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眠り姫シリーズ

破壊王はいつまでもあたしを眠らせない……

作者: 橘 優月


あたくしの名はアリーナ。ある帝国の皇帝を父とし、正妃の二女として産まれた歴とした姫ですわ。お父様は魔力を持つ一族として皇帝におなりになった。あたくしはその父のいい夫を見つけるまで眠っていないといけない魔術をかけられ、ある屋敷で眠っています。

でも、まだ、眠くないんですの。目は冴えて頭も冴えて、一向に眠くならないんです。かといってこの屋敷は魔術がかけられ、あたくしは一歩も外に出られないんですの。

「お腹がすいたわ。エルマ。何か頂戴」

 お目付役の精霊に言う。あたくしの世話と屋敷のトラップは全てお父様が選りすぐった精霊達で成り立っていますわ。

”姫様は何も食べられなくとも何百年とも生きていける魔法がかかっています。よって。却下”

 厳しいお目付役に叱られてあたくしはまたベッドに横になる。飲み物すらもらえないんですもの。喉も渇くのに。脱水症状で死んでしまったらどうするんでしょう。

”飲まなくったって生きていけます。お目覚めになってからお食べ下さいな”

 あたくしの思考を読んだエルマにまたぴしゃりと言われる。

 いくら絶飲食でも生きられると言っても感覚は前と同じ。食べて、飲んで、踊って。ああ。ワルツが踊りたいわ。早く王子様が来ないかしら。そんな事をつらつら考えて横になっていると屋敷が騒がしくなった。

「王子様だわ!」

”でしたらさっさと寝台の上でお眠りなさい!”

 エルマはそう言って唯一、あたくしが開けることの出来る扉を閉めた。鍵はかかってないけれど、魔術で他の人間は開けられない。開けられるとすればお父様だけ。お父様、あの大きな戦に勝たれたかしら。心配が胸によぎる。

”余計な事考えると眠れなくなりますよっ”

 尋ね人が来た気配で気が立っているエルマがいいつける。

「はぁい」

 あたくしは間の延びたお行儀の悪い返事をする。すかさずエルマから教育指導が飛んでくる。

”はい、でございますっ”

「はい」

”よろしい”

 やっと満足の行ったエルマはこの屋敷の地図を見ている。ここに王子様が到着すると自動的に位置が送信されるようになっている。こんなものどこで作ったのかしら。

”姫様!!”

「はい」

 あたくしは今度こそ、黙って瞼を閉じた。

姫君のお相手は不死王

エドウィンはぎぃーと音のなる扉を開いた。

「ここに姫がいるといっても私はまだ妻をめとる気にはならないのだが・・・。とりあえず、同盟を結ぶにはこれしかないのだな」

 一国の王がこんなうすぼんやりした屋敷に正妃をめとりに来るなど狂気の沙汰だ。それでもエドウィンは足を踏み入れた。

「なんだ、お前たち」

 目の前にはホラーバージョンの精霊がうようよいる。

「邪魔をするとその首をはねる。容赦はしない」

 エドウィンが脅しをかけると精霊たちは殺気を感じ取って散っていく。

「ちっ。烏合の衆が」

 そしてまた前に進む。

 目の前に三つの扉があった。

「陳腐な仕掛けだな。どんな仕掛けでも不死王の名のついた俺の命を削ることはできん」

 そう言って罠の仕掛けてある扉を開けると異様な破壊力で進んで行く。

”トラップ壊しやがった”

 精霊たちはざわめく。

”にげろ。殺されるぞ!”

 一部の精霊は契約を無視して逃げていく。末のエリアーナならばちょっと、怒鳴って引き戻していただろう。エリアーナは皇帝の血を一番濃く受ついで魔力を持っている。契約は続行されただろう。だがアリーナにはその力はない。父のかけた魔術で生きてるだけ。エドウィンは通った後に草一本、生えてないというぐらいの破壊王だ。トラップなど物ともせず最短距離で姫君の眠る部屋の前にきた。

「失礼する」

 なぜか、魔術が効かなかった。エルマがアリーナの前に立ちふさがる。

「雑魚はよけておれ」

 エルマが跳ね飛ばされている。

「エルマ!」

「なんだ、起きていたのか。なら手っ取り早い。婚礼を上げるぞ」

「婚礼?」

 アリーナは目を大きく見開いたのであった




「誰ですの?」

あたくしはついそう言った。急に婚礼なんて失礼よっ。怒り心頭の頭であたくしは言い返す。エルマを吹き飛ばすなんて。短い間だとは言えエルマは大事な家族だった。

「あたくしの大事な家族を殴ってどうするおつもりなの?」

「家族? お化けが、か?」

「お化けじゃないわよっ。このすっとこどっこいっ」

 え。あたくし、今なんて言ったの。

「すっとこどっこいか。面白い姫だ。早速、城に戻ろう」

「エルマがいないところなんていやよっ。さっさと帰って!!」

 あたくしは床に倒れているエルマを抱きかかえる。

「ほう。そのお化けはお化けに見えないようだな」

 え? 精霊はあたくし以外にはお化けに見えるのに。あたくしが抱っこしてるから?

「いいだろう。家族が一人もいないのは心細いだろう。仮にも魔皇帝の姫君だ。そのお化けと一緒に来るがいい」

 そう言って乱暴に手をかける。

「触るんじゃないわよっ。この破壊男!!」

 あたくしはそう言って腕を振り払う。王子はって王子に見えないけど、ふっ、とさみし気な目の色を映した。

「えらく威勢のいい姫君だ。聞いていた噂とは違う」

 次の瞬間。もうあの哀しい色はなかった。あたくしも出てくる言葉と自分の思考回路がずれてて動揺していた。そのまま抱き上げられる。

「ちょっと。おろしなさいよっ!!」

「こっちは同盟がかかってるんでね。今しばらく我慢してもらう」

 抱き上げられて顔が間近に迫る。男らしいひげと長いまつげ。王子というにはたたき上げの男性のようだった。あたくしの胸の鼓動がどきどき言い出す。どうしたのかしら。胸の小鳥がざわめいている。

あたくし、いえ、あたしの眠れない日々が始まろうとしていた。



 あたしは問答無用で馬に乗せられて、隣国にたどり着いた。まさか、不死王とは。あまりの破壊状態に破壊王ともいわれている。通った後にはぺんぺん草も生えていないと。


 そんな男と結婚ー?!


 絶対いやよ。何人もの妃抱えてるって聞いている。征服した国々の王女たちや妃たちが連行されて嫁がされてるって。そんな十把一絡げの中に入るなんて御免だわ。あたしはあたしを愛してくれる王子様のものなんだから。

 そーっと連れてこられた館の扉をあける。ちっ。衛兵つけてやがる。まるで男の子みたいなセリフにあたしの中で別人格でも創造されたかと思った。まぁ、エリアーナの口癖が移ったというのが真実だけど。あの末娘は、妹は自由奔放だった。それに引き換えあたしは粛々と餌のいらない猫を飼っていた。今、その猫は外出中。帰ってくるのかしら。もう二度と帰ってこない気がするのはあたしだけじゃなかった。

”アリーナ姫。どうして私をつれて来たのですか。精霊は人とは違う世界の生き物。あなたに魔の名前が付くんですよ?”

 エルマが弱々しく言う。なんだかエルマの様子がおかしい。

「みんなは逃げちゃったけど、あなたは最後まで守ろうとしてくれた。助けるのは当然でしょ。ただでさえ、あたしには家族がいないんだから」

 お父様たちがいる首都ははるか遠い。国が大きすぎて境界地帯で小競り合いがずっと生じていた。お父様はそこを副将軍に任せて、さらなる領土拡大を目指していた。そんなに土地が欲しいのかしら。少しあれば十分なのに。お父様は魔皇帝ともいわれている。魔術なんてなくていいわ。あたしは一人の女の子としての道を歩きたかった。いつか王子様にキスで起こされて幸せな日々を送る予定だった。

 ところが、現実はそう甘くなかった。魔皇帝と破壊王の同盟の道具にあたしは使われた。今まであったお父様への信頼ががらがら崩れていくのを感じていた。しょせん、女の跡継ぎなんていらないのよ。いくらあたしが剣を握れたとしても。女は王にはなれなかった。男だったらなぁ、とお父様はあたしを見て何度も言ってたわ。それを思い出す。男でないと何もしちゃいけないの? 女は道具? あたしの中で怒りがふつふつとこみあげてくる。


「姫」

 破壊王が部屋の扉を開けようとしていた。あたしは開けられた瞬間枕を殴り飛ばしてた。

「入らないでっ! だれが女たらしと一緒になるもんですかっ」

「それは困る。同盟の条件はアリーナ姫を妻にめとり跡継ぎを作ることだからな。今さら眠り姫をやり直したとしてあの館には何もいない。一人でずっと眠り続けるのか?」

「そうよ。あたしはあそこでずーっと絶飲食してるんだからっ。みんなを返してっ!!」

 あたしはいつしか泣いていた。あの愛すべき精霊たちがいなくなってさみしかった。戻りたかった。あの館に。ああだこうだと精霊たちと言っている時間が好きだった。今はこのエルマしかいない。

”姫。涙をお拭きになって。姫には涙は似合いませんよ”

 エルマが言う。だが、先ほどからいつもの調子の叱り飛ばす声が飛んでこない。嫌な予感にあたしは震えた。

「エルマ? どこか調子が悪いの? 顔色が悪いわ」

”契約が終わったのです。私たち精霊は天に還る時。アリーナ姫お幸せに”

 急にエルマの体の線が消えていってエルマが半透明になる。あたしは手を伸ばしたけど抱きしめる手は向こう側へ行く。

「いや。エルマ、行かないで。一人にしないで!」

「姫? 何が起きてるんだ?」

「あなたには関係ないわよっ。さっさと出て行って!」

 馬鹿王のやりとの間にエルマの体の線はもう見えなくなっていた。体もほとんど透明だ。

「エルマ! エルマ!」

 名前を連呼する。だけどエルマは微笑んだままだった。やがてエルマは天に還っていった。あたしは床の絨毯を小さな手で何度もたたいた。次第に手がしびれてくる。それでも涙は止まらないし、手も止まらない。もう絶望の淵だった。

 その手を止めたのはあの破壊王の強い手だった。

「手を痛める。妖精が天に還ったんだな? だが、一人ではない。私がいる。私はそなたを裏切らない、消えない。一生大事にする。例え、そなたの愛がなくとも」

「あたしの愛なんていらないでしょ。たくさんの妃がいるんだから」

 エドウィンの動きが止まる。やっぱり、本当なんだ。あたしは一瞬でも芽生え始めていた信頼感が崩れるのを感じていた。この屋敷にはこの男とあたしと使用人だけだった。だからいつしか、妻は一人と勘違いを起こしていた。でも思い起こせば、彼には幾人もの妾も側室も正妃もいるのだ。魔皇帝の怪しい娘なんていらない。

「・・・ない」

「何よ」

「妃などいない。私はまだ独身だ。噂が独り歩きしただけだ。それにこの情勢の国々は妃を多く持っている。支配した証に。俺は違う。愛する女性は一人と決めていた。それがそなただ。アリーナ」

「嘘で埋め尽くされた愛はいらないわ。出て行って。あたしのところから。これじゃ、エルマを思って泣くこともできないわ」

 あたしの声が震える。ふいにあたしは何か固いものに顔が突っ込んでいた。そして何も見えない。

「え・・・エドウィン??」

 あたしはエドウィンに抱きしめられていた。

「一人で泣くな。泣くなら俺の前で泣け。一人きりで泣くもんじゃない」

 そして背中に回された手にぎゅっと力がこもった。あたしは気に入らない男の胸の中で、大号泣した。

 ちょっとスリリングで面白い精霊たちとの生活を思い出しながら。エルマの笑みを思い出しながら、思いっきり泣いたのだった。




 あたしはエドウィンの腕の中でいつしか眠ってしまった。泣き疲れて。夢の中ではあたしは精霊のみんなといつもどおりにあの屋敷でスリリングで面白い生活を一緒に送っていた。

 目が覚めるとそこはあの屋敷じゃ無かった。エドウィンの屋敷の天井があたしの目に入ってきた。また涙がにじむ。

「姫、起きたのか」

 あたしの嫁入り道具のテーブルで何やら書き物をしていたエドウィンがこっちを見た。とっさにあたしは顔を背けて反対側に寝転がった。

「無様でしょう。あの魔皇帝の娘がたった一人の精霊を失っただけであれだけおかしくなるんだから。もう、ここにいなくていいわ。自分のしたいことをしてれば?」

「してるが?」

 短い返事にあたしは頭の中にはてなが浮かんだ。そっとエドウィンを盗み見る。

「泣いてるそなたを一人にはしておけなかった。家族を失う悲しさは知っている。せめて目が覚めるまでと思ってな。暖かい食事をとればよい。少しは心の痛みも小さくなるだろう」

「食べ物ごときで落ちる人間じゃないわよっ。出て行って。一人にしてっ。もう同情はこりごりよっ。あたしなんてたいした価値なんてないんだから。お父様の道具の一つよ。どーせっ」

 ヒステリックにわめくあたしにエドウィンは手を伸ばしかけてやめた。触れていたら振り払っていたわ。それぐらいあたしの心はずたずただった。あの厳しく優しいエルマはもうどこにもいない。また涙があふれ出す。

「姫・・・」

 ほとほと困ったようにエドウィンは言う。

「食べなくとも良い。だが、涙はふいてくれ。出て行けない」

「何よ! 破戒王の癖に! 人なんて何百人も殺してきたじゃないの。お父様と一緒よ。あたしは道具になんてならない。なるぐらいなら・・・」

 そう言って止まる。あたし、道具じゃなかったらなんになるの? 姫君止めたくてもなんの力も無い。剣を振るう事しかできない。あたしが男だったら破壊王と一緒だった。何人もの人を殺して戦っていた。手を汚さずにすんだのは、ひとえにあたしが女だったから。そう気づいてエドウィンに謝ろうと思った。あまりにもひどい言葉を投げつけた。側にいてくれたのに。

