64.ライグル目線
(──うそ、だろ)
扉の向こうに見えたのは、間違いなくミーナだった。
しかも、手には湯気の立つお盆を持ってる。
いや、待て、なんで。
なんで俺の部屋に、ミーナがいるんだ?
「……ライグルさん? 起きてますか?」
名前を呼ばれた瞬間、喉が勝手に鳴った。
幻じゃない。本物だ。やばい、脳が混乱してる。
しかも今日に限って、風呂上がり。前髪は下ろして、シャツ一枚にズボンの軽装。
こんな姿、見せていい相手じゃない。というか、見られて大丈夫な相手じゃない。
でも――
(ミーナが、俺の部屋に、いる)
信じられないような状況に、理性がぐらつく。
これは夢か、いや、願望か……それとも、試練か?
「焼き鳥丼、作ったんです! 味見してもらおうと思って!」
差し出された丼からは、香ばしくて甘辛い匂いが立ちのぼっていた。
でも、正直それどころじゃない。俺の本能は、別の匂いに気づいてる。
(……誰の匂いだ)
ミーナの髪の近くに顔を寄せた瞬間、広がったのは、俺のじゃない“オス”の気配。
(……なんだろう、この香り。調味料だけじゃない。)
(……誰かの気配が、微かに……)
(……さっき、誰かといた)
理屈じゃない。
言葉にする前に、体が反応していた。
「……ミーナに、俺の匂い、つけたい」
気づいたら、ミーナの首元に顔を埋めていた。
マーキング――本能的な縄張り意識。
“これは俺のものだ”って、そう主張したくて、たまらなかった。
もちろん、人間ならそれが“間違い”だってこともわかってる。ミーナはまだ、俺のものじゃない。まだ恋人でもない。好きだっていえてないのに...
でも、俺の中の狼が、それを許さなかった。
(ごめん……でも、ちょっとだけ)
少しだけ、抱きしめさせてくれ。
もう少しだけ、近くにいさせてくれ。
そう思った矢先――
「……と、とにかく! それ、食べてくださいっ!」
顔を真っ赤にしたミーナに言われ、我に帰る。
「ごめんっ、、!」
とっさに身体を離すが、名残惜しくて、まだ心臓の音がする。
丼を食べ終わり、時間は21時前。
門限があるため、急いでミーナが帰ろうと立ち上がったとき...
バシャッ
水が倒れて、ズボンが濡れる。冷たい感触が太ももに走る。
「あっ、ごめんなさいっ!」
ミーナが、ふきんを取って俺の太ももを――って、ちょ、待て、そこは
(やばいやばいやばいやばい……)
さっきよりずっと、やばい。
しかも、拭かれてるっていうか、触られてる感覚で、ふきん越しにダイレクトすぎる。
「……あっ……そこ、拭かなくても……」
俺、今、笑えてるか?声、震えてないか?
(ミーナ、今すぐ離れて……くれないと、ほんとに、危ないから)
それでも、ミーナは顔真っ赤で謝って、そそくさと出て行こうとして――
ドアノブに手をかけた瞬間、思わず手を伸ばしてしまった。
「……危ないから……部屋まで送るよ?」
そう言った声が、自分でも驚くほど低くて、やさしくて、でもギリギリの理性だった。
(今夜、眠れそうにないのは……俺も、同じだ)
――――
眠れない俺は、ふと執務椅子に腰掛け、机上の資料に目をやる。そこには...
……レン=ラン。
シュエン出身、ラン商会、フェルデンでの実務統括であり、実質的なトップ。情報通で、整った顔。穏やかで、人の懐に入り込むのがうまい。
そして、早速今日、妙にミーナに接近している。
偶然か? それとも――
彼の“得意な交渉術”が、個人への興味を装っているだけだとしたら。
「……あの男、信用していいのか?」
声には出さなかった。ただ、机の上の資料の片隅にある、“ラン商会”の名を再び指先でなぞる。
ミーナを利用する者は、誰であれ、許さない。
……たとえ、それが恋のライバルだったとしても。
(……考えすぎ、か。でも)
でも、もしあの男が“仕事”のためにミーナに近づいてるのだとしても。
俺はきっと、笑って見過ごすことはできない。




