70.兄に報告
――夕暮れ、王都の小さな宿にて
セリアは、カフェを出た足で兄の宿へ向かった。
遠くに陽が落ち、石畳に伸びる影が長くなる。
扉をノックすると、数秒ののち、中から懐かしい声が返ってきた。
「……セリアか。入っていいぞ」
重たい扉を開けると、帳簿を広げていたヨナスが顔を上げた。
セリアは少し気まずそうに、それでも笑って部屋に入る。
「おかえり、セリア。……どうだった?」
顔を上げた兄は、いつになく真剣な表情をしている。
セリアは、少し肩をすくめて苦笑した。
「ちゃんと行って、ちゃんと話して、ちゃんと解散してきたわ」
「……そうか。で、どうだった? 人柄とか、話しぶりとか。ああいう人なら、心穏やかに過ごせるんじゃないかと思ったんだが──」
「そうね。とてもいい人だった。……それは、間違いないよ」
セリアはソファに腰を下ろす。
紅茶の残り香がまだ鼻に残っている。
「気遣いも丁寧だし、こちらの話にもちゃんと耳を傾けてくれる。格好も言葉遣いも、どこを取っても立派な貴族様だったわ」
「……なら、なおさら──」
「でも、私は行かなかった。“向こう側”には」」
ぴしゃりと、言葉を遮るようにセリアは言った。
ヨナスが一瞬、黙る。セリアは、言葉を選びながら続けた。
「ルドルフ様はね、ちゃんとわかってた。わたしが捨てるものの大きさも、今の居場所も、それを簡単に“こっちに来なさい”なんて言えないって……」
「……セリア」
「……ごめんなさい。せっかく紹介してくれたのに、結局こういう結果で」
するとヨナスは、ふっと笑った。
「……馬鹿。なんで謝るんだよ」
「えっ?」
「俺が紹介したのは、“お前が自分で考える機会”であって、無理に嫁にやるためじゃない。
今日みたいに、きちんと自分の目で見て、自分で決められるなら、それでいい」
「兄さん……」
「それに、断られたのは向こうのほうかもな」
「えっ!? そ、そんなことは……」
「だってお前、今日はちゃんと笑ってたみたいじゃないか。
そういうお前を見て、“大切にしたいけど、閉じ込めたくはない”って思ったんだろ。……あいつ、やっぱ悪い奴じゃなかったみたいだな」
そう言って、ヨナスは肩を竦める。
セリアは、その言葉に胸がじんわりと温かくなるのを感じた。
「兄さん、ありがとう。……兄さんが、私のこと信じてくれてるの、わかってるよ」
「兄さんは、“もっと幸せになってほしい”って、たぶん思ってくれてる。だけどね──」
彼女はゆっくりと手を握りしめた。
「わたし、今がすごく大事なの。……好きな仕事があって、信じてくれる仲間がいて。意地悪する人もたまにいるけど、それでも──わたし、あそこが好き」
しんとした沈黙が落ちた。
ヨナスは、書類を伏せ、深くため息をついた。
「……そうか。そこまで、ちゃんと考えてたんだな」
「兄さんが悪いわけじゃないよ。優しいと思ってる。わたしのこと、大事にしてくれてるのも、ちゃんと分かってる」
「……けど?」
「でもね、今回は兄さんが思う“幸せ”と、わたしの“幸せ”は、ちょっとだけ違ったの」
言い終えて、ふっと笑うセリア。
ヨナスは少しだけ目を細め、妹の表情をじっと見つめた。
「……ふっ、わかった。」
「ふふ、私だって、もう子どもじゃないのよ?」
「……ああ。そうだな。」
「でしょ?」
二人はふっと笑い合う。
確かに、兄妹の距離がほんの少し、変わった気がした──