「エド・・・」

「とりあえず、何か運ばせる」

 鋭い冷たい声だった。あたしはその声でエドウィンの暖かい気持ちを傷つけたことに気づいた。謝ろうと出て行くエドウィンに声をかけようとして止まった。背中が世界を拒否していた。そう。あたしさえも。それこそ、一人にしてくれ、と言っているようだった。

 パタン。扉が閉まった。そこに深い川が流れていることにあたしは気づいた。もう、あの人の心は違う姫のもの。これまで大事にしてくれていた気持ちを踏みにじった。もうあたしはお払い箱ね。このまま離縁されて返されるか、それとも同盟維持にどこかの屋敷に幽閉されるかのどちらかだわ。

 あたしは覚悟決めてまたあの懐かしい夢の中へ戻って行った。

 

             



 あれだけ眠れなかったのに。眠くなかったのに、あたしは眠くてしょうが無くなった。こんこんと眠る。夢の中で王子様を待っている幼い自分を見ていた。運ばれてくる食事も飲み物にも手を出さなかった。起きていたときはただぼっーと天蓋を見ていた。そしてまた眠る。そんな事を繰り返していると扉が乱暴に開いた。エドウィンね。彼は、いつだって大きな音を立てる。その特徴を覚えてしまっていた。

「アリーナ。何も食べてないと聞いた。しばらく戦に出かけていて気にかける暇が無かった。すまぬ。食べてくれないか? 一口でも」

 また、あの優しいエドウィンだった。あたしは力なく首を振る。もうエルマの所に行きたかった。

「もうすぐ、エルマの所へいけるわ。あなたもこんなややこしい女より優しくて綺麗な姫君と結婚できるわ。そうね。姉のエレオノーラならあなたに優しくできるかもね」

「アリーナ!」

 エドウィンは強くあたしの名前を呼ぶと、急に唇を押し当てた。無理矢理何かを飲み込まされた。後味に豆の味がして豆のスープだったと気づく。

「すまない。不本意だろうが、こうでもしなければそなたは何も食べぬ。もう、誰かを失いたくはない。そなたを失ってどう生きていけばいいのだ?」

 あまりの嘆き様にあたしは小さく笑った。

「あたしの代りなんていくらでもいるわ。生きていけるわよ。エドウィンなら。なんたって不死王だもの。強く雄々しく生きていけるわ。あたしなんかいない方がいいのよ。病死でもなんでも取り繕ったらお父様も追求しないでしょ。もういいの。あたしの中にはもう誰もいない」

 ウソ、だった。一人だけいた。エドウィンだった。勝手で横暴で破壊人間だけど、あたしの側ではそんな人じゃ無かった。優しかった。すべて。言葉も丁寧だった。姫、と呼んでくれていた。魔姫とも言わず。精霊を守護につけていていいように言えるのはあたしの国の中だけ。他の国じゃ、魔皇帝の娘は魔姫だった。闇の姫だった。

「アリーナ」

 切なく呼ぶ声をなぜか愛おしいと思った。守りたい、と思った。でも、あたしの命の残り時間はもうわずか。お父様の魔法で絶飲食でいられるのはあの屋敷を出る前だった。多少の魔力があるからそれはかろうじて効いていたけど。あたしは生きる事をやめていた。だから自然と魔法も解けていた。

「頼む。そなたまでいなくなれば私は一人だ。軍の誰も信用できない。そなただけが私と対等に向き合い、話してくれた。そんな姫を失いたくはない。食べてくれ。そしてまた怒鳴って欲しい。こっち来ないででも嫌いでもいい。あの元気なアリーナ姫に戻って欲しい。一人が好きなのならばいかようにもする。エルマを殺した罰は喜んで受けよう。私の手は血で汚れている。そなたに触れられる手でもない。だが、側にいて欲しいのだ。そなただけは。死なないでくれ。どうか私を置いていかないでくれ」

「エド・・・ウィン・・・?」

 ぼんやりとぼやけた視界の中にエドウィンがいた。悲しそうな顔をしていた。人を殺すような人間でないまっすぐな目をしていた。思わず手が伸びた。その手をエドウィンがしっかりつかむ。

「泣かないで。エドウィン。大丈夫。魔姫だもの。これぐらいのことでは死なないわ。食べればいいのね?」

「姫!」

 エドウィンの顔が驚愕に変わった。すぐさま豆のスープの器を持つ。そしてスプーンであたしの口元まで運んだ。あたしはそのスプーンを口に入れる。暖かな豆の香りの豊かなスープだった。

「温かい」

 ぽつり、と言うとエドウィンはあたしを抱きしめていた。

「アリーナ。ありがとう。もう少し食べてくれないか?」

 すぐにあたしを離すと次のスプーンを運んでくる。そうしてあたしはまた生き延びたのだった。エルマ、あなたの所は行くまでにはまだまだ時間がかかりそうよ。あたしはエルマを思い出しながら心の中で呟いていた。




 それからあたしが健康を取り戻すのは早かった。剣で体を鍛えていたことも原因の一つかもしれない。あとはあのエドウィンの甘やかし具合が度を超していたことだ。食事の度に来ては食べさせる。一人で大丈夫、というのに一人で食べさせてくれない。あの、優しいエドウィンが破壊王、不死王とは思いがたかった。それでも時折屋敷から消える。戦だ、とあたしは知っていた。

 だけど、そこから戻るとすぐに優しい恋人に変わる。まるでもうあたしが生を放棄しないように見張っているかのように思えた。

 ある日、扉が大きく開いた。エドウィンだ。何日か前に出て行ったきりのエドウィンが帰ってきた。無精ひげがぼうぼうの王子様と言うにはそぐわない、荒々しい男としてそこにいた。

「ちょっとはその無精ひげ剃ったら?」

 あたしは言う。

「姫は今の私の姿は嫌いか?」

 嫌い、ではない。逆にどきどきするのだ。あの前の屋敷にいたように目が冴えて頭が冴えて眠れない。またあたしは眠れない姫君に戻っていた。すぐ抱きしめに来る男の麝香がいつまでも残っていた。

「なんだ。眠れなかったのか? また。前はあんなに眠っていたというのに」

 あんたに指摘されずともわかってるわよっ。

 言葉にせずぎろり、と睨む。

「ああ。わかった。どんな姫でも構わない。それより今日は姫にプレゼントがある。どうか受け取って欲しい。新しいエルマだ」

「える・・・ま?」

 エドウィンが腕を広げると子犬があたしの所に転がり込んできた。

「子犬・・・?」

「戦地で親と離れている所を拾ったのだ。エルマの代りはならないか?」

「エドウィン! 最高の贈り物よ!!」

 あたしは子犬を抱えてエドウィンに抱きつく。それから凍る。


 抱きついてるーっ。


 純情な姫君はそのようなことはいたしません。初めて、あたしの気持ちが解放されたときだった。でも。でも。だきついてる。


 これからどうすればいいのーっ!!

 

 あたしの心の叫びがとんで行く。

「アリーナ」

 エドウィンの熱い吐息が耳元に触れる。

 

 どーしたらいいいのーっ!!


 以前凍ったままのあたしにエドウィンが爆笑する。

「魔姫でも固まるのか。抱きつくと。やはり姫だな」

 エドウィンが優しく離す。この人、ホントに破壊王?

「エルマが苦しい、と言っている」

 あたしとエドウィンの間でエルマがきゃんきゃん騒いでいた。

「あ」

 はぁ。やっと動けた。ふらふらとベッドの端に座る。エルマはなついたエドウィンの周りを回っている。

「ほら。お前のご主人はあっちだぞ」

 そう言ってあたしの方に向ける。

「おいで、エルマ」

 懐かしい名前の響きにあたしの声が震える。

「失った悲しみはそう消えぬ。だが、紛らわすことは可能だ。エルマと散歩に行こう」

「いいの?! あたし、軟禁されたんじゃないの?」

 まさか、と驚きの顔でエドウィンが見る。

「姫は私の大事な姫だ。軟禁した覚えはない。逃げたくなればいつでも逃げられる」

 寂しそうな瞳の色だった。あたしはすぐにエドウィンの所へ行って横に並ぶ。エルマもエドウィンの後ろにきちんとついて行く。

「エルマ、ご主人はあたしじゃないの?」

 不機嫌に言うとまたエドウィンが笑う。

「慣れれば姫を主人と認めるさ。さぁ、散歩に行こう。エルマ」

 使用人が出したリードを手にしてエルマにかける。

「姫がリードをもてばよい。自然と主人と解るはずだ」

「いいの?」

 おずおずと聞く。エルマの視線の先にはエドウィンなんだけど。どうみてもあたしを主人とは思っていない。

「やっぱりあなたにまかせるわ。あたしは主人落第のようだから」

「そなたの犬なのにみすみす私に渡すのか?」

「だって。エルマ、あたしを見てもくれないもの」

「だと。エルマ。姫が泣いているぞ」

「泣いてなんかいないわよっ」

 声を荒げると不意にエドウィンが腕をつかむ。

「エドウィン?」

「出て行くかと思った」

 真剣な瞳で言う。あたしの胸はまたどきどき言い出す。

「出て行っても野垂れ死によ。死ぬなら綺麗なお屋敷で死にたいもんだわ」

 照れ隠しにつんけんとする。その様子にエドウィンは安堵したようだった。甘い雰囲気があたしとエドウィンを包む。

 これは政略結婚なのよ。愛してもくれない人とみつめあってどーすんのよっ。

 とあたしは思うが視線が外せない。先に視線をそらせたのはエドウィンだった。

「やはり、姫が持て。私が先に歩けば着いてくる」

 そう言って一歩前にでる。エルマはその後ろをキャンキャンいいながらついて行く。

「エルマーっ。主人はあたしよー!」

 思いっきりリードを引いて引き留める。だが、相変わらずエドウィンから離れようとはしない。

「もう。やだ。エルマ、ご飯あげないからね」

 ぴた、とエルマの動きがとまった。

「エルマ、お腹すいてるの?」

 あたしが優しくリードを引き寄せて喉を撫でるとエルマが子犬特有の甘い声を出す。

「エドウィン。この子いつから食べてないの?」

「さっき干し肉をやったが」

「ペットにはペット用のご飯があるわよ」

「そんなものあるのか?」

「あたしの国で売ってたわよ。この国はないの?」

「姫!」

 エドウィンががしっとあたしの肩をつかむ。

「痛いじゃないのっ」

 すまぬ、といった先からまた持つ。

「そなたの国のことを教えてくれ。この国にないものを知りたい」

「ないもの?」

 エドウィンの尋問が始まった。


 エドウィンの尋問はしつこかった。食事は、今、ベッドで食べてない。ダイニングルームで二人で食べている。長いテーブルの端っこと端っこに座って。

 いつもなら静かに食べているけど、今日は違った。矢継ぎ早に質問してくる。軍事力をリークさせるのかと思いきや、思いっきり、生活面だった。石けんから入浴やらあたしの国で実証が始まっている、人型の機械の話をしたときには、目がきらきらしていた。まるで少年に戻ったかのように。最初は金属が動く事を伝えると認識に到達するまでが長かった。一分以上黙っていたかと思うと、どう作るのか聞いてきた。あたしは躊躇した。お父様は、いえ、もうお父様でもない魔皇帝は軍の中にそれを入れていた。軍事目的の機械もあるのだ。それを話せば、エドウィンも作るのかしら、と怖くなったけど、正直に話した。

「設計図というものがあるの。そして部品を組み立てて動力を作って動かすの」

「動力とは?」

「機械を動かす最初の原動力よ。歯車を合わせて動かしたり、燃料の力で動かしたり、様々よ。あたしはあまりよくわからないけど姉はよく理解していたわ。エリアーナはまったく気にも留めていなかったけど。あの調子じゃ、目覚めたときにカルチャーショックでしょうね。あの子は魔力が強いからそうそう起きないわ」

「カルチャーショック?」

「今のあなたと同じよ。新しい文化に触れてびっくり仰天してる状態を言うのよ」

「なるほど」

「エドウィン食事が進んでないわよ。給仕係が困ってるわ」

「それはすまぬ」

 慌てて食べ始める。あたしはもう終わっていて席を立つ。

「エルマはどこの部屋なの?」

「ん?」

 不意に上げたエドウィンの表情が不用心な状態であたしはしばらく見つめてしまう。視線が絡み合う。今度はあたしが目をそらした。もう心臓に悪いわ。今夜もこれで眠れない。明日、朝寝しようっと。

「エルマの寝所はそなたの部屋だが?」

「そうなの?」

 またエドウィンを見てしまう。無精ひげの顔は今はすっきりとしていた。さっきの顔の方がよかった、などと不埒な事を思いながら、エドウィンが言う。

「エルマは姫の犬だ。姫が可愛がってやれば良い」

「あなたにあんなになついているのに?」

「姫が世話をすればなつく。そういうものだ」

「じゃ、あたしに世話を尽くせばあなたになびくって考えてるの?」

「姫?」

「ここ、あなたの居城ではないわね。あたしを隠すための館ね? そして会わせたくない人がいるからあたしはここにいるんでしょ?」

「それは・・・」

 エドウィンが口ごもる。

「いいわ。それで。でもあたしがなびくとは思わないで。あたしはあたしよ」

 我ながら冷たい言葉を放ったと思う。でも、限界だった。あんなにあの人を近くで見て、存在を感じて。でも、あたしは政治の道具。愛してはいけない人。そこまで考えて、思考がストップした。


 愛しているですってー!!


