32 岩永仙(2)
自慢じゃないが、俺は切り替えの早い人間だ。でなきゃ『憑依』なんてできない。
極限まで自他を客観視するメタ思考。他人を理解するために限界まで自我を殺す時もある。人を騙すにはまず自分からだ。自分を騙すには、自分を客観視できてなきゃいけない。現状を把握できれば切り替えなんてすぐだ。
だから、これが今日じゃなければ対処できた。
今日、今、この瞬間でなければ。あるいは一時間後とかでも問題なかったかもしれない。負け惜しみでなくそう思う。
『戦争』の香りに疲弊して、ちょっと落ち込んでいる今でなければ。
「松山ぁ……」
甘えた声を出して俺をテントの中に誘う岩永の瞳は、真っ赤に染まっていた。
いつの間にか。そう、そもそも俺が入ろうとしたテントは女子用に当てがわれたテントだった。何故か。
無意識だった。俺はもう休もうと思って足を動かしたはずだった。向かうのも当然男子用のテントのはず。常識的に考えればそうなのに。
『魅了の魔眼』。この時の俺はその色香に当てられて、正常な判断力を失っていた。真っ赤で妖艶な瞳で見つめられると、どうしても逆らえなくなる。
視線だけじゃない。匂いも、俺を引く手からも、危ないフェロモンでも出てるんじゃないかってくらい艶めかしいうなじからも目が離せない。
俺は最初から淫魔に誘われて足を動かしたのだ。そう理解した時にはもう手遅れだった。
「岩永……」
天幕の中には寝台が二つあった。男子用のテントは雑魚寝なのにこちらは随分と待遇が良い。
岩永は寝台の片方、シーツと布団が敷かれた方に俺を誘った。まだ温かい。きっとついさっきまで岩永が寝ていたベッドだ。
ほとんど密着して隣同士に寝台に腰掛ける。俺は彼女にされるがままだった。
「松山……どこ、行ってたの。ずっと傍に居るって……離れないって、言ったのに……!」
強い口調とは裏腹に、甘えた声で岩永は俺にしなだれかかってくる。俺は全身を強張らせた。彼女を傷付けてはいけないと、心の底からそう思った。
「ご、ごめん、岩永……ちょっと、呼ばれて……」
俺はもともと暗示とか催眠の類にかかりやすい。思い込みが激しいからだ。
ナインステイツで岩永が初めて『魅了の魔眼』を使った時も、俺は彼女のためなら死んでも良いとさえ思えた。
「……私より、大事な用事……?」
「そんな訳ない! 岩永より大切なものなんてないよ……魔王軍が来たんだ。俺は、君を守るために……」
「あ、へへ。そう、そうよね……松山は、私のだもん……」
俺が約束を破ったからだ。
俺の脳の冷静な部分がそう推測した。メタ思考はこういう時に便利だ。『魅了』に逆らえている訳ではないけれど、冷静な思考が出来なくなっている訳じゃない。
岩永はもともと不安定な状態だった。日々思考を侵す『祝福』に抗いながら、どうすれば仲間を傷付けないで済むか思案し単身ノーシーストにやってきた。孤独と、もう友達を傷付けないで良い安堵と。とにかく不安定に安定した状態だった。
その均衡を崩してしまったのは俺だ。
岩永の愚痴を聞いて、不躾に弱みを暴いて、無闇矢鱈に彼女の心を土足で荒らした。無神経にも無理やり他人を理解した気になって必要な言葉をかけてやる──俺の悪い癖。
それ自体が悪かったとは思わない。
彼女は俺を心の拠り所として再度安定したはずだった。少なくとも孤独では無くなったはずだ。きっと、これから時間をかければ岩永は一人で歩けるようになっただろう。
問題はその後だ。
目が覚めてみたらそこに俺は居なかった。傍にいる、離れないと約束したはずの俺が。
今現在に限ればたった一人の心の拠り所に裏切られ、岩永は再度孤独を味わう──一度希望を見せられてから絶望させられたのだ。その心中は計り知れない。
その結果──
「──『祝福』が、暴走してるのか……?」
「ん〜?」
岩永の瞳は、チカチカと真っ赤に点滅していた。
