第一話
——目が覚めた。
まさに、そうとしか言いようのない感覚だった。それまで霞がかっていた意識が、その瞬間、急激にクリアになった。
僕が、僕という存在である事を突然自覚した。解りづらいとは思うが、今感じているこの感情を言葉にするならそんな感じになるのだと思う。
両手を見る。生まれてからずっと、見慣れたものだったはずの僕の両手。
それなのに今は、何だかそれが、生まれて初めて目にするもののように見えるのだ。
「……僕の名前はアントンだ」
何故だかどうしようもなく不安になって、確かめるように僕はそう口にする。僕はアントン。この街に存在する唯一の武器屋の一人息子。
花屋で働いているローラに密かに片想いしていて、どうにか気を引けないか考えてる。それから……それから……?
「……何で……これだけしか出て来ないんだ?」
愕然とした。いくら思い返そうとしても、自分に関する情報は、たったのこれだけしか出てこなかった。
だって、生まれてから今までの人生は? 普段自分が、何をして生活しているかは?
母親は? 友達は? 父親の事を何と呼んでた? 好きなはずのローラの顔は——?
氷水を、頭から被せられた気分になった。何も解らない。僅かな、それも、申し訳程度の走り書きのような情報以外、自分の事が何も解らない。
「そ……そうだ、なら直接会いに行けば……!」
藁にも縋る思いで、僕はそう言った。父親かローラ。せめて二人のどちらかと会えれば、この不安も少しは軽くなるかもしれない。
幸い、武器屋と花屋の場所は記憶にあった。そこに行けば、必ずどちらかとは会えるはずだ。
「よし、まずは武器屋に……!」
そう思い、武器屋へと歩き出そうとする。一歩目、二歩目は問題なかったのだが、しかし。
「あ……あれ?」
それ以上、前に進めない。見えない壁に阻まれて、出る事が出来ない。
慌てて別の方向にも行こうとしてみる。けれどこれも、数歩もいかないうちに止まってしまう。
何度も何度も、辺りを行ったり来たりする。そうするうちに、自分が、ごく限られた範囲の中しか動き回れない事が解ってきた。
「……何で……」
胸に広がる絶望と共に、その場に崩れ落ちる。ここから動けない。自分の事も、ろくに解らない。
一体何なんだ。どうしてこんな事になったんだ。僕はこれから、一体どうすればいいんだ。
「……あっれェ、何コレ? バグ?」
……その時だった。そんな声が、頭上から降ってきたのは。
のろのろと、誘われるように顔を上げる。すると、僕を見下ろす銀色の瞳と目が合った。
「……っ」
一瞬、思考を奪われた。そのくらい、その女性は美しかった。
群青色の、ウェーブのかかった長い髪。涼やかな印象を与える二重の銀目の中には、小さな星が煌めいている。
肌は抜けるように白く、その中に浮かぶ、鮮やかな薄紅の唇が印象的だ。この世に女神がいるとしたら、まさにこんな感じなのではないだろうかと思う。
「ふゥむ。まさか今更こんなチョイ役モブにイベント追加でもないだろうし、て言うかもうサ終間近だろうし?」
彼女は僕を見つめながら、何やらよく解らない事をブツブツと呟いている。僕は最後の希望と思って、彼女に声をかけた。
「あ、あの、すみません! 助けて下さい!」
「へ?」
僕の懇願に、彼女がぽかんとした顔になる。今自分が何を言われたのか理解出来ない、まさにそんな目をしていた。
「ぼ、僕、ここから動けなくて! 何を言ってるか分からないかもしれませんが、自分じゃどうする事も出来なくて!」
「……ン、あー……?」
それでも負けずに、僕は彼女に現状を訴える。けれど僕が喋れば喋るほど、彼女の困惑は深くなっていくようだった。
「う、疑ってるなら証拠を見せます! ほら! ほらぁ!」
更に見えない壁を押しまくり、自分が嘘を言っていない事をアピールする。そこまでしたところで、彼女がおもむろに長い溜息を吐いた。
「あー……ウン。シンギュラリティってェの? アレってマジであるンだねェ……まさかこんな過疎地で、直にお目にかかろうとは……」
「え……?」
「あーいや、こっちの話。そういう事なら、青年、キミは実に運が良かったと言わざるを得ない。何故ならキミの悩みを解決出来るのは、ワタシくらいしかいないだろうからね」
「……! ほ、本当ですか!?」
彼女の言葉に、思わず顔に笑顔が浮かぶ。ま、まさか、本当に助けてもらえるなんて!
