03
魔族は人間と異なり、生殖による繁殖をしない。生命エネルギーである魔素と穢れや澱みである瘴気が結びついて、勝手にポコポコ生まれるからだ。最初は血の詰まった肉袋のような状態で、周囲の魔素や瘴気を吸収しながら徐々に姿を変えていく。種族としての分類は、生活環境や食生活の似通った連中が似たような姿になり、同じような力を使うことから、人間がそれらしく呼び分けたことによる差でしかない。
魔族は孤独である。
母はいない。父はいない。兄も姉も弟も妹もいない。人間でいうところの、家族と呼ばれるコミュニティは存在しない。
友人はいない。仲間はいない。
己か、それ以外。あるのはそれだけ。それだけわかっていれば、それで成り立つ。
もしも、そういった名前の付いた誰かを必要とした場合、相手に自分の血を飲ませる。血を介して相手との繋がりをつくり、群れる。
血の繋がり。人間が生殖によって紡ぐ絆になぞらえた、魔族の絆の紡ぎ方。例えば姿の似た者を、例えば好みの似た者を、互いの血を交わすことで同族とした。己の中身を相手と同じにする。
それは親愛や友愛だけでなく、隷属の意味合いでも行使された。弱肉強食の世の中で、特に強く根付いたのは後者の意味であった。魔族にとってはこちらのほうが一般的であり、わかりやすい。
己の血を分け与え、己に似せて、支配する。魔族の血は、他種族であっても容易く変化をもたらした。
他種族、例えば人間に血を飲ませると、人間の肉体は魔族へとつくり変わる。変質する。
魔族の歴史の中で積み重なった、孤独でなくなるその術を、勇者も施された。親愛でもなく、友愛でもなく、けれど隷属とも違う。理由は語られぬまま、一方的に、勇者の肉体は変化を迎えた。
つまり今、勇者と魔王の間には繋がりができた。勇者は、魔族になった。
「お、お前! よくも俺を――」
「ああ、もう……うるさい」
ばちん、と魔王の指が勇者の額を弾いた。すさまじい衝撃だった。頭が爆発したかと思った。ていうか爆発した。頭が弾け、脳みそをカーペットにぶちまけた。しかし次の瞬間には、勇者の頭は元の頭に戻っていた。
「な、……え?」
「興奮して頭に血が上っているからうるさいんだ。落ち着きがない」
サーッと顔から血の気が引く。断じて頭を吹き飛ばされたせいではない。
「おおおお前! 俺の、俺の頭を……」
「シャキッとしろ。魔族になったのだから頭が吹き飛んだくらいどうということはない。……ったく、掃除したいんだよ、我は。あ、そうだ。貴様も手伝えよ」
あんまりにも普通に話しかけてくる魔王に、勇者は肩透かしを食らったような、変な気分だった。親しみやすさすら感じる。魔王とは、こんな奴だったのか。
「どうということはないって……頭が吹き飛んでんだぞ!? 脳みそぶちまけたの見てなかったのか!? 何でそんな平然としてんだよ!? なんだってんだ、お前は!」
「魔王だ」
「そうじゃな――いや、そうだけど! そういうことを聞いてるんじゃない!」
魔王とは、人も神もただの餌としか思っていないような、血も涙もないような奴ではなかったのか。少なくとも、勇者の前でさめざめと泣いて見せた神の使いはそう言った。助けてほしい、と言われたから頑張ってきたのに。いざ封印に成功したと思ったら、魔王は住居となる城の掃除をするという。なんという切り替えの早さだろうか。
勇者など、魔族になった、という事実すら受け止め終えていない。頭が爆発した、という衝撃に塗り潰され、受け止め損ねてそのままだ。だというのに勇者を変質させた張本人は、魔族になったからなんだ、と言わんばかりにケロッとしている。
まるで、魔王は現状を受け入れたと、そう言っているように見えた。
封印されたんだぞ。もう二度と外には出られない。退屈しようが飽きようが、永遠にここで過ごすんだぞ。そんなことを強いた相手と、どうして一緒に掃除をしようと思えるのか。