 数秒後、あたしは心の中で叫ぶ。あんな粗野で破壊王の不死王の男なんていらないわ。そう強がってみても心は矛盾を抱えて苦しかった。部屋に戻るとエルマがちょこんとお座りして待っていた。

「エルマ、あなたのお父様は別の部屋よ。行ってらっしゃい」

 頭を撫でて扉を開ける。エルマは動かなかった。純粋な子犬の眼があたしを射貫く。何もかもお見通しという具合に。ぽろ、と涙がこぼれた。そのまましゃがみ込んで泣く。いつしかお座りしていたエルマが、あたしの頬をなめる。

「エルマ」

 あの厳しくも優しい本当のエルマに会いたかった。

「エルマ、会いたい」

 思い出に胸が張り裂けそうだった。犬のエルマは甘い声で泣き出す。

「姫、エルマはいなかったか?」

 扉を開き、エドウィンが息をのんでいた。

「姫! 何があった? どうして泣いて」

「知らないわよっ。あたしだってどうしたらいいか解らないんだもの!」

 それだけ言うと涙があふれてきた。そのまま泣いていると体が宙に浮いた。エドウィンがお姫様抱っこしていた。実際、身分はお姫様だけど。そのまま寝台へ寝かされる。じっと熱い視線で見られて、あたしは恥ずかしくなる。偽りとはいえどお嫁さんなのよね。恋人時代もすっとんで。何が起きてもおかしくは無かった。だけど、エドウィンはそのままベッドの端に腰掛けてあたしの頭を撫でる。

「一人で泣くな。私のいるところで泣いてくれ。胸が痛む」

「胸? あなたに心臓があるというの? 不死王なのに。でも、そうね。心があるからエルマはあなたになつくのよね。心がないのはあたし。捨ててきてしまった。城からあの屋敷に入ってから。あたしには人を想う資格もない魔姫。闇の姫だわ」

 また涙がこみ上げてきた。それを隠すように反対側に体を向ける。肩が小刻みに震えて、こらえるので必死だった。心を置き去りしてきた姫。それがあたし。だれも好きになってもらう資格もない姫。涙を飲み込んで、ようやく、言う。

「エドウィン。あなたの側室にして。正妃でなくていいから。心のない姫の最後の行き所よ」

「いいのか? 側室で。あんなに嫌がっていたのに」

「もう。疲れたのよ。本当の恋をしようとしていた自分に。どうあがいてもあたしは政争の道具のひとつ。側室にして、もう、ここには来ないで。大事に愛しているその人のところへ行って」

「姫、前にも言ったが、正妃はそなた一人だ。一人の女しか愛さぬ。そう決めたのだ。側室など馬鹿な事を言うな。側室など持つ気もない。エルマか? 原因は」

「違うわよ。疲れたの、自分に。あなたを愛し始めた自分に。あまりにも優しすぎて勘違いするのよ。あなたが愛してくれてる、と」

「アリーナ!」

 強引にエドウィンの方に体の向きを変えさせられる。

「私の方こそ、そなたを愛している。アリーナ。一目見たときから好きだった。ただ破壊王という名が姫に触れる事を禁じていた。私は人の血で染まった手の持ち主。姫に愛してもらえるとは思ってもいなかった。姫、私と恋をせぬか? 初めて出会った男と女として。政治も戦争も何も考えないで、私と恋に落ちてくれぬか?」

 そっと浮かんでいるあたしの涙をエドウィンはすくう。あまりに優しい手つきにまた涙がこぼれる。

「姫、泣くな。笑ってくれ。せめて嫌いでもいいなんでもいい。言葉を言ってくれ」

「きらい・・・。意地悪なエドウィンは嫌い。優しいエドウィンも。あたしの心をかき乱すあなたが嫌い。なのに、心はあなたに抱きしめてもらいたい。愛してるって言って欲しい。どうしたらいいの? あたしは。闇の姫は愛される資格があるの?!」

 心からの叫びだった。

「もちろん。愛する資格がある。資格がなくとも私はそなたを愛している」

 そう言って熱い視線で見つめる。この先に何が待っているのかあたしにはまだわからない。妻になると言うことがどういうことかはまだ解らなかった。ただ、エドウィンの熱い視線に心はドキドキし出した。自然と手が動く。エドウィンの首に手を絡ませると引き寄せる。キス、をした。熱いキスだった。

  エドウィンの愛情の深さが解るキスだった。その後はもう余り覚えていない。ただ、朝、起きればエドウィンが眠っていた。エルマが間に挟まって寝ている。ああ、妻となったのだ、とあたしは理解したのだった。

 そしてあたしとエドウィンの間に愛という河が流れているとようやくお馬鹿なあたしの頭でも理解した。

 愛し愛されてる。心が震える。

 でも。これからどうなるのだろう。未来が少し怖かった。

 だって、ここは彼の居城じゃないんだもの。本当の屋敷に入るまではあたしはあくまでも魔姫として同盟を使って嫁がせただけ、ってことしかない。あたしはまだどういう人間として扱われるのか未定だった。

 それが少し怖くて自然とあたしは両肩を抱きしめていた。



 あの日から幾日も経った。あれ以降、あたしはエドウィンに抱かれてはいない。ただ、同じベッドでエルマを間にして眠っていた。エドウィンは戦の度に屋敷を空けたけど、必ず帰ってきてくれた。そして、優しい恋人になってくれた。いつも一緒で頭を撫でて肩を抱き寄せてキスをした。あの日の熱いキスではない軽いキス。まるでエルマを子供みたいにしてあたし達はじゃれ合っていた。

そして、ある日、エドウィンは戦から帰ってくるとあたしを抱きしめ熱いキスをした。だけど、何かを恐れているような感じを受けた。そして真剣な目であたしを見る。

「会って欲しい人がいる。会ってくれないか?」

「恋人?」

「恋人は目の前にいる」

「じゃ、正妃様」

「正妃も目の前だ」

「誰に会うの?」

「私の第二の宝物だ」

 え、と聞き返した。宝物なんて言葉初めて聞いた。

「むろん、第一はそなただ。もう一人、そなたにも大事にして欲しい宝物があるのだ」

 あたしの頭の中に疑問符が飛び交う。

「今はまだ、考えずともよい。次の戦が最後だ。私と魔皇帝は協定を結んだ。その結果この国は魔皇帝の国になる。そして私はこの地の一領主としてこの地を治める。そう協定を交わした」

「そんな! お父様の言いなりになる必要なんて!!」

「そなたがいる。もう、危ないことはしたくないのだ。この国の民が幸せならばそれでよい。そなたが幸せになって政争の道具などと嘆かなければ良い。もう、多くは望まぬ。ただ、次の戦は負けるかもしれない。だから、姫・・・」

 エドウィンの言いたいことはあたしにも解った。首に両手を絡ませる。そしてあたしからキスをした。熱いキスを。その夜、最後になるかもしれないという恐怖を二人で抱えながら何度も愛し合った。帰ってくる、帰ってきてと、何度も約束を交わしながら。朝、起きるとエルマしかいなかった。あの人は行ってしまった。密かに涙を流しながら無事を祈った。

 お願い、また帰ってきてあたしをどきどきさせて。眠れない姫君にして。



 不死王が死んだ、その知らせが入ったのは何週間も後のことだった。あたしは信じられなかった。あの日の約束が叶わなかった。知らせを執事から聞いたあたしは自室までなんとか毅然とした姫君として戻れた。ドアを閉めるとずりずりと座り込む。

「エドウィン・・・ウソでしょ? 帰ってくるっていたじゃない。エルマおいで。あなたのお父様が亡くなったのよ。これからは二人きりね」

 あまりのショックが大きくて、涙すらでない。それからあたしはぼーっと部屋を見ていた。あの寝台で愛し合ったあの日の夜を思い出していた。まるで感触も残っているかのように肌は熱かった。

 あたしは久しぶりにドアの下に座り込んで倒れ込んでいた。

 アリーナ・・・アリーナ。

 あたしを呼ぶ声が聞こえる。エルマ? いえ、違う、男性の声だ。エドウィン! あたしは飛び起きた。誰かが肩を押さえて寝かせる。視線を向けるとなんと死んだはずのエドウィンがベッド横に座っていた。

「エド・・・」

 名前を呼ぼうとしてあたしはエドウィンにキスされていた。

「よかった。熱を出して倒れていたと聞いている。もう下がったようだな。肌は熱いが」

「もうっ。あからさまよっ」

「いつもの姫だ」

 エドウィンが微笑んでいた。この人こんなに優しい微笑みを浮かべる人だったかしら。そんなことを考えているとエドウィンが真剣な目をして言う。

「最後の共通だった敵国を無事、破ってこの地に平和が戻った。もう。そなたは政争の道具ではない。私の正式な正妃だ。居城に戻って式を挙げよう。領民に姫を紹介したい」

「エドウィン。あなた、最初からそのつもりであたしをここに? お父様の配下に着くことも承知で?」

「まぁ、思ったとおりではないが、姫を悲しませない方法を考えた結果だ。今夜はもう離さない」

「エドウィン。ちゃんと答えて」

「寝所でな。さぁ、起き上がれるようならエルマとまた食事をしよう」

「なら、さっさと出て。着替えられないじゃないの!」

「私には目の保養だが?」

「ダメ! エルマとお散歩してきて」

「冷たい姫君だ」

「どこがよっ!」

 エドウィンは笑い飛ばしてエルマを抱えて出て行く。もうっ、しっかりスケベ夫になって戻ってくるんだから。あたしは顔を真っ赤にしながら着替える。

 あのどきどきして眠れない夜が戻ってくるのね。思うだけで肌が燃え上がるように感じる。あたしもそうとうむっつりスケベだわ。自分を情けなく思いながら慌てて身支度を調えるとエドウィンとエルマの待つダイニングへ向かった。

「お待たせ」

 ダイニングルームへ入るとエルマが寄ってくる。

「はい。まずはお座り。お手、お代わり。そうよ。偉いわね。最後はまだ待て、よ。待て」

 使用人がエルマのご飯を設置してもしばらく待つ。

「はい。食べてもいいわよ」

 あたしが待ての手を解除するとエルマはものすごい勢いで食べ始める。

「ほんと食べ盛りね。エルマは」

 にっこり笑ってもう大きくなったエルマを見てるとエドウィンが側に来ていた。あたしの心臓が跳ね上がる。冷静に。冷静によ。自分に言い聞かせる。

「食事より、姫がいいな」

 また。心臓が跳ね上がる。

「エドウィン! しつこいっ」

「なんとでも行ってくれ。何ヶ月も姫がこの腕の中にいなかったのだ。待ち遠しくてもおかしくはないだろう」

「むっつりスケベっ」

「それはそのままそなたに言葉を返そう。もう姫も待ち遠しいのではないか?」

「知らないっ。頂きます!」

 夫だろうが恋人だろうが先に主人から食べ始める作法を無視してあたしは食卓に並んでいるご馳走を食べ始める。使用人もエドウィンが死んだと聞いてかなり逃げていった。それでもエドウィンに近かった使用人は信じて待っていた。それが形になった。嬉しくて手も進む。

「嬉しそうだな」

 エドウィンの久しぶりの笑顔が眩しい。

「嬉しいに決ってるじゃないの。生きてるのよ。ここにいるのよ。嬉しくなくてなんなのよっ」

 あたしはなんでだかわからない気分の高揚感に包まれて言葉使いも悪くなる。こんな時に楚々としたお姫様なんてやってられないわ。あたしはものすごい勢いでご馳走を平らげていった。

 その夜はエドウィンがあたしを離さなかった。何度も何度も。あたしは喜びに心を震わせていた。初めて愛した人が生きている。この奇跡を天に感謝したかった。

「もう。エドウィン。朝よ」

「まだ」

 エドウィンが甘い声を出してまたあたしの首筋に唇を這わす。エルマはぐーすか寝ている。よく寝ている物だ。こんなに大騒ぎしてるのに。結局眠れなかった。ドキドキもあるし、なんとも言えない心地がして。眠れる森の美女から眠れない森の美女にかえてほしいものだわ。おとぎ話の題名を。それぐらいあたしはずっとドキドキして眠れなかった。今もまた眠れずにいる。だけど、朝食の時間が迫っている。館主が立てこもっていると言うことを察していればまだ、朝食はテーブルに上がってはいない。たぶん、みんなに知れ渡っている。恥ずかしさに顔が赤くなる。

「どうした。アリーナ」

 あたしの胸にキスマークをつけようといたずらを仕掛けてくるエドウィンの頭を押しのけて言う。

「朝よ、みんなにバレてるじゃないの」

「それがどうした。夫が妻を愛するのに時間は関係ない」

「お昼でも夜でも付き合うからとりあえず、朝食を食べさせて。お腹ペコペコよ。エドウィンが離さないから」

「もう。二度と離したくない。私の物だ。アリーナは」

 そう言ってまたいたずらを仕掛ける。

「エドウィン。あと一回で朝ご飯にするわよ」

「あと二回、いや、三回」

「お昼になるわよっ」

 ぐいっとエドウィンの頭を押しやってあたしは無理矢理起きる。もう昨日からの事で筋肉痛よ。剣を握るのとは訳が違う。

「アリーナ」

「だーめ。いくら甘えても」

「わかった。朝食を食べればいいだな?」

 その言外の言葉にあたしは身を震わせる。

「ほら。姫も期待してるじゃないか」

 そう言って抱きしめる。布一枚も挟むことなく。あたしの肌は自然と燃え上がる。観念してエドウィンの方に振り向くとキスをする。そしてそっとささやく。

「あと一回よ」

「アリーナ。愛してる」

 そうしてまた寝台に戻ったあたし達だった。

 やっとお昼にありつけたあたしはまた部屋に連れ込もうとするエドウィンをほったらかしてエルマの遅くなった散歩に向かう。いつもエドウィンと歩いてる散歩道だ。草原に着くとリードを離す。勢いよくエルマが走り始める。あたしはおもちゃのボールを取り出すと投げる。