「じゃあ、まァ、ひとまずそこにジッとしていてくれたまえ」
そう言うと彼女は、僕の頭上に手をかざした。すると僕と彼女の手の間に、紫に光り輝く何かの文字が現れる。
それは僕の見ている前で目まぐるしく変化し、書き換わり、その形を変えていく。その度に体の奥底に、何だかむず痒いような痺れが走る。
「……よし、こんなところかな」
やがて彼女がそう言うと、光る文字がフッと消えた。……不思議と何だか、体が軽くなったように感じる。
「さァ、立ち上がって歩いてごらん。プログラムを弄ったからね、どこへでも自由に行けるはずだよ」
そう促され、僕は立ち上がり壁のあった方へ一歩を踏み出す。……通れる。さっきまで何をしても通れなかったのに、今はすんなりと見えない壁の向こうに行く事が出来る。
「……歩ける……」
思わず、目頭が熱くなった。当たり前のはずの事が、こんなにも嬉しいだなんて思わなかった。
「歩ける、普通に歩けます! 本当に、本当にありがとうございました!」
「ふふン、もっと褒め称えたまえ。自称カミサマであるこのワタシを」
「えっ、か、神様!?」
胸を張り得意気に口に出されたその言葉に、僕は驚いてしまう。た、確かに人間離れした美女だし、おまけにすごい力も持ってるし……。
ところが、そんな僕の反応に、彼女は呆れ顔になった。
「おいおいキミ、さては騙されやすいタイプだな? そんなんじゃこの先生きてけないぞゥ?」
「え、え? じゃあ嘘?」
「だからさァ、言ってるじゃないか。『自称』カミサマってサ」
そう言って「やれやれ」とでも言いたげに肩を竦める彼女に、今度は僕がキョトンとなる。……すごい力を持っているのは確かだけど、何だかこの人、よく分からないな……。
「まァ、正直なところ、キミは本当に運が良かったよ。本物の神様に見つかる前に、ワタシに見つけてもらえてサ」
「本物の……神様?」
「そう。この世界を創造した神様は、キミ達が自由にモノを考え、好きに動く事を望んでいない」
「それは……」
それは、一体どういう事だろう。疑問を抱く僕に、彼女は更に続けた。
「キミ達は装置なんだよ。ワタシみたいな、外の世界からの来訪者を楽しませる為のね」
「装、置……?」
「装置が自由気ままにあっちこっちに行ってたり、仕事をしなかったりしたら仕組みが成り立たないだろう? だから装置ってのは、余計な事を一切考えないように作られるのサ」
事もなげに言い切られた言葉に、金槌で頭を殴られたような衝撃が走る。つまり僕は、突然色んな事を忘れたりここから動けなくなったりしたのではなく、そういう存在である事にこれまで疑問を抱いていなかっただけという事になる。
最初から、そういうものとして作られた命。そんなものが、果たして人間と呼べるのだろうか。
「正直ワタシもこの世界に来て長いけど、キミみたいなケースは初めて見た。大ッ変興味深い。そこで、だ」
すると。呆然とする僕に、彼女が人差し指を突き付けた。
「キミ、ワタシと共に来い。そして、その生き様をワタシに見せてみろ」
「……え?」
「キミは知らないだろうけどね、この世界はいつ終わりを迎えるか解らない状態にある。そんな中でキミが目覚めたという事実に、何か運命めいたものを感じてならない」
大仰に、芝居がかった様子で彼女は言う。それは凍りかけていた僕の心を、震わせるだけの何かがあった。
「もちろんタダでとは言わないサ。この世界の事で知りたい事があったら答えられる範囲で答えるし、キミの目覚めを神様に知られないよう手を貸してもやる。至れり尽くせりだろう?」
「……嫌だと言ったら?」
「キミは目覚めた事が神様にバレて、修正を受ける。そして元の装置として、世界が終わるその瞬間まで、何一つ変わる事のない日々を過ごし続ける。ワタシはまあつまらない結末だとは感じるが、それだけだね」
そんなの、選択の余地がない。何も考えず与えられた仕事をするだけの日々は、確かにとても楽だろうけど。
今の僕には、そんな日々に戻る事が、とても怖くてたまらないんだ。
「……なら、行きます。あなたと共に」
「よろしい、懸命な判断だ、青年。ワタシは嬉しいよ」
「僕にはアントンって名前があります。あなたは……」
「ワタシ? そうだなァ、ユーザー名はLeiraだけども……」
僕の問いに、彼女は腕組みし考える素振りを見せる。そして、しばしの後にこう言った。
「『アイ』。目に見えるのに存在しない虚数。ワタシの事は、そう呼んでくれたまえ」
これがアイ——『自称カミサマ』と名乗る彼女と僕との、初めての出会いだった。