わざわざ血を与えてまで。瀕死のまま死ねない勇者など、その辺の床に転がして、適当にいたぶって遊べばいいのに。勇者は当然、そうなるものだと思っていた。ほとんど死んでいるような自分は、魔王の憂さ晴らしの道具としてここで永遠を過ごすのだろうと。
例のスクロールを発見し、魔王を封印できると知って、勇者は真っ先に覚悟を決めた。これを使うとき俺は、永遠の苦痛と共に生きることになる、と。人類の救済と人間一人の永遠だ。比べるまでもない。答えは出ていた。
魔王を討ち滅ぼし、人類を救済せよ。
ああ、やってやるよ。魔王が世界を滅ぼそうなんて、そんな馬鹿なことを考えているのなら。俺の永遠くらい、世界のためにくれてやる。
そう、そうだとも。魔王は世界を滅ぼそうと悪逆の限りを尽くしているはずで、勇者はそれを防ぐための犠牲に己を差し出すつもりだった。
……お前は世界を滅ぼそうとしていたのではなかったのか。
問えるはずもない問いを、しかし思う。目的を奪われ、同族からも切り離された。仲間だっていただろう。家族だって、……そう呼べる存在だっていたかもしれない。別れを惜しむ相手の一人や二人、いたっておかしくないだろう。数多いる魔族の頂点だ。血の繋がりは勇者の想像を遥かに超える数だったかもしれない。
それに彼は王だ。守るべき民がいて、付き従う部下がいて。彼らを想う気持ちに、人も魔もないのではないだろうか。魔族のことなど何も知らんが、家族や仲間を思う気持ちなら勇者にもわかる。悲しむ心はないのだろうか。
悪魔は泣かないという。ならば魔王も泣かないのだろうか。
では怒りではどうだろう。弱者だと気にも留めていなかった相手にむざむざ封印されて、腹は立たないのか。
どうしてそんなにも、普通に見えるのか。
「うるせぇなあ。貴様はとりあえず掃除道具を探してこい。我が見つけた箒は潰れていて使い物にならん」
悲しみでも、怒りでもない。普通の顔をした魔王が、普通の声でそんなことを言う。
「……本当に掃除するのか」
「するだろ。貴様、こんなところで生活できるのか?」
本気で信じられない、という顔をする魔王に、勇者は周囲を見回してみた。……なるほど確かにくっそ汚い。壊れていないものがないといっていいだろう破壊っぷりである。
掃除をしよう。勇者は素直に受け入れた。もうなんだか色々と面倒くさい気分だった。
「箒、探せばいいのか?」
「そうだ。あと雑巾」
普通の掃除道具だな、と思いつつ勇者は起き上がった。
ズタボロだった服はともかく、あちこち痛くて痛すぎてもうどこが潰れて切れて折れているのか判別できなかった体がすっかり調子を取り戻していた。どこも痛くない。綺麗なものである。さすがに服は駄目になったままだったが、魔王相手に恥じる気持ちなど持ち合わせない。素っ裸でないならとりあえず気にしない。
「なあ、これ……」
ただ一つ。べったり濡れていた血の痕が、そのまま文様となって上半身を深紅に這い回っていた。
「ああ、それか。綺麗に馴染んだな。我ながら、悪くないデザインだ」
「なんつー悪趣味な……」
傷自体は綺麗に塞がったが、負わされた傷がそのまま刻まれているようなものだ。魔王にとっては飾りでも、勇者にとっては恥でしかない。
眉根を寄せる勇者を見て、魔王は何が不満なんだと鼻を鳴らした。
「五体満足で綺麗にしてやったろう。礼の代わりとして、気に入る努力をしろ」
「礼は要らねえんじゃなかったのかよ……」
ぶつぶつと不満を漏らす勇者を、うるせぇなあ、と軽くいなして、魔王は面倒くさそうに胸元を指さした。
「我に挑んで生き残った人間は貴様だけだ。記念にとっとけ」
魔王を討ち滅ぼし、人類を救済せよ。
脳裏にこびりついた言葉が、ひび割れたような気がした。