼれる。
「いただきものなんだ。早く食べたほうがいいと思って。……よければ一緒に」
「わ、豆腐……うれしい! ありがとうございます」
「……それから、こんなものも」
レンさんは、籠の底から赤い瓶を取り出して小さく笑った。
「豆板醤。前話した時、気になってたよね?」
「うわぁ、うれしい……!! じゃあ、お味噌汁と、麻婆豆腐にしましょうか!」
「……いいね、それ」
◆ ◆ ◆
レンさんが豆腐を切ってくれて、私はフライパンに油を熱する。
にんにく、生姜、ねぎのみじん切りを炒めて、香りが立ったら、豚挽き肉を加える。
じゅわっと音を立てて、肉の色が変わっていくのを見つめながら、私は自然と笑っていた。
(……こういう時間、久しぶりかも)
豆腐をそっと加えて、調味料を入れる。
味噌、醤油、そして――レンさんがくれた、豆板醤。
赤い色がとろりと溶けて、ぴりりとした香りが立ちのぼる。
仕上げに片栗粉でとろみをつけて、火を止める。
花椒が欲しいけど、それはまた次回……そう思った瞬間だった。
「おっと、これも……でしょ?」
レンさんが籠の底から、ひょいと取り出したのは――
花椒の香りがふわっと広がる、小さな瓶だった。
「えっ……花椒!? レンさん……!」
さすがすぎる!
というか、どこまで読まれてるの私!?!?
麻婆豆腐といえば、花椒である。香りと痺れで完成される、あの魔法。
私は笑いながら、瓶の蓋を開けた。
「……ありがとうございます。これで完璧です!」
「できましたよ、レンさん」
味噌汁とご飯、そして麻婆豆腐。
湯気の立つ器を並べて、誰もいない厨房台に並んで座った。
「いただきます」
ひと口すすると、味噌のやさしい風味が、静かに心にしみてくる。
麻婆豆腐は、ピリリとした刺激があとを引くけど、どこか安心する味だった。
「……うん、美味しい。辛さのバランスが絶妙だ」
「よかった……豆板醤と花椒のおかげです」
私は少し照れながら笑った。
レンさんも穏やかに笑って、それから箸を止めた。
「……ミーナ」
その声音が、ほんの少しだけ変わっていた。
穏やかさはそのまま。でも、芯に何か探るような気配が混ざる。
「……最近、よく考えごとをしてないか? 前よりも」
ドキッとする。
目の奥を、やさしく、でも鋭く見つめられている気がした。
「……そう、見えます?」
「あぁ。料理をしながら、味噌の香りを楽しんでるようで、心ここにあらずだったり……とか」
私は思わず笑ってしまった。
「……さすがですね。レンさん、よく見てる」
「職業柄、だな。あと……君は隠すのがあまり得意じゃない」
チクリと、でも優しく言われたその言葉に、私は少し肩をすくめる。
「たしかに、そうかも……」
レンさんは少しだけ箸を置いて、目を細めた。
ふたりで簡単な昼食をとりながら、私はどうしても気になっていたことを切り出した。




