第十話
「わぁ……」
一面に広がる水。それだけでも圧巻なのに、その水は風もないのに動き、岸に寄ったり離れたりする。
それが、僕が生まれて初めて目にした、「海」というものだった。
「イヤァうん、その素直な反応が見れただけでも連れてきた甲斐があったというものサ」
目の前の風景に心奪われる僕に、妙にしみじみとした様子でアイさんが言った。
「あ、っと、僕何か変だったでしょうか……」
「逆だヨ逆、初めて見るものを目の前にした実に正しい反応だヨ、キミ。だからこそ、ワタシには新鮮なのサ」
「えっと……」
「だってだヨ? 今じゃこの世界にはもう、この世界の事を知り尽くしたヤツしか来ないんだからネ」
それを聞いてなるほど、とアイさんの反応に合点がいく。つまり今の僕のようなリアクションは、アイさんにとっては滅多にお目にかかれないものという事だ。
「何しろ更新も止まって随分経って、新鮮な驚きなんてものを経験する機会もすっかりなくなっちゃったからねェ。他人の驚きでも、目にするのは割と嬉しいものサ」
「……もしかして、僕に付き合ってくれてるのはそういう理由なんですか?」
「それもある、とは言っておこうか。何しろキミはイレギュラー中のイレギュラーだ。観察すべき部分は山ほどあるし、今後同じケースに出会える保証もない」
そう言って少し悪い笑みを浮かべるアイさんは、あまり人を良いように捉えすぎるなと忠告してもくれているようで。それがかえって、この人を信じたいなと僕に思わせるのだった。
「は、入ってみようかな……あ、でも、それなら服を脱ぐべきなのかな……」
「ウーン、マァ濡れてもそんなに影響出ないケド。気分の問題というのは、とてもよく解るとも」
「それじゃあ……あ、でもどうやって脱ぐんだろう。装備を変える時はいつも一瞬で終わるから、よく考えたら脱いだ事ってないような……」
「そうだねェ、防具を全解除すればインナー姿にはなるけども。ウーン、ちょっと待っててネ」
僕の疑問にアイさんは少し考えて、アイテムボックスを開き何かを探し始める。自分の持ち物全てをこんな形で持ち歩けるんだから、アイさんの世界の人はすごいとつくづく思う。
「ヨシ、あった! 男物だからもしかしたら処分しちゃったカナー、と思ったケド、あってヨカッタヨカッタ」
やがてそう言ってアイさんが、アイテムボックスから何かを取り出す。それは、膝ぐらいの丈しかないズボンだった。
「それは……?」
「これはねェ、水着と言って泳ぐ時に着る服だヨ、青年。大分前に、イベント報酬で配布されたんだよねェ」
水着……一応、知識としてはなくはない。けれど現物を目にするのは、もちろんこれが初めてだった。
「あ、言っとくけどこれは一時的に貸すだけだから、後でちゃんと返してネー? 流石に限定入手の品をあげるほど、ワタシも気前良くはないからサ」
「あっ、はい! それはもちろん」
「ちなみにこれ当時としては結構性能も良くてサ、イベント後しばらくはレジェワス中が水着プレイヤーだらけになったんだよネー。イヤ懐かしい」
「は、はぁ……?」
相変わらず僕にはよく解らない話をするアイさんは一旦流して、差し出された水着を受け取る。それを装備してみると、途端に僕の上半身が裸になった。
「わ……ち、ちょっと恥ずかしいかも……」
「あーキミ、そういえば服すら脱いだ事ないもんねェ。マァ、慣れだよ、慣れ」
急な事に顔が熱くなる僕に、あっけらかんとアイさんが言う。……あ、アイさんの世界では、男性が上半身裸で外を出歩くのが普通なんだろうか……?
「折角だから、ワタシも久々に着てみるかな。女物装備は全種コンプリートしてるからねェ」
そんな事を思っていると、不意にアイさんがそう言った。
「え、アイさんも着るんですか?」
「フフフ、あまりの色気に悩殺されるんじゃないゾ、青年。ソレッ!」
言うが早いが、アイさんの装備が変わる。さすがに女性なので僕と違って胸は布に覆われてるけど、確かに下着みたいな姿だ。
うん……では、あるんだけど。
「……チョット。リアクション薄くナイ?」
「あ、はい……その……いつもの格好と、あんまり変わらないなって」
そうなのだ。何しろアイさんは機能性重視と言って、いつも布地の少ない装備ばかり身に付けている。それを見慣れてしまっているので、こうして水着姿を見せられても、大した違いがあるように見えないのだ。
「ハァ!? 失礼な、それじゃ普段のワタシがまるで痴女みたいじゃないか!」
「じゃあアイさんの世界では、ああいうのが標準なんですか?」
「そんな訳ないじゃないか、あの格好で往来歩いてたら確実に職質されるヨ!」
「……えー……」
ショクシツというのはよく解らないけど、とりあえずいつものアイさんの格好が一般的なものでないのは解った。……これ、大分理不尽な事言われてないかな?
