04
大人しくなった勇者へ、魔王はいよいよ掃除を開始すべく指示を飛ばした。
「掃除道具を見つけたら、貴様ちょっと城の外で木を切ってこい。鈍になったわけでなし、元聖剣でも木くらい切れるだろ」
勇者は反射的に握りしめたままの聖剣に視線を向け、絶叫した。
「急に大声出すなよ、うるせぇなあ」
狼狽しておろおろと挙動不審に陥った勇者を見ても、やはり魔王はあっけらかんとしていた。
「お、お前これ! 俺の剣が!」
光り輝いていた刀身は色を失い、同時に絶えず流れていた魔力も消えた。聖剣は、ただの剣になっていた。
「魔族になったんだぞ。聖剣なんて扱えるものか」
「俺の唯一の武器だぞ!?」
「だから、武器なんて持って何をするつもりなんだ、貴様は。せっかく頭を弾いて血の巡りを散らしてやったのに、全く効果ないな」
先ほど勇者の頭を爆発させた時と同じ、親指に中指をかけた魔王を見て、勇者は大袈裟に後退した。自分の頭が爆発する様を二度も経験するなどごめんだ。
「お、落ち着いてる! 俺は大丈夫だ!」
「そうか? なら箒と雑巾、終わったら木な」
わかったか、と念を押され、なんでこいつの言うことを聞かにゃならんのだ、と憤慨する気持ちを押し殺して勇者は何度も頷いた。聖剣が機能を停止してしまった以上、魔王に勝つことなど不可能になった。元より、聖剣があっても即死の未来しか見えなかった相手だ。仲間もいないこの状況で、死なない魔王へ殺意を抱くだけ時間の無駄だと、勇者はようやく本当に冷静になった。
言われた通り掃除道具を探しにトボトボ部屋を出て行く勇者を見送って、魔王は意外な気持ちだった。
生かしたことに正直、大した理由はない。ただ魔王は、ぎゃあぎゃあ騒ぐ勇者がうるさくてしかたなかっただけである。支離滅裂な思考で殺意ばかりを膨らませる死にかけの人間。魔王は人間という種の中でも、それが一等嫌いであった。
嫌いな相手にはとことん嫌がらせしたくなる。
死に急ぐならばどこまでも生かしてやる。勝てる道理のない相手に挑む理由は、どこの誰とも知れない神の祈り。乞われるままに剣をとり、確定している死に向かってあらゆる苦難を受け止める。
実にくだらない。
我を殺したいのなら貴様が来い。我が貴様を殺してやる。
これまで魔王の元を訪れた勇者はいずれも、他者に押しつけられた正義を己の正義と信じて疑っていない愚か者ばかりだった。だからじっくり時間をかけて殺してきた。丁寧に、殺さないよう細心の注意を払って、痛めつけ傷つけ追い詰めて。勇者などという幻想を欠片も残さず砕いて、殺すのはそれからだ。
代わりに、家族の仇討ちや名声への渇望、腕試しといった己の意思でやってくる勇者の仲間は、瞬きの時間すらかけずに殺してきた。魔王にできる、それが最大の称賛であった。よくぞここまで、よく死なずに到達できたものだ。大変だったろう、今、楽にしてやる。
そうして退屈な日々を鮮血で塗り潰していた。魔族を殺すことにも、人間を殺すことにも、飽きていた。それ程までに、命を奪うことは魔王にとって日常だった。
誰かを生かしたのはだから、本当に初めてのことだった。
不思議な気分である。
大した理由もなく勇者に血をぶちまけた魔王ではあったが、てっきり絶望して自殺するか、そうでなくとも罵倒してくるかなと思っていた。まあ、罵倒のほうはそれらしいことをしようとして失敗した風ではあったが。
