05
なんだかどっと疲れた。
「……はぁ」
命懸けの賭けに出て、魔王を封印することには成功した。始まりの目的とは違ったがそれでも結果は出した。しかし、こんなはずじゃなかった、と思わずにはいられない。
目を覚ましたと思ったら魔族に変異させられ、次の瞬間にはぎゃあぎゃあ騒ぎながら掃除をしている。これまでの人生もなかなか濃密なものだったが、そんなものは今日の出来事に比べたら水のようなものだ。
……今の勇者を見たら、仲間たちは一体どんな顔をするだろう。
足元に転がっていた、おそらくはデッキブラシの柄を拾い上げ、元聖剣で削っていく。
女神様の加護には遠く及ばないけれど、それでもみんなの怪我は私が治す、といつも笑っていた聖女。箱入りで、料理も掃除も下手くそだった。治療と食事は両立できる、などと素っ頓狂なことを閃いては食事に薬草を混ぜ、苦くてとてもじゃないが食べられない代わりに食べさえすればとんでもなく元気になる何かを生み出していた。
誰よりも女神を尊敬していた彼女であればきっと、魔族になった勇者を欠片だって受け入れはしないだろう。
尖っていた先端を丸めたら、その辺の布を幾重にも巻き付ける。
みんなは俺が護るからお前は進め、といつも笑っていた戦士。人が好くて、善良で、貧乏くじを率先して引いてしまうような男だった。友人としては最上級で、しかし恋人には決して昇格できない。それでも相手を祝福できる男であった。魔王討伐という重責から解放された彼は、聖女への恋心を実らせることができただろうか。
誰よりもまっすぐな正義感を抱えていた彼であればきっと、魔族になった勇者を欠片だって認めはしないだろう。
布を細かく裂いたら、簡易的なハタキの完成だ。
困った仲間だよね、といつも眉を下げて笑っていた魔法使い。しっかり者で、料理も掃除も上手だった。治療と食事は分けようね、と聖女を料理から遠ざけるプロ。お人好しじゃ腹は膨らまないよ、と戦士の無償の善行を有償の善行にすり替えるプロ。彼女が仲間になってくれてからというもの、旅がうんと快適になったことを思い出す。彼女がいなければ、勇者達は魔王の元へたどり着けなかったかもしれない。
誰よりも魔族を憎んでいた彼女であればきっと、魔族になった勇者を欠片だって赦しはしないだろう。
「……」
人生を諦める覚悟を決めることは生半可なものではなかったけれど、きっとこれでよかった。永遠に出られない結界の中、魔王と二人きりでよかった。勇者は少なくとも、仲間に嫌われることなく彼らの人生から退場できた。
「……よし」
箒はどうするか。木の枝を折って代用するか。
……勇者もかなり大雑把な性格だった。多少の埃は見ないフリをしてきたし、食事は食べられるならちょっと火の通りが甘くても気にしなかった。聖女の食事も、戦士のお人好しも、魔法使いの魔族嫌いも、勇者にとっては笑って流せる程度の困りごとだった。生きてさえいれば、人生の凹凸はすべてかすり傷だと言いきるような男である。
楽天家だと叱られることは多かったけれど、楽天家であったよかったと、今なら思う。
「おい」
「あ? ……うわっ!」
魔王が大穴からひょっこり顔を出した。
「び、っくりしたぁ……心臓が止まるとこだぞ!」
「止まっても死なん。それより、我がここから捨てるから貴様がここまで運べ。往復するのは手間だ」
「え、ああ……お前、今どんな状態なの?」
「飛んでる」
「……飛べんのかよ」
「貴様も飛べるぞ」
「マジで!?」
完成したばかりのハタキを持って壁へ寄る。魔王は本当に飛んでいた、というか浮いていた。翼もないのにどうしてか、宙に浮いている。
「魔法か?」
「魔法はなしと貴様が言ったんだろう」
忘れたのか、と魔王が不機嫌な顔をする。
「魔法などなくても飛べる」
「マジかよ。魔族って便利だな……」
魔王城までの道中を思い出し、勇者は深々と溜め息を吐き出した。もし飛べたなら、旅はもっとずっと楽だった。どう考えても、魔王討伐というのは人間には向かないと思い知る。
「そんなに飛びたきゃやってみればいいだろう」
「え、そんなすぐできんの?」
「貴様も魔族の端くれになっただろう」
「わかった!」
勇者は大きく一歩、前へ体を投げ出した。ふわり、と押し寄せた浮遊感に口元をほころばせ――次の瞬間、体が潰れる嫌な感触を全身でしっかり味わった。
「何をしている」
上から降ってくる魔王の声に奥歯を噛みしめて、誤って土を飲み込んだ。
「飛べねえじゃねえか」
「飛び降りたのだから、そりゃ落ちるだろ」
「じゃあ言えよ、先に」
「知るか。勝手に落ちたんだろ」
かちーんときた。
立ち上がり、魔王に掴みかかる。体が弾けたり千切れたり、そのたびに瞬きの時間もかからず再生することも、慣れてしまって気にならない。
「何がしたいんだ、貴様!?」
「うるせえ! 今はとりあえずお前を殴りてえんだよ!」
「できるわけないだろう! 自分の脆弱性にまだ気づいてないのか!?」
「うるせえっ!」
がむしゃらに殴りかかって、その度に腕が弾け飛んだ。ただ殴られていた魔王もあまりのしつこさにカチンときた。それからはドロ沼の大喧嘩だ。
勇者の一撃は魔王に一切のダメージを与えられず、代わりに魔王の一撃は勇者の体をただの肉片にしてしまう。それでも一方的にならなかったのは偏に、勇者の執拗な追撃と諦めの悪さである。
喧嘩は夜になっても朝になっても終わらず、昼になってようやく終わった頃には、何もかもどうでもよくなって二人して地面に大の字に寝転がって三日ほど動かなかった。掃除も何もかも後回しだ。
「化け物が」
「化け物だが?」
「くっそムカつく……」
「こちらの台詞だ」
それがこの三日間、二人が交わした唯一のやりとりであった。