「取ってきて。エルマ」

 声をかけるとエルマがボールをくわえて戻ってくる。

「いい子ね。ほら!」

またボールを投げる。そして戻ってくる。何回かした後、じっとした視線を感じる。やや不機嫌そうにエドウィンが見ていた。

「やる? ボール投げ」

 ボールを差し出す。

「エルマと仲がいいんだな」

 まぁ、とあたしは声を上げる。

「嫉妬してるの? 犬相手に」

「ああ。大いに嫉妬している。私のアリーナなのに」

 そう言ってまたあたしを引き寄せる。そしてまたキスする。

「エドウィン、いくら欲求不満でもそれは屋敷の中だけにして。恥ずかしいわよ」

「恥ずかしくてもいい。アリーナは私の妻だ。アリーナの見る方向はこっちだけだ」

そう言って頬を両手で挟むと自分の方に向ける。そしてまた熱い、くらくらするようなキスをしてくれる。あたしは足ががくがくいって座り込みそうになる。その腰をぐいっと引き寄せてエドウィンはキスを続ける。ようやく開放された頃はあたしはもう、ふにゃふにゃになっていた。

「散歩・・・」

「いいや。館に戻る」

 そう言って抱き上げると館に向かう。

 扉を荒々しくあけるとずかずかと寝台に一直線だ。

「当分、取り込み中だ」

 後ろにひかえている執事に言うとエドウィンはまた昨夜、いえ朝の続きを始めたのだった。

「もう。眠れないじゃないの」

「どうしてだ?」

「あなたがそうさせてるのよっ。心臓がドキドキして眠れもしないわ」

「眠れない森の姫君ってとこだな」

 そう言ってまたあたしの体を愛撫しだした。あたしは深いため息をついてどきどきする時間を過ごすことなった。本当はどきどきどころじゃない。甘い愛撫にとろけそうになっている。何されてももうなすがまま。必死でしがみつく。もうどこにも行かないで、と。エドウィンはそのあたしの気持ちを知ってか知らずか額に優しくキスをする。

「大丈夫だ。これからはこうして一日中アリーナと一緒だ」

「ちょっとっ。仕事はしなさいよ。しないと出禁にするわよっ」

「厳しい姫君だな。いや、奥方か」

「まだ、式を挙げてないから婚約者」

「婚約者、か。いい響きだ。何しても許される」

 そしてエドウィンは繊細な場所にまで手を伸ばす。あたしはすべてを投げ出した。



 あの、奇跡の生還をはたしたエドウィンはあたしとエルマを連れて彼の居城に連れて行こうとしていた。城に近づくにつれ、緊張感がます。

「気にするな。姫は魔姫でもなんでもない。私の歴とした正妃だ」

「それはいいんだけど、あの、もう一人の宝持って言う言葉が」

「会ってみれば解るはずだ。大したことではない」

 そう言って馬を早駆けさせる。

 破壊王と言うには綺麗な居城がそこにはあった。庭園は花が咲き誇り、使用人も生き生きとしていた。

「お帰りなさいませ」

 一斉に皆が、挨拶する。

「館を長らく空けていて悪かった。これからはここでこの妻のアリーナとともに領主の役目を果たす。皆、ご苦労だった」

威厳のある声で言うエドウィンは格好良かった。バカ丸出しで悪いけど、惚れ直したといっても過言では無かった。そこへ、衝撃の事件が起こった。あたしにとっての。

「お父様~」

 小さい女の子がエドウィン向かって走ってくる。その女の子をエドウィンは抱き上げて高い高いをする。女の子はきゃっきゃと喜んでいる。

「紹介しよう。親友の忘れ形見のクリスタだ。クリスタ、この姫は私の妻だ。お前にとっては新しいお母様だ。ご挨拶しなさい」

 女の子は下ろしてもらって下から上へと視線をあげる。あたしは凍っているのか表情筋が固まって微笑みが出ない。

「こんにちは。クリスタ。この子はエルマって言うの」

 せめて動物で懐柔させようとしたが、そこは小さいと言っても女。きっと見据えて言う。

「お母様なんていらない!」

 そう言ってまた城に入っていく。

「すまない。まだ幼くてな」

「幼いと言うよりはライバル視されたわ。あの子にはちゃんと産んでくれたお母さんの記憶があるのよ。新しいと言われても納得しないわ」

「そうなのか?」

「そういうものよ。あの子はあたしにとっても可愛い子だけど、これからが思いやられるわね。エドウィンはあの宝物と一緒に寝るのよね? あたしはエルマと一緒に寝るわ。あたしの居場所はどこ?」

「どこと言われても、主寝室なのだが」

「却下。どこか日当たりのいい部屋を用意して。主寝室には絶対に行きませんからねっ」

 そう言ってあたしはつかつかと歩いて初めての嫁ぎ先の実家に入った。

 客間に荷物を持って待機していると執事が来た。

「姫様。お部屋のご用意ができました」

「姫はもういらないわ。一領主のただの妻だもの。アリーナと呼んで」

「しかし、奥方様に・・・」

「いいこと」

 あたしは指を立てて説明する。

「あたしはあのクリスタの母親にはなれないの。本人から拒絶されたんだもの。このままお父様にいってこの縁談を破談にしてもらうわ。これは決定事項になるまで誰にも言わないで。言ったら、罪人として捕まえるわよ。それでエドウィンとクリスタにはもっと魅力的なお母様と妻が来るの。そうするのよ。絶対に。あの主寝室なんて行くもんですか。ほら。さっさと案内しなさい。エルマ行くわよ」

 お座りして賢く待っていたエルマが動く。その動きをクリスタが見ているのはわかっていた。ただ、破談という言葉は理解できいないだろうとふんでいた。それが甘かった。

 用意された部屋で夕食を優雅に味わっていたあたしの所に猪突猛進のエドウィンが入ってきた。

「破談とは、どういうことだ」

「さぁ?」

「さぁ、だと。一度受け入れられなかったぐらいで破談にするのか?」

「一度?」

 あたしの眉がつり上がる。

「一度も二度も同じよ。あの子の中には本当のお母様がいるの。それを押しのけてまで母親にはなれないわ。あたしは正妃の二女として育ってきたけど本当は違う。側室の子として生れたのよ。だけどその母はあたしの養育を放棄した。そしてあの優しい正妃様があたしを二女として育ててくれたのよ。母親の偉大さはよくわかってるわ。あの子にはあの子の聖域があるの。こんな、行儀が悪くて口の悪いお母様なんていらないに決ってるでしょ」

 エドウィンが絶句していた。あたしの出生の秘密は母代りの正妃とお父様しか知らない。エレオノーラは薄々わかってるかもしれないけど。

「アリーナ・・・」

 まるで腫れ物に触れるようにあたしの名を呼ぶエドウィンにあたしはそこにあるクッションを投げた。顔に命中する。

「わかったら、さっさと出て行ってっ。それから永遠にさよならよっ」

 まるで最初にあった時のように癇癪玉をあたしは爆発させた。あの育児放棄した母でさえ、あたしの母だった。強欲の限りを尽くすような母でさえ抱きしめてもらいたかった。幼い頃に封印していた想いがこみ上げる。

 だけど、あのエドウィンの勢いなら当分家出いえ、実家に帰るのも難しそう。しばらく様子を見ることにした。

 よく我慢した方だと思う。愛する夫と可愛い娘を無視しづけてその一方で破談の段取りをとる。クリスタがエルマをよく見ていたから、エルマはクリスタにとわざと部屋の外に追い出したりもした。部屋の前であたしを待つエルマに触っていたようだ。小さな可愛い声がよく聞こえていた。可愛らしいクリスタ、母になれない自分が嫌だった。

 ようやく目処がついたのは二週間ほど後だった。あとはあたしが帰ればいいだけ。いえ、帰るつもりもなかった。破談として帰ればエドウィンが捕まるかもしれない。あの無邪気なクリスタから取り上げる気にはなれなかった。

「夕食です」

 運ばれてきた夕食は砂を噛んでいるようだった。まるで味も香りもしない。あたしは食べるのを止めてエルマにリードをつける。

「夜のお散歩よ。エルマ」

 散歩と聞いてエルマは喜ぶ。この後のあたしの行動すら予想せずに。

「アリーナ様、こんな夕闇の中にどこへ」

 執事がやってきて問いかける。

「だたの犬のお散歩よ。心配しないで、一刻ほどすれば戻るから。エルマ、行くわよ」

 そう言ってあたしは数週間前に入ったばかりの嫁ぎ先の城を出て行った。二度と戻らない覚悟で。



 初めて来た土地の森の中をあたしは歩き続けた。まるで闇の中にいるあたしは闇の姫という名にぴったりだった。

「さて、眠れない姫君を眠る姫君に戻さなきゃね」

 お父様からいざというときは使いなさいと言われていた小瓶を取り出す。これを飲めばまた前のように眠る姫になれる、と。意に沿わない相手に嫁ぐなら、とくれた小瓶だ。意にそぐわないわけではないけど、拒否されてしまった物はしょうがない。妻か娘かという選択肢を与えたくは無かった。最初から娘と暮らすという選択肢だけにしたかった。

「さて、どの辺で眠り姫になろかしら」

 七人の小人もいないし、精霊もいない。トラップもない。だけどしかたなかった。もう、決めていた。もう一度エドウィンに会いたかった。抱きしめて欲しかった。ぽろぽろ涙がこぼれる。それをなんとかこらえてエルマのリードを近くにあった木に結ぶ。

「いい子ね。エルマ。最後のさよならよ。エドウィンとクリスタに可愛がってもらってね」

 そう言ってあたしはさらに森の奥へと入っていった。

 その頃城では大騒ぎしていたらしい。せっかく輿入れした姫がいないと。一刻立てば戻ると言っていたのを信用していた執事が一向に帰らないあたしに嫌な予感を抱いてエドウィンに告げ口に言ったのだ。

「アリーナが、姫がいないと?」

「一刻前にエルマを連れて出られたまま帰ってこられません。夕食にはほとんど手をつけておられませでした。申し訳ございません」

「謝るのは後だ。使用人集めて捜索する。クリスタ、部屋でおとなしくしてなさい」

 エドウィンの口から厳しい声がでていたよう。

「お姫様どうしたの?」

「いなくなった。出て行ったんだ」

「クリスタのせいなの?」

「いいや。お父様の責任だ。ちゃんと二人を会わせることができればこんな事も起きなかったんだ」

「お父様、私もいく。お姫様悲しそうだった。私がお母様いらないって言ったから」

「それがわかっているなら連れて帰ってきたときに謝りなさい。お母様はお前の小さなその胸が痛んでることをすでに解っていた。生みの母への思いが消えないことを。お母様は本当のお母様に捨てられたんだ。それでもそのお母様が好きだった。クリスタと同じだよ。さぁ、時間が無い、部屋へ戻るんだ」

「お父様! クリスタも連れて行って。あの森ならいっぱい遊んでいるからお姫様の行きそうなところが解る」

「クリスタ」

「お願い。クリスタが悪かった。お父様を取られると思って意地悪したクリスタが悪いの」

 真剣な目で見つめるクリスタにエドウィンは根負けした。

「よし、お父様の肩に乗っていなさい。はぐれないようにするんだ。あそこは魔の森といわれているからな」

 小さなクリスタはエドウィンに抱きかかえられてあたしの捜索にあたった。

 あたしの方はさまよい歩きすぎて足が痛くなっていた。

「弱ったものね」

 剣を握っていたときはこれぐらいの距離なんでもなかった。だけど、靴擦れしてぬるっとしたものを感じた。

「血が出るのね。いっそ大量出血しないかしら」

 物騒なことを思い付くあたしは狂っているのかしら、と思った。やっぱり、魔の姫なのね。そうつらつら思っていると小さな木に足を取られた。ずりっと音がする。

「あ」

 あたしはそのまま滑落していった。

 どれぐらい時間が経ったのだろうか。あたしは狭い崖の上にいた。立ち上がろうとして足を痛めたことに気づいた。

「バカなあたし。側室にでもなってあの屋敷で暮らしていれば良かったのよ。馬鹿なアリーナ」

 言うだけで惨めだった。あの愛し合った日々が懐かしい。魔の姫。覚悟していたことだった。そう指さされることを。 

 遠くで声が聞こえる。エルマの鳴き声も。ここにいる、と言いかけて止めた。このまま去って行ってくれればいい。そしてあたしはこの崖の上で眠り姫となってそのまま土砂に流されていなくなるのだ。そう思っていた。ところが、声が近づいてくる。エルマがあたしの匂いを覚えて追ってきている。

 逃げなきゃ。あたしは動かない足を引きずって下に行こうとした。また滑落しそうになる。


 落ちる!