よく見れば翼と尻尾も生えている。何で今まで気付かなかったのか。
『──私、淫魔なの。悪魔なの。魔物なの! ガシャドクロと戦ってた時、私、興奮してた。思う存分力を使えることに歓喜してた! このまま──努力もせずに安穏と暮らしてる城とか青の近くにいたら、いつか絶対「魅了」しちゃう……! 私が、私じゃなくなっちゃう……』
岩永が最も恐れていたはずの事態が起きてしまっていた。そして、それを早めたのは俺だ。
「どうしたの、松山。疲れてるの?」
「あ、ああ……もう、どうしたら良いか、わからなくて……」
岩永は艶っぽい唇に手を当てながら俺を上目遣いに覗き込んでいた。
「……おいでよ」
そのまま、岩永は寝台に寝そべって両手を俺に向ける。世界で一番愛する女に誘惑されているのだ。心臓がどきりと跳ねる。
俺の頭の冷静な部分はガンガンと警鐘を鳴らしているのに、身体は岩永に逆らうことができない。
多分、このままいけば俺たちは終わる。
岩永は思考の奥底まで『淫魔』に支配され、俺は完全な従僕に成り下がるだろう。それはなんて甘美で──誰も救われない末路だろうか。
気付けば俺は岩永を組み敷いていた。両膝は彼女の腰をがっちり挟んでいて、両腕の中には岩永の顔がある。
今、彼女との間にある数センチが俺のなけなしの理性だった。ほんの少しの刺激があれば容易く決壊するだろう防波堤。
どうする。どうすればこの状況を打破できる。無理だ。詰んでる。逆らえない。でも……せっかく岩永は『祝福』に呑まれまいと努力していたのに俺のせいで──
「……松山、さ」
「……っ」
「酷い顔」
──天上の美姫かと聞き紛うくらいに耳心地の良い声に理性を奪われかけた瞬間、岩永の顔が目に入った。
苦しそうな顔だ。瞳は赤と黒とを交互に行き来している。
間違いなく、彼女は俺の身を案じていた。自分も『祝福』と目に見えない戦いをしているのに。
それに気付いて、今すぐ襲い掛かりたい衝動を必死で堪える。
「何があったの。話してよ。今度は松山の番」
そんな俺の抵抗を嘲笑うかのように、岩永は俺の首に手を回して抱き寄せる。
でも、むしろ不思議と心が落ち着いた。乱れた髪の毛にくすぐったく顔を埋めて全身の肌を密着させながら、それ以上は望まなかった。
「戦争を、目の当たりにしたんだ」
ポツポツと、俺の口は弱音を吐き出していく。
「正直、あんなに恐ろしいものだと思ってなかった。俺は水辺の森でも、迷宮でも、チェイネンでも上手くやってたから。友達に褒められるのは嬉しくて。ここでも、上手くやれると思ってた……」
「……うん」
「でも、ここは多分、そういうんじゃないんだ。ここでは地力を試される。上手くやるとかじゃ、ないんだ。千人と千匹が戦って百人と百匹が死にました、はいおしまいって。そういう場所だ」
一対一なら、なんとかなる。
一対十でもなんとかしよう。
でも一対千なら話が変わる。チェイネンの時のように時間さえ稼げば良い訳ではないのだ。
ならば千対千をやるしかない。
そうなれば、勝敗なんて神のみぞ知る。誰がいつどう死ぬのかなんて予測できたもんじゃない。つまり、俺の関与できる余地がなくなる。
生きるか死ぬかは運次第の終わりのない戦い。それが戦争。
そんな不確かなものに命を預けるという事実に、俺はどうしようもなく怖気付いたのだ。
「怖い。怖ぇよ岩永。お前は正しかった……俺はまだ、し、死にたくない……」
多少の浅知恵をつけたところで、俺が『弱者』であることに変わりはない。
ケンケンや坂とは違う。俺は魔法を斬って一人で敵陣に突っ込めたり、アレを見てなお戦意を昂らせられたりするような怪物じゃあない。
岩永は黙って俺の話を聞いてくれていた。背中を優しく撫でながら、笑みさえ浮かべて。
「……そう、よね。怖いよね。松山にも、感情とかあったんだ。なんだか安心したわ」