神々に唆される程度の知能しかない哀れな生き物だと思っていた人間だが、一瞬前まで殺意を向けていた相手の言葉をあそこまですんなり受け入れてしまうほど素直な構造をしているのなら、なるほど神も弄びたくなるというもの。せっせと生贄の子羊を用意する人間の様を嘲笑って見ている神もまた、魔王に言わせれば素直な赤ん坊みたいなものだが。
それはそうと、魔王は掃除を始めた。床に散乱する瓦礫だとか何かの切れ端だとかを、見つけたばかりのデッキブラシで部屋の端にまとめていく。しかし、二往復もしないうちにデッキブラシの柄が押し負けへし折れた。デッキブラシに石像や壁の破片は荷が重過ぎたらしい。
「……」
えい、と。軽い気持ちで魔法をぶっ放した。部屋中のゴミをまとめて部屋の隅に追いやる計画だ――ったのだが。
ドガァンッッ! と、冗談みたいな音がして、城の壁がゴミもろとも吹き飛んだ。ガラガラと、壁に開いた大穴から破片が散る。
「……やっべ」
外から勇者のものと思われる悲鳴が聞こえてきた。見られてしまったらしい。
「あー……うん、よし」
風通しが良くなった、と解釈すればそんなに問題はないだろう。ここを主要な部屋にしなければいいだけの話だ。むしろここを玄関にすれば、複雑な構造をしている魔王城の出入りが随分と楽になることだろう。
うん、よし。大丈夫。何も問題ないな。
階段を駆け上がってくる足音が反響する。
「何して、……スゥー……何してんだお前!?」
部屋に飛び込んできた勇者はまず魔王を見て、それから頬をくすぐった風を追って、壁に開いた大穴を見て言葉を切った。大きく息を吸い込んで、腹の底から絶叫する。
動揺している気配もない魔王に駆け寄り、勢い余って肩を殴った。鋼でも殴ったような激痛の後、右手が負けて千切れたが、瞬きの内に再生したので見ないフリをする。
「なんで壁に穴が開いてんだよ! 掃除するんじゃなかったのか!?」
「掃除していたんだ」
「掃除で壁に穴は開かねえよ! 何した!?」
「魔法を……」
「加減ってもんを知らねえのか、お前は!」
怒りで真っ赤になった勇者の言葉を聞きながら、魔王はぽかんとしてしまった。あんまりにも普通に怒鳴りつけてきたことに驚いたのである。
適応力が高い。枕が変わると眠れませんって旅の荷物に詰めてくるような神経質な、融通の利かない男だとばかり思っていたのに。驚くほど素直で、肉体の一部が弾けて再生するという流れにも、二度目で早くも慣れてしまったらしい。
「なんで魔法を使ったんだ!」
「ゴミを集めようと思って」
「俺が箒を見つけてくるまで待てなかったのか!」
「デッキブラシがあった」
「じゃあ魔法は要らねえだろ!」
「折れた」
「……化け物かよ」
「化け物だが?」
魔王との会話がスムーズに進むことへの違和感よりも、呆れのほうが先に立つ。勇者は頭痛を覚えた。怒鳴るのをやめて別のことを言う。
「掃除ってのはな、上から下にするんだ。下を先に片付けても、上から埃が落ちてきたら二度手間だろ」
「なるほど」
神妙な顔で頷く魔王に、勇者はいよいよ溜め息を吐き出した。
魔王というのは、魔族の王で魔王城の主だ。掃除など自分でした経験はないのだろう。それにしたって、魔法でゴミを吹き飛ばすというのは大雑把が過ぎる。
「箒も雑巾もなかった。お前とりあえず、瓦礫とか大きいゴミを外に運べよ。俺が掃除道具を作ってやるから」
「作れるのか?」
「道具ってのは誰かが作ったから存在してんだよ。作れないなんてことはねえの。いいか、大人しく両手で抱えて外まで運ぶんだぞ、魔法はなし!」
びしっと指を眼前に突きつけて強い口調で念を押す。
「わかった」
魔王は素直に頷いた。てくてく歩いて瓦礫をかき集め、言われた通り階下へ続く階段を下りていった。