 

 そう思った瞬間、力強い手があたしの腕をつかんでいた。

「アリーナ! 馬鹿な事をっ」

 エドウィンは本気で怒っていた。殺気立っていた。ああ、これが破壊王の気配なのね、とぼんやり思った。そしてその手をはずそうとした。

「アリーナ!」

 エドウィンが一喝する。

「お母様!」

 小さなクリスタの声がする。

「クリスタ? エルマ?」

 遠くで声が聞こえる。あたしは意識を手放した。

 遠くで小さな女の子が泣いている。お母様と。お母様がいないと泣いている。あれはあたし? クリスタ? 段々目の前が明るくなってくる。あたしは瞼を開けた。

「お母様!」

 クリスタが抱きついてくる。左手をエドウィン、右手をクリスタが持っていた。

「ここは?」

「姫の大嫌いな主寝室だ。当分、ここで生活してもらわないといけない。足を骨折している。あとは肩に打撲。頭も打っている。よく生きていた」

 エドウィンが不機嫌そうに言う。

「ほんと。よく生きてたわね。さすが魔の姫、闇の姫ね。命だけは意地汚い根性の持ち主みたいね」

 自虐するあたしの頬をエドウィンが軽く叩いた。

「いつまでそうやってすねているつもりだ? 私の知っているアリーナ姫はもっと元気だった。明るかった。優しかった。いや、優しいから出て行ったのであろう? 私に二者択一の選択肢を与えぬために」

 図星、だった。あたしはエドウィンから視線を外した。

「お母様。クリスタが意地悪したから、死んじゃおうとしたの?」

「お母様じゃなくていいのよ。クリスタ。クリスタのお母様はたった一人なのはわかっているから。もう、苦しまなくていいのよ。あたしは、動けるようになったらこの城を出て行くから」

「アリーナ!!」

 激したエドウィンの声が降ってくる。

「今更、怒鳴れても怖くないわ。死にそうになったんだもの。それぐらいでおびえる魔の姫ではないわ」

「勝手にしろ!」

「お父様!!」

「クリスタ。お父様の元へいきなさい。エルマはあなたの犬としてプレゼントするわ。大事にしてね。さぁ」

 あたしはクリスタを急かす。エドウィンの出て行った後とあたしを何回か見ていたけど、あたしが瞼を閉じるとぱたん、と小さな音がした。

 よかった。これで万事丸く収まるわ。そうしてあたしは痛みの中にある眠りに落ちていった。



 誰かがあたしの足を触っている、そんな気配にまた瞼を開けると医師があたしの足を看ていた。

「動かなくなるのか?」

 エドウィンが心配そうに聞いている。

「大丈夫です。軽い骨折ですが、よく奥方は痛みに耐えられておられる。普通の人間であれば苦痛に叫んでいるところです」

「頭や肩は?」

「いずれも軽傷です。ですがよく生きて戻られた。あの崖の近くはよく人が落ちて亡くなっています。命拾いしただけでも天に感謝してもしきれないと言っておきましょう。奥方が目覚められたようですな。痛み止めを処方しておきましょう。何も言わずおられるとはさすがは破壊王の奥方様です。王は、いえ、領主様はいい奥方を手にされた」

「嫌われ中だがな」

 嫌ってないわよっ。そう言いかけてあたしは口をつぐんだ。もうエドウィンには愛を告げることを止めようと決めていた。とことん嫌われて破談に持ち込むつもりだった。この怪我さえなければとっとと自国に帰っていた。あの薬はまだある。もう一度、飲んでお父様に魔術をかけられる様に掛け合うつもりだった。そんなことをしても、あたしのエドウィンとクリスタへの愛情は消える物では無かったけど。クリスタは可愛らしい子だった。懸命に母を思う賢い子だ。あんな子の母になる資格などない。可愛いクリスタ、愛らしいエルマ、そしてこの世で一番愛しているエドウィン。この家族を守るためにはなんとしてでももう一度、眠り姫になる必要があった。生娘じゃない姫君をめとる王子様なんていないけど。手でこっそり薬を握りしめようとして気づいた。ない。あの小瓶が。

「この小瓶をおさがしか? 姫」

「エドウィン!」

 大声を出したはずなのにかすれた声にしかならなかった。

「この国の魔術師に成分を聞いた。眠り姫になる薬だという。それを飲んでまた眠り姫になるつもりか?」

「黙秘するわ」

 そう言って顔を背ける。肩が痛くて体ごとは動けなかった。

「無理をするな。薬を今用意する。飲めば少しは楽になる。夢の中で愛しの王子様とワルツでも踊っていればいい」

 憎まれてしまった。あたしの行きすぎた行動で。その事実が重くのしかかる。涙が浮かぶ。必死でこらえる。だけどあふれてあふれて止まらなくなった。唇をきつくかみしめる。あまりにもきつくかみしめすぎて血の味がした。

「アリーナ。心を閉じないでくれ。もう一度笑ってくれ。名を呼んでくれないか。あの可愛らしい声で。エドウィンと呼んで欲しい。もうそなたの傷つく姿を見たくない。離縁でもなんでもする。だからこっちを向いてくれ」

「エドウィン・・・」

 名を呼んだけど声にならなかった。

「愛しているの。どうしようもなく。好きすぎて困ってるの。気持ちの行き場が無いのよ」

 あたしの涙声の告白にエドウィンの表情が変わる。

「アリーナ。ほんとうか? 私を愛しているというのは」

「ほんとうよ。クリスタもエルマもエドウィンも大好きなの。大事なの。傷つけたくない」

 それだけ言ってむりやり体の向きを変えた。涙があふれてくる。あふれてあふれて困った。

 エドウィンの手がそっと当たった。体の向きを変えられる。目の前にエドウィンの顔があった。

「大好きなの。その顔が。声が。全てが。でも私は母親にもなれない魔の姫。闇の姫、逃げることしか考えられなかった」

「優しいのだな。アリーナは。そして優しすぎて自分を傷つけるのだな。もうあんな想いはしたくない。お願いだ。ここで私とエルマとクリスタと暮らしてくれ。もう離したくはない」

 エドウィンはそう言って世界一優しいキスをする。あたしの中で築き上げていた固い壁がぼろぼろ落ちてゆく。

「優しくなんか無いわ。だって、こんなにエドウィンをいじめているじゃない。苦しんでる。あたしのせいで」

 ちがう、とエドウィンは言ってあたしを抱き寄せる。

「苦しいのはアリーナがいないことだ。それだけは譲れない。そなたがいないと私は何も出来ない。クリスタにも優しく出来なくなる。そなたが私の愛の源なのだ。愛しているんだ。どうしようもないほどに。いつしかアリーナを心の底から愛していた。本当だ。政争の道具にしたくないほどに・・・」

 ああ、と言ってあたしの目から涙がどっとあふれた。その後ろからクリスタが飛び込んでくる。エルマを抱えて飛んでくる。

「クリスタもお母様がいないのいや。お母様は私にエルマをプレゼントしてくれた。でも、エルマはあの時、お母様が崖に落ちたとき必死に気配を探していた。エルマはお母様の犬よ。エルマも私もお母様が好き。お願い。死んだりしないで。クリスタって呼んで。私、もっとお母様と話したい。どうして私の本当のお母様が一人しかいないことがすぐにわかったか知りたい。お優しいお母様。ごめんなさい。いらないなんて言って」

 わっとクリスタが泣き出す。

「クリスタ。大丈夫よ。大好きなお父様を取られたくないもの。あたしだってエドウィンを他の人にあげるの嫌よ。クリスタにも焼き餅妬いたの。どっちか選ぶように言いかねないほど焼き餅妬いたの。クリスタのせいじゃないわ。もう泣かないで」

「その言葉そっくりそのまま姫に返す。そなたも泣きっぱなしではないか」

「だって、出るんだもの。あふれてあふれてたまらないだもの。涙の止め方がわからないんだもの」

「こうすれば涙はとまる。クリスタ手を貸しなさい」

「はい。お父様」

 グスグス言いながら片手を出す。

「もう片方の手でエルマと手を繋ぎなさい」

 きゃんきゃん騒いでいたエルマの手をクリスタが握るとすっとおとなしくなる。そしてエドウィンは空いた手をあたしの手に重ねる。

「これで家族がそろった。もう、みんな悲しい涙は流さなくてよい。嬉しい涙だけ流そう」

「エドウィン」

「泣き虫姫。今度から魔姫の代わりに泣き虫姫の称号を与えよう。これからは泣き虫のお母様だ。なぁ。クリスタ」

「わたしは優しすぎるお母様がいいわ。私達の本当の心にすぐに気づいてくれるんだもの。こんなに優しいお母様はいないわ」

「クリスタ!」

「お母様!」

 二人で抱き合う。

「おい。エルマ。放り出されたぞ。どうする? こうだな」

 抱き合っている間にエルマが入ってその上からエドウィンが大きく体ですっぽりとあたしとクリスタをおおう。

「ああ。みんな。みんないてくれるのね」

「当たり前だ。当分こうしてアリーナを離さないからな」

「お母様、お父様と一緒にここで眠っていい?」

 あたしは泣き笑いの顔で頷く。

「ええいいわよ。あたしの大事なクリスタ」

 クリスタが満面の笑みであたしに抱きついた。



 泣き疲れて意識がぼうっとして横になっていると、エルマを抱いたクリスタが飛び込んできた。

「お母様! お父様がエルマのような犬をプレゼントするって言ってくれたの。どんな名前がいいかしら」

 言いながらクリスタは寝台に乗って間にすっぽり収まる。エルマはひさしぶりに間に挟まって満足そうだ。

「クリスタ。生き物の命は尊いわ。自分を粗末にするお母様も悪いけど、この癖だけは引き継いではダメよ。新しい子犬いいわね。名前一緒に考えましょうね」

「うん。ねぇ、どうして私の本当のお母様が一人って気づいたの?」

「あたしも、お母様はたった一人だったの。違うお母様にそだてていただいたけれどその気持ちは無くならなかったの。ずっと抱きしめて欲しかったの。だからすぐにあなたの気持ちはわかったわ。産んでくれたお母様を求める気持ちは誰にも止められないの」

「お母様って頭がすごく賢いのね。そして心が優しいのね。赤ちゃんの時にお母様はなくなったってお父様が言ってた。会いたくて仕方なかったの。本当のお母様に会いたかったの。でも、その気持ちをお母様は何も言わないのにわかってくれた。もういいの。クリスタは今のお母様が大好き。エルマをわざとお部屋の外に出して私と遊ぶようにしたんでしょう? こんなに優しいお母様はいない、ってお父様言ってた。お父様はお母様にリボンで結んであげるわ」

「おや、お父様はもういらないのかい?」

「お父様!」

「さぁ。今夜は早く寝よう。みな、我々が落ち着いて安堵していた。これからはこの城の者もクリスタとアリーナもエルマも大事な家族だ。お父様はそれを守るためならなんでもする。そしてお母様に教わった皇帝陛下の国の新しい事にたくさん挑戦していくつもりだ。さぁ。早くお眠り。クリスタ。ここでお父様とお母様がみているから」

「うん。お父様、お母様。おやすみなさい」

 小さな瞼を閉じるとあっという間に眠りに落ちてゆく。

「泣き疲れたのね」

 可愛い新しくできた娘の頬をそっと撫でる。

「そなたもな。体も心も傷ついて。なのに我々のことばかり考えている。自分を押さえ込むのは止めた方がよい。すべてに悪影響する。さぁ、見ているから眠れば良い」

 自慢の夫の顔を見ているとふっと意地悪したくなる。

「キスして。さっきみたいに世界一優しいキスを」

「姫君はすぐこれだから困る」

「ってむっつりスケベはそっちでしょ」

「しばらくその汚名も返上になる。当分姫を抱くことは叶わぬからな」

「もうっ」

 ふくれっ面をしてると唇にそっとエドウィンの唇が触れる。天使の羽根のように優しいキス。

「癖になりそう」

「私の忍耐を試すのは止めてくれ」

「ふふ。意地悪よ」

「そこはやはり魔姫だな」

「あなただけにはね」

 思わせぶりな事を言うとエドウィンはうなって熱いキスをする。名残惜しいキスの感触に肌が燃え上がるけどそう都合良くはいかない。あたしはあちこち負傷中。しかも間にペットと愛娘を挟んでいる。エドウィンはもう一度うなると寝てしまった。

「もう」

 その時が来るまで、と感触を思い出しながらあたしは眠りに落ちていった。


 肩と頭の打撲はすぐに治った。魔皇帝の血を引いてることはある。自然治癒力が高かった。だけど、足の骨折はなかなか治らなかった。一ヶ月以上かけての治療の末やっとまともにベッドに腰掛けることができるようになった。エドウィンとクリスタとエルマは毎夜、主寝室で一緒に寝ている。エドウィンは国が領地と変わっても相変わらず政治の中心だった。毎日なんやら書類仕事をしていてあたしの休んでいるところにはなかなか来なかった。ただ、クリスタがこの主寝室にいるあたしのもとに入り浸っていた。今日も今度買ってもらえる子犬の名前を二人で考える。

「ビアンカなんてどう?」

 あかちゃんの名付け辞典をみながらあたしは言う。

「女の子みたいね」

「女の子の名前よ。男の子の名前がいいの?」

 聞くとうーん、とうなる。父親そっくり。小さなエドウィンがいるようで嬉しくなる。

「お母様どうして笑っているの?」

 あたしの視線に気づいたクリスタが聞く。

「クリスタは本当にお父様にそっくり、と思ったの。エドウィンもそうやっていつもうなってるじゃない」

「えー。クリスタお母様似になりたい」

 可愛いお願い事にあたしはうれしくなる。

「お母様はお転婆だからだめよ。クリスタは明るく優しい子に育ってくれたらお母様はなんにも文句いわないわ」

「お母様お転婆なの?」

 大きな目がさらにくりっとなる。もう食べちゃいたいほど可愛い。バカ親ぶりを感じながら言う。

「ここだけの話よ。お母様もお父様みたいに剣が握れるの。戦には出たことは無いけどいつも皇帝陛下に男だったらなぁ、って言われてたのよ」

「皇帝陛下ってクリスタのおじい様になるの?」

 素朴な疑問にあたしはうなる。

「そうだよ。一度お母様の国に行って見よう。きっと面白いものがあるはずだ」

「お父様!」

 クリスタがエドウィンにひっつく。

「あら。だーれ。お父様はリボンつけてあげるって言った子は」

「お母様の意地悪。クリスタはお父様もお母様も必要よ」

「あら。ひとつ賢くなったのね。そうよ。戦で両親を亡くした子がいる代わりにクリスタにはおじいさまやたくさんの大事な人がいるのよ。忘れないでね」

 うん、とクリスタの笑顔がはじける。

「お父様、子犬いつ頂けるの? 名前ビアンカって決っちゃった」

 うーん、とエドウィンがまたうなる。

「メスの子犬か。難しいな。後で馬番にでも聞くか。クリスタ、もう少しの辛抱だ。今、子犬を産みそうな母犬が一匹厩にいる。その子達が生れてから考えよう」

「はい。じゃ、お母様を独り占めしちゃったからお父様とかわりばんこ。お母様また寝る時にね」

「はい。一杯遊んでいらっしゃい」

 あたしはひらひら手を振る。それに答えて手を振るクリスタが可愛い。

「ほっぺたが落ちているぞ」

「あら、やだ」

 両手で頬をあげる。

「クリスタも早速なついて。まるで惚れ薬で惚れさせられたようだ」

 そう言ってベッドの端にすわると抱き寄せる。

「エドウィン、まだダメよ」

「わかってる。ちょっとした火遊びだ」

 そう言ってあたしとエドウィンは二人きりの時間を堪能した。

 一ヶ月を境に急激によくなった。その頃、厩で子犬が生れた。クリスタはビアンカと名付けた子犬の世話に夢中になって主寝室で眠るよりビアンカと一緒に自分の部屋で眠るようになった。小さな天使は成長を続けている。