「あ、ああ。当たり前だろ。怖いさ、怖い……あんなの、怖がって当然だ」
岩永の言った通りだった。俺の方が岩永より能天気で、馬鹿で、考えなしだっただけだ。
実際に戦場を目の当たりにした今、俺はどうしようもなく足が竦んで動けないのだから。
そんな俺に、岩永は優しい声音で囁く。耳元にかかる吐息のくすぐったさに思わず身を捩った。
「……私、てっきり松山は恐怖とか感じないんだと思ってた。だから分かった風な口を聞いてくるし、簡単に追放されたことも許しちゃう。無神経で失礼なやつ」
褒められているのか罵倒されているのか、よく分からなくて俺は反応に困った。
何より、この時の岩永の声音はこれまで聞いたことがないくらい優しいものだった。
「そりゃ……怖がりもするさ。俺も一応人間だからさ……」
「でも、逃げないんでしょ?」
「……え?」
岩永の言葉には何らかの確信が籠っていた。
「死にたくないとか怖いとか言ってるけど、逃げるとか隠れるとか、松山はそんなこと一言も言ってないじゃない」
それは──偶然と言えば偶然で、必然と言えば必然だった。
持ってる手札で勝負するのはゲーマーとして当然だ。例え敗色濃厚でも降りるなんて選択肢は取れない。
『明日からは切り替えないと。『統一言語』を試して、いや、魔法兵に志願するのはどうだ? 比較的安全そうだし──』
ちょうど岩永に会う直前も、俺は『どうすれば勝てるのか』を考えていた。それは俺にとって当然の思考回路で──
「あなたは──強いよ、松山愛人。さすが、私に説教するだけはあるわね」
──岩永はそれを肯定してくれる。ちょうど、つい一時間前に俺が岩永にかけたのと同じような言葉で。
心の奥底からじんわりと何か温かいものが広がってくる。それは心臓を鳴らし、喉を通って、目頭を刺激し嗚咽を漏らさせる。
『魅了』によるものじゃない。俺は今、間違いなく岩永の言葉に救われた──
「……?」
──直前に、気付いた。『魅了』によるものじゃない……?
すぐ真横にある岩永から淫気を感じない。愛おしさこそ感じるがどちらかと言えば親愛寄りの感情──見れば、瞳は元の黒色に戻っている。
「……お、おい、岩永……?」
岩永は気まずそうに視線を逸らした。俺が気付いたことに気付いたのだ。いつのまにか翼も尻尾も消えていた。
確定だ。『魅了の魔眼』の暴走状態が、終わっている。
「……いつからだ? いつから──正気に?」
「え、えっと、その……あんたの顔見て、酷い顔してるなって、思った時……」
「……わ、割と、序盤だな……? ええ、おい……」
涙は引っ込んで代わりに青筋が立ってくる。岩永は慌てて弁明した。
「あ、わわ……違う、違うのよ……松山が、私の『祝福』に耐えてて……松山が頑張ってるのに、私が呑まれてどうするのって……」
「馬鹿! じゃあさっさと解放しろよ、こんなとこ誰かに見られたら……ハッ」
遅かった。天幕の入り口から視線を感じる。
俺は油の入ってない扉みたいにぎこちない動きで首を回した。ギ、ギ、ギ。
「じーーー」
浜松だ。浜松神奈である。面倒なやつに見つかった。器用にも天幕から半分だけ顔を出して、見てはいけないものを見てしまったような顔で固まっている。
何がまずいって、今の俺がはたから見れば強姦魔──女子テントに忍び込んで眠っていたはずの岩永に馬乗りになっている状態だということだ。
「……ば、馬鹿って何よ! せっかく……酷い顔してたから、せっかく私も愚痴聞いてあげたのに!」
岩永も暴れ出した。どん! と勢いよく押されて俺は地面にひっくり返り、逆さの視界は俺を見下す浜松を映し出す。見下ろす、じゃない。見下すだ。軽蔑である。
「……最っ低ですね」
違う、誤解なんだ。俺の言葉は浜松にも、何故か機嫌を悪くした岩永にも聞き入れてもらえなかった。
「酷い顔」以降は正気だと知って読み返すと味わい深くなる。




