02
勇者は泣いた。
背骨を撫でた爪の感触はしばらく忘れられないだろう。油断した。これまで一度だって、魔物を前に油断したことなどなかった。にもかかわらず、勇者は容易く怪鳥から視線を外した。なぜ、急に。なぜ、今。どうして平気だなどと思ってしまったのだろう。
「ひぃん、ぴぇ……」
目を開けたとき、視界を埋めていたのは魔王の広い背中だった。はためくローブの広がりを無視しても、彼の背は広い。勇者とは、体格がまるで違う。
角が生えていること以外は人間とそう変わらない見た目をしているから、つい錯覚してしまうが、こいつは魔族である。魔族の王である。人間とはそもそも同じところがない。……今となっては勇者も魔族であるが、中身はともかく、少なくとも体格は人間の規格のままなので余計に差を強く感じる。
「マ、ぉん……」
声をあげ、しかし違和感が邪魔をした。そういえば……。先程まで確かに勇者の背後にいたはずの魔王が、なぜか今は目の前に立っている。
怪鳥の追撃から庇ってくれているのだろうか。バカバカしいと笑い飛ばすには惜しい可能性であった。
よく見れば、怪鳥の嘴を片手でわしづかみにしている。勇者の体を容易く引き裂いた爪に関しては、何をどうしたらそうなるのか砕けていた。
「ぇえ……」
こいつと同じになったなどと、絶対に嘘だ。何かの間違いだ。
勇者は確信した。同じであるはずがない。
「起きたか」
魔王が振り返った。
敵から視線を外し、背後にいる人間へ声をかける。同じ動作であるにもかかわらず、魔王の場合はまったく不安がない。木の葉を裂くように体を裂かれた勇者とは雲泥の差だ。
「起きたなら代われ。お前の飯だ」
言うなり魔王はパッと怪鳥の嘴から手を離した。途端に怪鳥が咆哮をあげる。
冗談じゃない。ふざけんな。
勇者は両の目からジャバジャバ涙を流し、目の前の広い背に跳びついた。もう離す気はない。万力のように締めつけて、その怪鳥を早く殺せとむせび泣いた。
油断からの死。あまりに情けない状況に、勇者の心はポッキリ折れてしまった。立ち直るには時間がかかる。
きっと慢心がそうさせた。どうせ死ねない。その通り勇者は死なず、裂けた肉体はすぐさま元の状態へと修復された。怪我をすれば死ぬ。病に罹れば死ぬ。人間だった頃は当たり前だった。その当たり前はもうない。
驚異的な回復速度に慣れてしまったことも要因の一つだろう。魔王城を目指す旅の中で身につけた、あらゆる事象へ適応する力が裏目に出た。
眠る隙が無い。食うものがない。疲れた。常に張り詰めた緊張状態でも折れず、最高のパフォーマンスを維持する。そうしなければ死んでいた。そのために、降り注ぐあらゆる事象に適応してきた。眠くても剣を振るった。腹が減っても走った。どんなに疲れていても思考を止めない。そういう生き方を続けていたから、死という緊張から解放された勇者は真っ先に警戒心を失った。
情けない。不甲斐ない。お前という奴は本当に、心の底から救えない。
「狩らんのか?」
「オ゛ぉ、びぇ……」
「食わんのか?」
「ンぅ、ぐぅ……ひぃん……」
泣き慣れていない。生まれてこの方、こんな不細工な声をあげたことはない。誰だ、このブス。……俺だ。
勇者はますます泣いた。
おいおい泣いていると、魔王が溜め息を吐いたのがわかった。深く吸い込んで、深々と吐き出す動きが背中から伝わる。
そんなにはっきり呆れんなよぉ……。
言いたい気持ちはあるものの、口を開けば出てくるのは不細工な嗚咽ばかりである。勇者は口をキュッと結び、代わりにギュッとしがみつく腕に力を込めた。
お前は俺より強いのだから、泣いている俺に優しくするくらいの優しさを捻出する余裕があるはずだとひたすら泣く。
そうしてぎゃーぎゃー泣いていると、骨が折れたり肉が千切れたりする音がして、魔王が「帰るぞ」と呟くのが聞こえた。
ふざけんな。まだ帰れるわけがねぇだろ。
勇者は胸中で毒づいた。だってまだ泣き止んでいない。泣くという行為が久し振りすぎるために、彼はまだ泣き止み方を思い出せずにいた。流れた涙は魔王のローブに塗りたくってなかったことにしているものの、次から次へと流れ出してくるので、涙そのものを止めなければ勇者はいつまで経ってもべちゃべちゃな泣き顔のままである。
こんな顔のまま帰れるわけがない。バカにされるに決まっている。なんなら永遠にバカにされ続ける可能性もある。それはあまりに恥ずかしい。
「おい、帰るぞ」
「ヴん」
「我の背からどけ」
「ヴぁーーーーーーッ!」
「……せめて意思疎通ができる言葉を吐け」
「ぴ」
なんだ、こいつ。魔王は改めて深々と溜め息を吐き出した。
魔王はもう何も言わず、勇者を背に引っ付けたまま帰ることにした。首を落とした怪鳥は足をつかんで引きずって運ぶ。食料調達だけで随分と時間を使ってしまった。そして疲れた。
もう今日は何もしない。呆れるのも怒るのも面倒で、魔王はすべてを投げ出して休もうと急いで帰った。
「おい、城に着いたぞ。いい加減にしろ。自分の足で立つこともできなくなったのか、貴様は」
「……」
「おい」
「……ぐぅ」
ぐったりする魔王の背で、泣き疲れた勇者は爆睡していた。
「……」
こいつ嫌いだ。
魔王は勇者の涙と涎でべちゃべちゃになったローブを脱ぐ。濡れた部分を勇者の顔面に押し当て、全身を包んで天井から吊るした。勇者は起きなかった。