「なんだか寂しそうだな」

 エルマもいつのまにかクリスタの後をついて回って、あたしとエドウィンの間には何も無かった。

「だって、エルマもクリスタもいないんだもの。寂しいわ」

「夫がいるだろう?」

 そう言って引き寄せる。

「そっちじゃないの。子供なの」

「なんだ。子供が欲しいのか。ならいくらでも」

 その気になった夫は怖い。何時間経っても解放してくれない。その分、あたしも幸せだけど。あの館での日々がまた繰り返される。そんな日々に満足しているあたしだ。昼間は亭主元気で留守がいいでクリスタと半日以上ビアンカとエルマと過ごす。クリスタが昼寝に入るとあたしはこの国、いえ、領地の文化を学ぶため図書室で本を借りては読んでいた。

中庭の大きな木の下で本を読んでいるとクリスタが走ってくる。あたしは本を閉じて愛娘のダイビングを受け止める。

「お母様、最近本の虫ね。なにを勉強しているの?」

「この領地の事を学んでいるのよ。勉強は嫌いなの?」

 聞くとすぐ頷く。

「お勉強嫌い。難しくて頭がおかしくなっちゃう」

 まぁ、と可愛らしい娘をぎゅっと抱きしめる。

「悪い生徒さんね。家庭教師の先生が嘆いていたわよ。お父様と一緒でお勉強が嫌いだって」

「お父様も嫌いなの?」

 仕事の虫と化しているエドウィンを見ているクリスタは目を大きくして言う。その目がたまらなく可愛い。

「あたしはその頃はこの領地にはいなかったからお父様の子供の頃の話は知らないわ。でも先生はそう言ってるのよ。で、何か用があって来たんじゃないの?」

「お父様とお母様、結婚式挙げないの? クリスタお母様のウェディングドレスが見たい」

 言われてみてはっ、とする。そういえば挙式はしていない。嫁入り道具はあるけど。でもそれも今いる城にはない。最初に過ごしていたあの館に残っているままだ。

「結婚式か。考えるのを忘れていたな」

「エドウィン! 仕事は」

「もう今日の分は片付けてきた。クリスタおいで」

 駆け寄る娘を肩まで抱き上げる。そのたくましい父親ぶりにまたほっぺたが落ちそうになる。

「なに、にやにやと」

「エドウィンは子煩悩なのね、と思ったのよ」

「それはそなたも同じではないか。クリスタ、お母様は夜になるとクリスタがいないと嘆くのだ。お父様なんていらないっていうのだ」

「それはね。お父様の気を引く作戦なの。お母様はお父様をすごく愛しているわ。独り占めできてお母様も嬉しいの」

「まぁ。クリスタ。愛しているなんてどこでそんな言葉を覚えたの」

「お父様がいつもお母様が大好きって言ってるもの。いなくなったらこの世の終わりだって。愛しているのにお母様にはまだ半分も解ってもらえていないって」

「こら。クリスタそれは内緒と言っただろう?」

 エドウィンが真っ赤になっている。あたしは目が点だ。

「エドウィン、そんなこと周りに言ってるの?」

「何か言って悪いことが?」

 質問を質問で返される。

「恥ずかしいからクリスタの前だけにとどめておいて」

「何を言っている。そなたを愛しているのにすぐ逃げようとするくせに」

「それは十分反省してます。お父様にもそう手紙を書いたわ。それはいい判断だ、と返事が来ているわよ。アリーナは男勝りだから困っているだろう、とも」

「そうよ。内緒だけどお母様、剣ができるの」

「クリスタ。それじゃ内緒にならないでしょ」

 クリスタの目が意地悪く光る。親を手玉に取る豪快な姫だわ。クリスタは。

「そなた、剣が握れるのか?」

「まぁね。長い間してないから感覚も鈍ってるし、筋肉も落ちてるわ。でなかったらあんな近くで滑落なんてしないもの」

 あのぞっとする魔の森の出来事を思い返す。

「どおりで口が悪いわけだ。お行儀の悪いお母様の癖はもらってはだめだぞ。ドレスはもらっても」

「ドレス?」

「さきほど。皇帝陛下からウェディングドレスが届いた。それを知らせに来たのだが、会話がえらく遠回りになった」

「クリスタ、お母様のウェディングドレスみたい。お父様連れて行って」

「いいが、最初に見るのはお母様だぞ。お母様のドレスなのだから」

「ねぇ。お母様。大人になったらそのドレスもらってもいい?」

 珍しくねだる愛娘が可愛くて思わずいいわよ、と約束する。

「クリスタはまだ嫁にださん」

「お父様、大人になってからよ」

「そうか。それならよい」

 おかしな親子漫才に笑いがでる。

「いいコンビね。クリスタとお父様はお母様の自慢の宝物よ」

「私もお母様大好き」

 クリスタが手を伸ばしてくる。あたしは立ち上がってその小さな手を取る。そこだけが花畑になったかのように向日葵の笑顔が咲き誇る。まるで絵に描いたような家族の形がそこにあった。あたしは生きてきて一番幸せだった。愛の知らない姫はいつしか愛の虜になっていた。あたしは世界一幸せな姫君だとつくづく思ったのだった。



館も城下も大騒ぎになって一ヶ月。その日がやってきた。教会の個室でドレスに身を包み、化粧をする。鏡を見るとそこには別人のあたしがいた。

 ノックの音がする。

「どなた?」

 今日ぐらいはあの餌のいらないネコを復活させようと、やたら丁寧な言葉使いになる。

「クリスタよ。お母様」

「どうぞ。いらっしゃい。クリスタ」

 扉が開く。いつものように剛速球で飛び込んでくると思いきや来ない。

「クリスタ?」

「お母様、綺麗。私の自慢のお母様よ」

 そう言っておずおずと近づくとあたしにくっつく。その存在を確かめるように。

「もう。クリスタの所から逃げないで」

「大丈夫よ。お母様はあなたをとっても愛しているから」

 そこで、ふと止まる。この子にあたしの愛情を告げたことが無かった。反省してもう一度言う。

「お母様はあなたとお父様を世界で一番愛しているわ」

「お母様!」

 クリスタがしがみつく。この子は愛に飢えていたのに与えることを忘れていた。いつも一緒だったのにこんな間際まで言わなかったなんて。バカなあたし。するとクリスタが顔を上げる。涙がついていた。それを指で拭う。

「あなたに愛していると言うのが遅かったわね。お母様はいつまでたってもクリスタのお母様よ」

「お母様。泣くとお化粧が取れるわよ」

 クリスタはリングガールだった。結婚指輪を持ってくる。綺麗な白いドレスに薄化粧。可愛い愛娘だった。そこへまた軽くノックの音がする。

「エドウィン?」

「母よ、アリーナ」

「お母様!」

 あたしは立ち上がって背筋をしゃきんと伸ばす。それを母、正妃は軽く制する。

「花嫁が主役の結婚式まで身分を持ちこみませんよ。まぁ。あなたがクリスタ? おばあさまよ」

「お母様のお母様?」

 クリスタがおずおずと尋ねる。

「そうよ。いらっしゃいクリスタ。おばあさまにも抱きしめさせて」

 固まっている娘の背中を押す。

「お母様?」

「大丈夫。おばあさまもあなたを愛してくれるわ」

 それを聞くと一気に表情が輝く。

「おばあさま!」

 正妃の胸にクリスタは飛び込む。

「まぁ。可愛いクリスタ。ドレスを作ってもらったのね」

「リングガールをするの」

 まぁ、と正妃が言う。

「なんて可愛らしいリングガールかしら。おばあさまには何時でも会いに来なさい。お母様に言えばすぐ連れてきてくれるわ」

「お母様、いくら、あ・・・あたくしが馬に乗れてもクリスタはまだよ」

「遠慮はいりませんよ。アリーナ。あたしでいいのよ。エリアーナの口癖がずっと着いていたのでしょう?」

「お姉様は目覚められたの?」

 いえ、と正妃は目を伏せる。

「こんなに早く目覚めたのはあなただけよ。そして孫まで作ってくれたわ。お母様には自慢の娘ですよ」

「お母様」

 涙がこぼれる。

「花嫁は控え室では泣かないのよ」

 そう言って優しい指であたしの涙をすくう。

「お化粧が落ちるわ」

「お母様。クリスタに泣かないように言って自分だけ泣くのはずるいわ」

「もう。クリスタったら」

 反撃を受けて泣き笑いになる。

「奥方様、そろそろお時間が」

 執事の声がする。

「さぁ。クリスタ。おばあさまとしばらくお話してなさい。リングガールの登場には早いわ」

 そう言ってドレスを持って聖堂に向かう。

「お父様!」

 聖堂の入口でお父様がまっていた。

「花嫁の父はここで娘と腕を組むらしいな」

「そりゃ、まぁ、そうですけど」

「相変わらず、男勝りだな。女にしておくにはもったいない」

「あたしはもう、政争の具にはなりませんからね。娘が結婚するまではこの地にいますから」

「悪かった。お前にはぴったりだと思って目覚めさせてしまった」

「そうなの? お父様。てっきりあたしは・・・」

「その目的もあったんだが、なにしろ相手は情の厚い男でな。アリーナならと思ったのだ」

 父の真実を聞いてあたしの目から涙がこぼれた。ただの政治の道具じゃ無かった。ほっとして涙がこぼれる。

「お前を泣かせたら破壊王に一瞬で殺される。涙は取っておくものだ。さぁ」

 結婚式の最初に流れる曲が鳴り始めた。あたしは父と腕を組んで歩き出す。ゆっくり、ゆっくりと歩きながら父との最後の時間を過ごす。目の前でエドウィンが待っていてくれた。お父様はそっと腕をはずすとエドウィンに持っていく。エドウィンがあたしの手を握った。

「綺麗な泣き虫姫だ」

 あたしの顔をじっと見つめて言う。

「姫じゃないわ。奥さんよ」

「そうだった。行こう。あの檀まで」

 エドウィンがエスコートする。まるで夢の中にいるようだった。

 神父の言葉が続く。そして誓い合う。お互いの愛を。誓った。クリスタがやってくる。台の上には代々の奥方がはめたというリングが乗っている。

 エドウィンが指輪をはめる。その時、誰かが走ってくるのが見えた。手にはナイフを持っている。

「この、逆賊が!!」

「エドウィン!」

 あたしはエドウィンをかばうように立ちはだかった。男が突進してくる。熱い、何かが刺さったような気がした。男は目の前ですぐに取り押さえられる。

「アリーナ!」

「お母様!」

「大丈夫よ。これ、くらい・・・」

 あたしはエドウィンの胸の中で意識を手放した。

 あたしはふらふらとさ迷っていた。霧の立ちこめる森の中で。誰かがあたしを呼んでいる。だけど目の前にあれほど欲した母が手を伸ばしてる。

「お母様。あたしを抱きしめてくれるのね。やっと」

 その手を伸ばしかけたとき、クリスタの泣き声がきこえてきた。必死であたしを呼んでいる。

「クリスタ?」

 振り向くと霧は晴れ、お母様はいなくなった。あたしは段々意識がはっきりしてくる。あのまま刺されて死んだんじゃないの?

 瞼をうっすら開ける。あたしの胸の上でクリスタが泣きじゃくっていた。

「クリスタ。大丈夫よ」

 泣き続ける娘の頭をそっと撫でる。力が入らない。

「アリーナ!!」

 気がついたあたしにエドウィンが手を握りしめる。

「大丈夫よ。私は。それより、クリスタをお願い。こんなに目を腫らして。泣かないの。お母様帰ってきたんだから。クリスタが呼んでくれたおかげで」

「私も呼んでいたのだが」

「もう。娘に焼き餅やかないの。お母様を呼んで。聞きたいことがあるの」

 エドウィンは知っているかもしれない。でもこの話は女同士にしかわからない。この深い悲しみは。

「わかった呼んで参る」

 すっとエドウィンが消える。

「クリスタ。可愛いお鼻が真っ赤よ」

「可愛くなんかなれなくていい。お母様さえいてくれたら」

「その言葉にはお父様も入れてあげて」

「あ」

 くすり、とあたしが力なく笑うとクリスタも笑みをこぼす。

「アリーナ。正妃様を呼んできた。二人で話せばいい。私はクリスタと一緒に皇帝陛下の元に行くから」

「おじい様に可愛がってもらいなさい」

「はい」

 まだ鼻をぐすぐす言わせていたクリスタを連れてエドウィンが下がる。

「お母様。あたし・・・」

「知ってるのね」

「うすうすは、解っていたわ」

 あたしとエドウィンの最初の子はあたしが刺されたショックで流れてしまった。悲しさに心が凍る。

「そんなことは二度も三度もあるわ。私もそうだったもの」

「お母様も?」

「跡継ぎを亡くしたわ」

 あたしはその隠れた話に目を見開いた。

「だから、諦めないこと。いつかはクリスタに妹か弟を産んであげられるわ。今回の子はあなたを守るために宿ったのかもしれないわね。ちょうど下腹部を刺されたから」

「そう・・・」

 涙をこらえる。

「あなたはいつも損ばかりね。エレオノーラもエリアーナもまだ眠っているのにあなただけ目覚めさせるなんて・・・」

「いいのよ。もう過ぎた事よ。ドレスはもうダメになったの? あれを仕立て直してクリスタに上げる約束をしていたの」

「ドレスなんていくらでもお父様は作ってくれますよ。初孫のドレスもね。もうお父様はクリスタに転がされているわよ。あんなにデレデレしたのは私も初めて見るわ」

 まぁ、とあたしはびっくりする。

「魔皇帝と言われるあの、お父様が?」

「もともと子煩悩な人なのよ。ただ、権力を持ちすぎて持て余しているの。それでやっとエドウィンと二人で統治することになったの。聞いていないの? その話は」

 ええ、とあたしは答える。

「エドウィンはそんな話は一度も」

「そう、仕事を家庭に持ち込まないのね。いいムコだわ」

「でも後から聞いて心臓に悪いわ。エドウィンは戦の話もしなかったの。あの最後の戦でさえ、帰ってくると言ったきりだった。ただただ、あたしを大事にしてくれた。感謝しかないわ。あの王様には」