「……とりあえず、僕は泳いできますね……」
「待ちたまえまだ話は終わってないヨ、先にこの完璧な美貌を誇る渚のヴィーナスたるワタシを褒め称えたまえ!」
まだ不満そうに喚き立てるアイさんはひとまず放置して、まずは水際に足を踏み入れてみる。すると足首から心地好い冷たさが伝わって、僕は思わず目を細めた。
一歩、また一歩、砂を裸足で踏み締めながら水の中に歩いていく。行き来する水が体を撫でる感覚はとても不思議で新鮮で、けれども酷く気持ちが良かった。
泳ぐ、とは言うものの、勿論泳ぎ方などはとてもぼんやりとした知識がある程度で。本当なら一生縁がなかった行為ではあるので、無理もないのかもしれないけれども。
その朧げもいいところの記憶を頼りに、まずは肩まで水に浸かる。何度も深呼吸し、頭まで潜る準備。そうして覚悟が決まったところで人生で一番といっていいくらい大きく息を吸い込んで、目を固く閉じたまま水の中に飛び込んだ。
「……!」
浮遊感。サンドワームの腹から投げ出された時の感覚と、少しだけ似ている。足が地面から自然に離れて、フワフワと浮き上がったようになる。
フワフワしているのにいつもより重いという、不思議な状態になった手を動かし、水を掻いてみる。手応えは感じるのだが、何しろ目を閉じたままなので、前に進んでいるかどうかは解らない。
水の中で目を開ける。その行為には、本能的な恐怖を感じる。
それでもその恐怖を、強い好奇心が上回って。僕は一度瞼を更に固くしてから、思い切って目を開けた。
「……っ……」
飛び込んできた景色に、言葉を失う。綺麗なんていうたった一言では、今胸に込み上げる感情を表し切れなかった。
どこまでも透明で、それでいて、青く染まった視界。頭上の水面は絶えずゆらゆらと揺れて、そこから差し込むいくつもの光が、青一色のはずの世界を色とりどりに映している。
あの場所にいるだけでは、決して見る事の叶わなかった光景。それが今、目の前に在った。
水を掻く。足を動かす。気付けば体はそうして、この場に順応するように動いていた。
そのうち水の中なのに、普通に呼吸が出来ている事に気付く。きっとこれもあの砂漠と同じで、戦っている時以外は常に快適に過ごせるように出来ているんだろう。
今だけはそんな、所詮この世界が作り物なのだという悲しみよりも、飽きるまでこの風景を満喫出来る喜びの方が勝った。
手探りで、好き勝手に泳ぎ続ける。時々色鮮やかな魚が泳いできては、僕の体をすり抜けていく。
「……あれ」
そうするうちに、水の中に何やら見えない壁のようなものがあるのに気が付いた。その既視感のある感触に、僕は初めて自分が自分自身を自覚した時の事を思い出す。
あの時はあそこから動く許可が僕になかったから、アイさんに助けられるまでどこにも行けなかった。とすればこの先はこの世界の神様が、アイさん達の世界の人ですら入ってはいけないと定めた場所なのだろう。
言うなれば、この世界の一番端。海という場所は、どうやらそういうものらしかった。
「ふは……っ!」
そろそろ一度水から出ようと、水面から顔を出す。岸を見ると随分と距離があって、大分夢中で泳いでいた事を実感した。
「アイさんも見失っちゃった……探しに行った方がいいよな……ん?」
その時不意に、空がかげり陽の光が遮られ始める。……これは、確か、レアエネミーが出現する前兆じゃなかったか?
「キャアアアアアアアアアアッ!!」
「!!」
直後、突然辺りに女の子の悲鳴が響く。それを聞いた僕は、咄嗟に悲鳴の聞こえた方向に泳ぎ出していた。
誰かは解らない、敵も解らない、僕に何が出来るかも解らない、けれど……だからって、じっとしてなんかいられるもんか!
そうして僕は岸に向けて、懸命に泳ぎ続けたのだった。




