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うっかり魔王と元勇者  作者: かたつむり3号
第一章 足並み揃えてバラバラ
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02


『どうか――』


 跪き祈る少女は、自身を神の使いと名乗った。

 淡い光を纏った姿は輪郭を朧げに見せ、ただ純白の翼ばかりが明瞭な娘であった。大粒の双眸からは絶えず涙をあふれさせ、雫は光に溶けていた。


『我らが女神様の祈りをお聞き入れくださいますよう、お願い申し上げます』


 勇者様、と。

 それが己を指す言葉であると、彼はしばらく気づけなかった。そんな風に呼ばれたことは一度もなく、またそんな呼ばれ方をする日が来るとは、終ぞ予想もしていなかった。


『どうか、その尊き魂の導きに従い、人類の救済を――』


 どうか、と祈りを繰り返し、彼女は消えた。返事は待たれなかった。言いたいことを言いたいだけ言って、返事も待たずに彼女は消えた。

 祈りであり、願いであり、しかしそれは命令でもあった。


 女神さまが勇者に神託を下された。

 世界を滅ぼさんと悪逆の限りを尽くしている魔王を討ち滅ぼし、人類を救済せよ。


 いつの間にかそんな話になっていて、周囲の声に背を蹴り飛ばされるまま、彼は勇者になった。

 善人。お人好し。多くの人が彼をそう称した。そしてそれはあながち間違いでもない。

 困っている人に手を差し伸べることに、理由を求めない男であった。求められれば手を貸すし、求められずとも寄り添うことができる。時も場所も人も選ばず、できうる限りの人助けを惜しまない。親切で、心根の優しい、素直な男であった。


 彼は勇者になった。

 魔王城を目指して旅を始め、志を同じくする仲間を得て、幾多の苦難を乗り越えて、彼らは魔王城にたどり着いた。

 その頃にはもう、勇者はただの優しい男ではなくなっていたけれど。傷つき、迷い、苦しみ、嘆き。正義ばかりを胸に抱く素直な男ではいられなくなっていたけれど。それでも目的は変わらずそこにあった。

 魔王を討ち滅ぼし、人類を救済せよ。

 天より下された命令はいつまでもそこにあった。


『あれ、マジで来ちゃったの?』


 ふざけた出迎えに鼻白んだ。腹も立った。

 しかし剣を抜くことも、戦いを挑むこともやめられない。彼は勇者で、目の前にいるのは魔王である。止まる、などという選択肢はなかった。

 心臓ではない、おそらくは心などと呼ばれている器官が、ぐしゃり、と潰れる音を聞きながら、勇者は叫んだ。討ち滅ぼさねばならない相手のことを、力の限り、腹の底から。



 駆け足で戻ると、勇者が立ち上がるのも苦労しながら真っ青な顔で魔王を呼んでいた。あんまり激しく大きな声を出すものだから、ただでさえ裂けている肉が傷を広げているようだった。せっかくかけてやったローブが赤黒く染まっている。

 ふざけんな。我の一張羅だぞ。

 魔王はちょっとムッとした。


「おい勇者、そんなに大声を出したら貴様マジで死ぬぞ」

「っ、……!?」


 さんざっぱら呼んでおいて、勇者は魔王が返事をしたことに驚いたらしい。大袈裟なほどに肩をびくつかせ、そのせいで傷口が痛んだのか体を折り畳んで悶絶している。怪我人であるという自覚が芽生えたようでなによりだ。


「落ち着きのない男だな、貴様」


 返事の代わりに漏れ出す呻き声を聞く。濡れたために纏わりつくローブが不快なのか、身を捩って抜け出そうと足掻いている。しかし傷口が激痛を発するばかりで、ちっとも距離を置けていない。哀れに思い、血を吸ってずっしり重くなったローブをはぎ取ってやる。礼はない。求めてもいない。