「エドウィンもひどく混乱していたわ。あなたが死ぬかもしれないと。そうなったときは後を追う覚悟だったみたいね。ただ、幼いクリスタを残すのは、というところで悩んでいたわ」

「エドウィン・・・」

 後追うほどあたしを愛してくれている。驚きだった。あの粗野で乱暴な破壊王はあたしの側ではいつも優しかった。でもそこまで愛されているなんて思わなかった。

「あなたは幸せ者よ。よく覚えておきなさい」

「はい。お母様」

 幼い私を厳しくも優しく導いてくれたお母様を思い出してあたしはその幼い頃のようにはい、とだけ答えた。

「さぁ、エドウィンがさっきからうろうろしてるはずよ。そこで気配がしますからね。エドウィン入ってきなさい。熊みたいにうろうろするんじゃありません」

「すみません。正妃様。心配で」

「解ってますよ。花嫁に指輪をはめてあげなさい。挙式はまた日を改めてしましょう。クリスタに新しいドレスを作ってあげないと。さぁ。夫婦水入らずで話しなさい。今だけですよ。できるのは。アリーナ」

「お母様・・・」

「うまくやりなさい」

 それだけ言うとお母様はクリスタの名を呼びながら出て行った。

「エドウィン、話を聞いてくれる? あたし・・・」

「最後までいわなくともよい。我々の子のことだろう?」

「知ってたの?」

「薄々は・・・。医師の慌てぶりが尋常で無かった。母体という言葉も聞いた。クリスタは解らない言葉だったようだが」

「そう」

 あたしは目を伏せる。

「泣くな、とは言わぬ。せめて私の前で泣いてくれ。一人で泣くことだけは止めて欲しい。心が痛い。そなたを失えばどうなるかと怖かった。私のせいだ。帝国に身を売ったと言われてるのだろう」

 そこまで聞いてあたしは懇願する。

「お願い。別れるなんて言わないで」

 エドウィンはすっと不思議そうな顔になった。

「どうして別れるのだ。愛を誓い合ったのに。我々は法の下でも神の下でも夫婦なのだぞ

「エドウィン・・・」

「アリーナ・・・」

 甘い空気があたし達を包む。キス。そう思ったとき扉が思いっきり開いた。二人して苦笑いする。クリスタだった。お父様とエルマ達を従えている。

「おじい様がお母様のドレスまた作ってくれるって。クリスタにも作ってくれるのよ。おじい様、お母様みたいにとってもお優しいの」

 愛娘がダイビングしそうになってエドウィンが寸前で止める。

「お母様はまだ怪我をしているのだ。飛び込めば傷口が開く」

「ごめんなさい」

 クリスタがしゅん、とする。その手を握る。

「お母様?」

「傷口が広がるぐらいなんてたいしたことないわよ。お母様は魔皇帝と言われるお父様の娘だもの。あっという間にふさがるわ」

「そうなの?」

「そうだ。皇帝陛下がとっさに傷をふさいで下さった。そしてこのお母様の実家に転移魔法を使って移動なさったのだ。ただ、いくら傷口が塞がっているとは言え仮縫いしてるようなもの。クリスタを抱きしめられるほど強くない」

「そうなの? お父様」

 あたしはびっくりして自分の父を見る。お父様は戦に精霊を使ったことはあるけど、他の人のために魔力を使ったとは聞いたことがない。

「まだ、完全に傷口はふさがっていない。あと、二、三回は治療が必要だ。しばらく実家におればよい。それが私のお前への償いだ」

 悲しい目をしてお父様は背を翻す。その背中に声をかける。

「ありがとう。お父様。大好きよ」

 最後の言葉で驚いたようにあたしを振り返る。

「アリーナ。私もお前を愛している。都合良く聞こえるかもしれないが」

「お父様はお父様、あたしはあたし、よ。大丈夫。幸せだから」

「そうか」

 かすかに微笑みを浮かべてお父様は去って行く。

「おじいさまー」

 その後をクリスタが追いかける。するとお供のワンコもついていく。

「いい孫とおじいちゃんね」

 その姿を愛おしげに見るあたしの手をエドウィンが握る。

「エドウィン?」

「ありがとう。私の所に来てくれて」

「今更、何言ってるの。最短距離でやってきてかっさらってきた人が。ありがとう、はあたしよ。人を愛する喜びを教えてくれた。知らない世界をしれたのはあなたのおかげよ」

 エドウィンの顔が近づいてくる。あたしはその愛の洗礼をそのまま受け入れた。

 それから、二回ほど、あたしはお父様の魔力で治療してようやく普通に動けるようになった。でも、やっぱりベッドの住人だったあたしは体力がなかった。慣れた道を散歩してはリハビリした。その時はエドウィンもクリスタも一緒だ。クリスタはビアンカを。あたしはエルマのリードを持って散歩する。道行く人々が挨拶してくれる。みんななじみの顔だ。

「姫は人気ものなんだな」

 ぶすっとした表情でエドウィンは言う。

「いつも同じ道を歩いていたからご近所さんと仲良くなったのよ。それぐらいで妬かないで」

 あたしがそう言って頬にキスをすると機嫌が直る。都合のいい人なんだから。あたしはクリスタと二人だけのアイコンタクトで言外の言葉を交わす。今度はそれに嫉妬するエドウィン。

「お父様だけ仲間はずれか?」

「女の子同士のやりとりはいつもあるのよ。ね。クリスタ」

「うん。お母様。お父様とはまた別の日に秘密のお話ししてあげる」

「秘密のお話? 何かあるのか?」

「ううん。ない」

 こけっ、とあたしとエドウィンは倒れそうになる。

「それじゃぁ。お父様には秘密の話はないじゃないか」

「お母様と一緒に作るから大丈夫」

 片棒を担がされる羽目になるあたしにエドウィンが意地悪そうな笑みを向ける。

「いい話が聞けるように期待してるよ」

「意地悪っ」

「お父様意地悪したの?」

 きょとんとしたクリスタの頭をなでる。

「クリスタはお父様の意地悪なところは似なくていいからね。さぁ。もどりましょう。大分道を歩いてしまったわ。夕食に遅れるわよ。ほら。エルマ。ビアンカ走ってお帰り。クリスタ、競争よ」

「負けないもん」

 母娘が競争して走る後ろをエドウィンが楽しげに見て歩いているのが解った。エルマとビアンカはもうとっくに帰って門の所で待っているはずだ。

「お母様は負けず嫌いだから手加減しないわよ」

「私だって」

 二人で楽しい親子をして幸せを堪能していたあたしだった。



「ここに移転魔法をかけた部屋を作った。クリスタ。いつでもおじい様のところへ遊びにきなさい」

 あの、厳しい魔皇帝が血のつながらない孫娘にデレデレ、というのは見てて面白かった。

「これ。何を見ている」

「だって。そんなお父様、初めてなんだもの。面白くて無くてなんなの」

「本当にお前は女にしておくのがもったいない。性別を変える魔術でもかけるか?」

 その言葉にすぐさま反応するエドウィン。

「それでは私の姫がいなくなります。おふざけもほどほどに」

「すまないな。お前には負担をかけすぎている。娘にしておくからそれで勘弁してくれ」

 勘弁! お父様からそんな言葉が!!

 あたしがびっくり仰天しているのを見ると流石に苦笑いする。

「そうびっくりするでない。私とて娘の幸せを願う一人の親でもある。政争の具にしたことは水に流してくれないか」

「お父様・・・」

「お母様、どうして泣いてるの?」

 クリスタが背伸びして頬に触れようとする。

「嬉しかったのよ。おじい様の言葉が。さぁ、みんなで帰りましょう。クリスタ。おじい様のところへ行くときはエルマとビアンカを連れて行くのよ」

「はい。お母様」

 きっちり答えると手を伸ばしてくる。あたしはその手を取る。もう片方の手をエドウィンがとる。

「婚礼の準備はこちらですませる。あちらにこれ以上迷惑をかけられぬゆえ」

 背中にかかった言葉にさらにびっくりするあたし。

「アリーナ。ゆっくり養生していなさい。その時になれば迎えをよこしますから」

「お母様」

「さぁ。おゆきなさい。皆、心配しているでしょうから」

「はい。お父様もお母様もお元気で」

 あたしとあたしの家族はまた本当の家路についたのだった。

「ただいまー」

 あたしとクリスタの声が二階の奥から聞こえてくるのを聞いて使用人がばたばたと集ってきていた。

「お帰りなさいませ。旦那様、奥方様、お嬢様」

 執事がそつなく出迎える。

「ここがよくわかったわね」

「皇帝陛下が一人でお見えになってこの図書室の奥の部屋とお城とを結ぶ魔術をおかけになられまして、帰ってこられたならここに集るよう指示なさいました」

「あら。お父様、孫のためにそこまで」

「いや、娘のためじゃないのか?」

「どちらでもいいわ。婚礼の準備はあちらですると言っていたからもう一度やり直す必要はないから安心して」

「奥方様、もったいない御言葉です。我々がしっかりとしていないため奥方様は・・・」

「ストーップ。それは言いっこなしよ。あたしはこの通りピンピンしてるんだから、心配は無用よ。さて、エルマ、ビアンカ。クリスタとお昼寝してきなさい。クリスタ、一人で行ける?」

「お母様、自分の部屋ぐらい自分で行けるわ」

 少し成長した娘の口調がなぜかあたしに似ていた。

「クリスタは姫によく似てきた」

 目を細めて娘を見る視線は優しい。けど! あたしに似てきたってーっ? まずい。それはまずい。慌てふためくあたしをエドウィンが抱き上げる。

「ちょっと。部屋ぐらい自分で行けるわよっ」

「クリスタと同じ言葉だな」

 くつくつ笑うと主寝室へ戻る。あたしを寝台に横たわらせると、しばらくあたしの顔を見つめる。

「エドウィン・・・」

 熱い吐息が触れるほど顔が近づく。だけど、ふいにエドウィンが顔を背けた。

「初夜まで待つ。仕事に行ってくる」

 そう言ってぱたん、と扉が閉まった。

「初夜って。今更ー!?」

 そんなものはとっくに無くなっているのにエドウィンは何かにおびえているようだった。気持ちが裏腹になっている。まさかまた流産すると思っているのかしら。あたしの中で疑問がわく。それともまた狙われるとでも? 考えに考えてもエドウィンの本当の気持ちはわからなかった。

 そして何時しか眠りに落ち、起きたときにはエドウィンが切ない瞳であたしを見下ろしていた。

「エド・・・」

「夕食だ。起きれるか?」

「ええ。それぐらいできるわよ。エドウィン何を考えているの?」

「何を、か? 別になんでもない」

 振り返ったエドウィンの瞳には先ほどの切ない色はなくなっていた。

「ねぇ。初夜って何。そんなもの、ないじゃないの」

 あたしかエドウィンの隣に歩いてこそっと言う。

「決めたのだ。婚礼の日までそなたに触れぬと。もう、そなたを危ない目には合わせない」

「って、初夜でも流れるときは流れるのよ」

「しっ。クリスタだ。その話はまた今度だ。クリスタ。今日の服は陛下から送られたドレスか?」

「うん。おじい様とおばあ様いっぱいドレス作ってくれたの。すぐ身長が伸びるからまた送るって。お母様。ドレスに合う?」

 あたしに無邪気な笑顔を向けてくれる。それが妙に嬉しくてくすぐったかった。

「ええ。とっても似合ってるわ。お母様が選ぶよりも似合ってるわね」

 自分のセンスのなさに嘆いているのを察知したクリスタはあたしの手を取る。

「お母様の選ぶドレスも素敵よ。クリスタはお母様のドレスが好き」

「いい子ね。クリスタ」

 空いている手で頭を撫でる。この子だけでもいい。子供は。エドウィンとクリスタさえいてくれれば。自分のお腹を痛めた子を産まなくてもいい。そう思う。

「アリーナ。また悪い癖が出ているぞ」

「エドウィン!」

 すぐにあたしの心を察知する夫にいらだつ。

「どうした。いつものアリーナらしくない」

「いつものっていつのことかしら?」

 そう言ってつん、とそっぽをむく。エドウィンが一人言を言うのを聞いたけど再現するのも嫌になってあたしは早歩きになる。

「お母様?」

「ああ。クリスタ。お母様少し頭が痛いからお父様と夕食を食べていらっしゃい」

 あたしはクリスタの手をエドウィンに引き渡すと以前使っていたあたしの部屋に移動した。

 ノックがされた。あたしは籠城のつもりで最初に入ったときの部屋にいた。執事が夕食を運んでくる。何も考えてないようでそうでない執事の顔を見てあたしは言う。

「大丈夫よ。今度は家出をしないから。ちゃんと夕食は食べるわ。くれぐれもエドウィンは通さないで」

「はい。奥方様」

 その先からエドウィンがやってくる。足音が大きい。彼は怒ると全てが大きな音になる。さすがは破壊王ね。そんなことをつらつら考えていると扉がばたん、と大きな音を立てた。

 主人の顔が怒っているのを認めると執事は夫婦げんかは犬も食わぬとばかり出て行く。それを見送ってからエドウィンは言う。

「どういうつもりだ! この部屋に来るとは。ここは客間だ。そなたの部屋ではない」

「客人で結構。初夜まで待つんでしょ。それならあたしはまだ嫁入り前の娘。夫となる予定の人の部屋で寝食を共にする必要はないわ」

 あまりにもツンケンしてるからエドウィンは戸惑っていた。

「アリーナ。どうしたんだ。急に籠城するだなんて」

「自分の胸に手を当てて聞く事ね。あたしは取り合えず婚礼まではこの部屋にいますからっ! さっさと出て行ってっ」

 側にあるクッションを投げつける。顔に命中したけど威力はない。

「次はナイフでも投げるわよ」

 本気で脅すと流石にあたしが怒髪天を抜く状態なのを察したのか出て行く。入れ違いにクリスタが飛び込んできた。

「お母様! 出て行っちゃいや!」

 あたしの胸に飛び込んで泣きじゃくる。

「大丈夫よ。今度は出て行かないから。お母様はまだ嫁入り前の娘なの。お父様と一緒に寝るのは決まりから外れていたのよ。あなたも大人になればわかるわ。いつだって遊びにいらっしゃい。またエルマとビアンカとボール遊びをしましょう。いい子だから夕食をちゃんと食べていらっしゃい」