 なおも引かない激痛に呻く勇者を眺めながら、垂れた血を指ですくい、舐めてみる。美味、とは言い難い。

 女神に選ばれた勇者らしく、血液にも芳醇な加護が染みついている。それ自体はよくあることだ。気にもならない。しかしいかんせん雑味が多い。

 瀕死の人間である。死の気配が混じる人間は総じて不味い。

 肉の鮮度が落ちる。血の風味が濁る。魔王は死にかけの人間が何よりも嫌いであった。

 不味い、不味いと顔をしかめているうちに、勇者のほうは幾分か落ち着いたのか勢いを取り戻していた。鋭い視線が突き刺さる。


「魔王! どこへ行っていた、何をする気だ!」


 さっきも聞いたな、それ、と魔王は勇者のそばへしゃがみこむ。


「汚いから掃除をする。これから永遠に住むのに、こんなゴミだらけの城でやっていられるか。それより貴様、本当に死ぬぞ」


 かつて勇者に敗北した魔王の残留思念を用いた結界は、内部にいる存在の時もまた停滞させる。老いず、死なず。転送されてきた勇者と魔王は停滞した時の中で永遠を過ごす。聖剣で刺された傷もさっさと自己回復してすっかり無傷となった魔王はともかく、自己回復などできない死にかけの勇者は死にかけのまま、いつまで経っても死ねないのである。けれど人間が、そんな状態でいつまでも正気を保っていられるはずがない。寝ても覚めても纏わりつく激痛に耐え、抱く感情は殺意のみ。肉体は永遠に死にかけのまま、いずれ心だけが腐り落ちてしまう。


 早いところ治療してしまおうかと魔力を練るも、やはり聖剣を振り上げて抵抗される。せっかく取り上げたのに、早くも握りなおしてしまったらしい。

 面倒くさいなあ。魔王は素直にそう思った。

 この死にかけの勇者は、どうあっても魔王と殺し合いがしたいらしい。仲良くしようとは言わないがそれでも、永遠に時間を共有する相手に殺意ばかりを向けるのは不毛ではないか。飽きるまで待ってやるほど魔王は優しくない。なにより早く掃除を済ませ、生活環境を整えたい気持ちでいっぱいだ。


 うるさい、黙れ、なんとか言ったらどうなんだ。ぎゃあぎゃあと支離滅裂な怒号を吐き出す勇者を、魔王はいよいよ面倒に思った。

 しかたなく、勇者の顔の前まで持ち上げた自分の手首をねじ切った。血が吹き出す。飛沫はバシャバシャあふれ、とっさの反応などできなかった勇者の顔にもろにかかった。


「なっ――が、あ……!」


 驚いて半開きになった口に飛び込んできた血は勢いよく、吐き出す間もなく喉の奥へ流れていった。口を閉じようにも、魔王がそれを許さない。長い指が口の中へ突っ込まれ、歯を立てても構わず口をこじ開ける。喉を塞ぐ舌も絡めとられ、そのせいで勇者は魔王の血をがぶがぶ飲み込んだ。幼い頃、足を滑らせ落っこちた井戸で溺れた記憶が駆け巡る。あの時も今のように息ができなくて、けれど今ほど血生臭くはなかった。

 ややあって血が止まり、勇者は堪らず嘔吐いた。


「う、ぉ……げぇっ」


 貴様、貴様よくも。一体、なんの嫌がらせだ。

 よくわからないまま勇者はのたうち回り、血を吐きながら胃の中を空にした。そうして体力が底を尽くと、もう気力もなくなってじっとしていた。どれだけそうしていたか、のんびりした魔王の声が降ってくる。


「おい、そろそろだぞ。歯を食いしばれ」

「あ? 何が――」


 ――眼球が爆発したかと思った。雷にでも打たれたかのように脳みそがバチバチと弾ける。

 体中の血液が瞬きの内に沸騰したような錯覚に堪らず悲鳴をあげていると、腹の当たりが生温かく濡れた。よもや粗相をしたかとぎょっとするも、それにしては位置がおかしいと頭が冷える。――瞬間、内臓が引っくり返った。冷めたと思った血液が再び沸騰する。筋肉が溶けて一塊の肉団子になったかと思えば、血管という血管が束になって蝶結びされたような錯覚に襲われた。指先からは感覚が消え失せている。小指はきっと根元からぽろっと取れてしまった。

 これまでに受けたどんな攻撃よりも激しい痛みが全身を這い回る。毒の酸を浴びた時も、肺が潰れた時も、ここまでじゃなかった。


「これで楽になっただろう」


 どこが楽なんだ、俺は今まさに死にそうだ。死んだほうがマシだ。


「礼は要らん」


 誰が礼など言うものか。

 がばっと顔を上げた勇者は、はたと気づく。痛みが消えている。ぶわっ、と冷や汗が吹き出した。


「お、お前……俺に何をした?」

「我の血を飲ませた」


 ひくっ、と喉の奥が痙攣した。声が裏返る。


「お、俺はどうなった……?」

「? 魔族になったに決まっているだろう。そんなことも知らんのか貴様。まったく、不勉強だぞ」


 言葉はもう声にならず、絶望が胸を締め付ける。顔から血の気が引いたと自分でわかった。魔王の血を飲んだ。そうだ今、俺は魔王の血を飲んだのだ。

 底のない穴に落ちる。まさにそんな気分であった。

 

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