「ほんとに? 明日ボール遊びしてくれるの?」

「本当よ。お母様がウソついたことあるかしら。最初にここを出たとき以外に」

「ないわ。お母様ウソはいわないもの」

「だったら、ちゃんと食べないと素敵なレディになれないわよ」

「素敵なレディにならなくてもいい。お母様がいなくなったらクリスタ一人になるわ」

「お父様がいるわよ。仲間はずれにしてあげないで」

「でも。お父様が何か悪いことを言ったからお母様怒ってるんでしょ?」

「そうね。そういうことだけど、お母様とお父様のケンカは犬もたべないの。その内仲直りできるわ。その時を待ってて。さぁ」

 扉の先に執事がいた。

「クリスタ様、参りましょう」

 丁寧に言って連れて行ってくれる。

「ありがとう」

 あたしが礼を言うと執事は軽く頭を下げたのだった。

 あたしはそう言って食欲もないのに必死で夕食を喉に流し込んだ。あの日もそうだった。まるで砂を噛んだような味がしていた。今日は、味がちゃんとしていたけど。すれ違うエドウィンとの事であたしは急に悲しくなった。涙をこぼしながら、仲良くなった料理長やコック達を思い出して料理を食べた。

 翌日、あたしは睡眠不足で起きた。結局、ベッドに入ってもその違和感からすぐに寝付けなかった。主寝室のクリスタとエルマとビアンカとエドウィンと一緒に眠るベッドが恋しかった。慣れた習慣が急に消えてあたしは枕を涙で濡らした。泣き疲れて起きると頭はがんがん割れるように痛かった。だけど、今日はクリスタと遊ぶと約束した。反故にはしたくなかった。必死で着替えて、クリスタを迎えに行く。クリスタはどっちで寝ているかしら。主寝室? 自分の部屋? 悩んでいるとエドウィンがやってきた。

「アリーナ。顔色が悪い。何かあったのか?」

「ああ。大きな声出さないで頭痛がするのよ。慣れない枕で寝て」

「頭痛! すぐに医師を!」

「大丈夫よ。今日はクリスタとボール遊びの約束をしているの。約束は破りたくないの。ただ、頭痛がするだけだから」

「お母様!」

 クリスタがボールを持って嬉々としてやってきた。エルマもビアンカもいる。だけどエルマだけがきゃんきゃん吠える。

「どうしたの。エルマ。そんなに鳴いて」

 あたしはしゃがんで喉を撫でる。それでも鳴き止まない。

「エルマ?」

 がんがん頭が割れるように痛い。まるで頭の中で鐘が鳴っているようだった。次第にエルマの吠える声も慌てているエドウィンの声も遠くになっていく。クリスタの悲痛な声を最後にあたしは意識をまた手放した。



 あたしはまた霧の中を歩いていた。だけど前とは違った。目の先にお母様がいたけど、それを見ないようにしてクリスタとエドウィンの声を探した。

「エドウィン! クリスタ!」

 名前を何度呼んでも返事がない。もう嫌われちゃったのかしら。しょっちゅう倒れる母なんて、妻なんて。

 何度も名前を呼んで探し回っても誰もいなかった。ついにしゃがみ込む。泣き虫姫の涙がでてくる。こみ上げる涙をしゃくり上げながら流す。すると、誰かの手の感触があった。エドウィン? クリスタ? 見えない手をさぐる。胸の上には暖かな人肌が感じられる。クリスタ? あたしは立ち上がった。すると、お父様がそこにいた。

「もう、気は済んだか?」

「お父様、解っていたの? 頭痛の原因を」

「それは向こうに戻ればわかる。何度も天に行くものではない」

 あたしは頷く。お父様なら出口が解るはず。

「解ったのなら、戻りなさい。あちらだ。出口は」

 やっぱり、お父様は知っていた。出口を。そして頭痛の原因もすれ違ってしまったエドウィンとの事も。

 出口に向かいかけたときに意外な声を聞いた。

“姫、何度も精霊の住む天に来てはいけませんよ”

「エルマ!」

 あの愛すべきあたしの精霊。エルマがそこにいた。思わず抱きしめる。感触が懐かしい。

”姫はすぐ泣いて逃げて。どれだけお仕置きすればいいんですかっ”

 懐かしいエルマの雷が落ちる。

「ごめーん。エルマ。許して」

 茶目っ気たっぷりに言う。今のあたしはあの時の、眠り姫だったときの心に返っていた。

”いけませんっ。さっさとおかえりなさい。そして次に来るときは旦那様と一緒に来るんですよ”

「エルマ・・・」

 その時、クリスタの泣きじゃくる声が聞こえた。はっとあたしは我に返った。

「クリスタ!」

 あたしはエルマを放り出して消えかかっている扉に飛び込んだ。

「アリーナ!」

「お母様!」

 瞼を開けると必死であたしを呼んでいる愛しい家族がそこにいた。

「もう。大丈夫。おじい様から怒られたの」

 かすれた声で答える。クリスタは泣きじゃくってあたしにしがみついている。

「あんまり強情をはるからいけません、って怒られたのよ。エルマに会ったわ。精霊の世界に行っていたの。今度来るときは旦那様を連れてきなさいって。すごい雷を落とされたわ。よかった。戻れて」

「あの時の頭の打撲は単なる打撲じゃなかったらしい。時間をかけてゆっくりとアリーナに忍び寄っていたんだ。陛下と医師で取り除いてもらった。もう大丈夫だ。すまない。意地悪な事をして。クリスタにそうとう絞られた。母様がこうなったのはお父様の責任よ、と。お父様なんて嫌い、と」

「クリスタ。聞いて。悪いのはお母様なの。お母様が強情をはったからおじい様にお仕置きされたの。お父様は悪くないわ。むしろ、心配していたの。また流れるかも、と」

「アリーナ!」

「クリスタにも知る権利はあるわ。クリスタ、聞いて。こっちを向きなさい」

「お母様?」

 珍しく厳しい声を出されてクリスタが涙を拭いてあたしを見る。

「あの婚礼の日、お父様をかばってお母様は刺されたの。それを助けてくれたのはあなたの弟か妹になる赤ちゃんだったわ。お母様はあかちゃんを宿していたの。でもその子はお母様をかばって代わりに死んでくれたの。だからお母様はここにいられるのよ。そしてそんなお母様がまた同じ事の繰り返しにならないか、とお父様は怖かったの。お父様にもこわいものがあるの。クリスタの涙でしょ。お母様のあかちゃんでしょ。それから・・・」

「アリーナそなた自身の事も、だ。私は怖かった。またアリーナが狙われるかと。子をまた流しはしないかと。私とそなたの子が流れたと聞いて私は悲しかった。だが、正妃様に本当に悲しいのは本人と言われた。そうなった女の悲しみは男では理解しきれない、と。だから守ることしか考えてなかった。婚礼の日までそなたと愛を交わさずにおればもうあのような悪夢は来ないのではないか、そう思っていた。だが、間違っていた。一分一秒たりとも危ないのはアリーナも私もクリスタも一緒だと。追い詰めた事を謝りたかった。私が強情をはったばかりに・・・。許してくれ。アリーナ。そして改めて言う。私の妻になって欲しい。クリスタの母になって欲しい。そして新たな子の母に」

「ああ。エドウィン。あたしの方が間違っていた。あなたの恐れを感じていたのに何もできなかった。あげくに癇癪玉を爆発させてた。あたしこそ、許して。ごめんなさい」

 横たわっていたあたしの頬に何かが流れた。それをエドウィンはそっと拭う。いつの間にかクリスタはいなかった。部屋の外でぐすぐす言っているのが聞こえる。大人の話から引き離すために誰かが外へ追いやったのだろう。クリスタの名を呼ぶ。

「お母様!」

 クリスタが飛んでくる。

「ストーップ。ダイビングはだめよ。何があるか解らないんだから」

「アリーナ」

「いないわよ。何も。何もないんですもの」

「そうか」

 エドウィンがほっとした表情をする。その顔の皮をつねりたくなる。こんなにあたしはエドウィンを欲しているのに、気づかないなんて。朴念仁もいいとこよ。

「あ、アリーナ。また何か怒っているのか」

「婚礼の日まで内緒です!」

 そう言って起き上がるとクリスタとエドウィンを胸に抱きしめた。

 あたしは頭の打撲から脳内に出血していたと医師から聞いた。おかげであたしの頭は今、ツルピカ。恥ずかしいのでカツラを作ってもらってつけているけど、違和感は否めない。

 なんだか恥ずかしくて外にも出て行く気がなくなる。だけどクリスタはそんなあたしを散歩と言って連れ出す。その時はエドウィンも一緒だ。家族で散歩する。

 途中の広場でボール遊びをエルマとビアンカにさせる。クリスタもよく走ってよく笑う。エドウィンがそんなクリスタを見てぽつり、と言った事があった。あんなに笑って走るクリスタは見たことがなかった、と。

 別の館のあたしと居城のクリスタの間を行き来してさらに戦もしていたのだ。それに、男親でも出来ない事もある。

 そう言ったら情けない男だな、と苦笑いしていた。

 今日はエドウィンも興が乗ったのかクリスタと追いかけっこしている。犬のボール遊びは忘れ去れている。エルマがボールを加えてきて吠える。

「エルマもビアンカも遊びたいわよね。ほら。ボールを取っておいで」

 ぽーん、とボールを投げる。二匹の犬はボールを追いかけ取り合いをする。

「仲良く取ってくるのよー」

 あたしが言うとビアンカが取ってきた。

「じゃ、今度はエルマね。ほら」

 あたしは犬と久しぶりにボール遊びに興じる。それを見たクリスタがエルマからボールを取ってエドウィンに投げる。ボールをしばらく見ていたエドウィンはそれを軽く投げた。二匹とクリスタが追いかける。クリスタはエルマにボールを取られるけど、今度はビアンカが取ってクリスタに渡す。どうやらエルマとビアンカは仕える主人を大まかには別々にしてるみたい。エルマはあたしが子犬の時から大いに遊んでいたから、あたしにボールを渡せばまた投げてくると思っているらしい。そのエルマがあたしの目の前にちょん、と座る。

「あら。エルマはボールよりこっち?」

 ペット用のお菓子を見せる。それに気づいた食いしん坊のビアンカも飛んでくる。

「ビアンカ。お座り。お手。お代わり。待て。待てよ」

 仕草で待てを続けさせてしばらく立ってから掌を見せる。そこには犬用のお菓子があった。ビアンカはすごい勢いで食べる。エルマは自分ももらえるのがわかっているのか、待っている。

「お母様。私にもさせて」

 クリスタがねだる。エルマは私から欲しいと言ってるけど、ビアンカに取られないかしら。そう思いながらお菓子をいくつか渡す。

「最初はお座りからよ。お手とお代わり。そして待てよ」

「はい。お母様」

 やっぱりエルマを押しのけてビアンカがクリスタの前に座る。だけど、クリスタは賢かった。ビアンカに食べたでしょ、と一言、言うとエルマの方に向いた。エルマは無事、お菓子をもらえた。

「よかったわねー。エルマ」

 あたしは自慢のペットの頭をなでる。そこにビアンカが入ってくる。

「はい。ビアンカも。ビアンカはクリスタを守るのよ」

 言ってることが解っているのかビアンカは一声鳴く。

 いつの間にかエドウィンが側にいた。

「さぁ。もう帰ろう。日が落ちてきた。真っ暗になる前に帰るぞ」

「はい。お父様。お母様も」

 クリスタが手を伸ばしてくる。あたしはその小さな手を持って三人と二匹で帰る。また幸せな日々が戻ってきていた。


               ☆


 帝国教会の鐘が鳴る。あの脳内出血の一件から半年。あたしの髪結いができるまでエドウィンとは寝室を共にしないで婚礼も延期していた。そして、今日、婚礼の儀式が再び行われる。あたしはまたあつらえてもらった白いドレスを着てエドウィンに指輪をはめてもらう。

 二度目の指輪だけどぴったりだった。すでにあたしの薬指には前回の指輪があったけど、ちゃんとした指輪でないとダメだ、とエドウィンが固執して、結局、指輪が婚約指輪と結婚指輪が増えることになった。そして愛の誓いをしてキスを交わす。久しぶりのキスは涙の味がした。そっとエドウィンが涙を拭いてくれる。そして顔を見合わせると前方を見た。

 今度は何も起こらなかった。二人でほっとする。

 クリスタもこの半年でまた背が伸びて髪の毛も伸びた。朝、結い上げた髪を見て喜んでいた。お母様みたい、と。

 クリスタは本当に愛らしくて可愛い子。どれだけ愛情を注いでも足りない。その妹か弟が今夜、授かるかもしれない。あたしは希望に胸を膨らませ、ようやく夫となったエドウィンに腕を絡ませて立っていた。

 久しぶりの主寝室であたしはカチコチになっていた。今更なのだけど、半年もご無沙汰。あけすけだけど。予感に肌が震える。でも、大丈夫かしら、とも思う。だけど、またどきどきして眠れない姫君に戻るのね、と緊張しつつ、嬉しかった。夫とのスリリングで幸せあふれる夜が待ちきれない。エドウィンが入ってくる。熱い視線に肌が震え、熱く燃えあがる。あたしは立ち上がって夫の首に両腕を絡ませる。熱いキス。すべての始まりはここから。


 止まっていた、眠れない姫君のおとぎ話がようやく動き出した。



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