04
ぎゃあ、と潰れたカエルのような声がした。浴場からである。すぐに、どったんばったんと大きな音が続く。
あいつは風呂も静かに入れないのか。
魔王は青筋の駆けたこめかみを揉み解す。朝から晩まで、起きてから寝るまで、勇者はずっとうるさい。機嫌のいいときも悪いときも腹が減っても腹が痛くてもうるさい。魔族になって元気を持て余しているのは理解できるものの、それにしたって余り過ぎだ。もっと計画的に元気を消費してほしい。
二人しかいない世界で、必然的にぶつけられ続ける言葉を受けねばならない魔王にとって、耐えがたい現実である。無視していてもいつまでもうるさいが、返事をしてもそれなりにうるさい。
うるさい。
もうこうなったら、今日という今日はどうにかして黙らせてやろう。
「おいコラ魔王てめぇこのバカ! なんだ、これ。なんだよ、これ。消せバカ!」
バタバタと騒がしい足音が迫り、魔王の側で止まった。
これは振り向いて、何かを確認して、返答してやらねばならんのだろうな。
魔王はうんざりした。深々と吐き出したため息で苛立ちを散らし、ゆっくり勇者のほうへ顔を向ける。――すこーん、と表情が抜け落ちた。
「貴様は芯からアホだなぁ」
勇者は全裸だった。
すっぽんぽんでずぶ濡れのまま、タオルも持たずに立っていた。
本当に何事だ。風呂も一人でろくに入れんのか。
「いいから黙って説明しろ! これはなんだ!」
魔王は時々、勇者のことを心の底から憐れに思う。今がそうだ。
何があったか知らないか、どこかに脳を半分ほど落っことしてきたんだね。きちんとおしゃべりできていないじゃないか。可哀想に。どれどれ、頭か、いっそ上半身を吹っ飛ばして再構築させてやろうな。
落とした脳を探すより、吹き飛んだ上半身が再生する際に一緒に再生させたほうが早い。
そうと決まれば、よし、やるぞ。
魔王がゆっくりと肩を回している間にも、勇者は大騒ぎしながらしきりに己の腹をペチペチ叩いている。
腹が冷えたのだろうか。ずぶ濡れで出てくるからだ、馬鹿者め。
はあ、やれやれ。魔王は溜め息を長々と吐き出した。そんな魔王に、勇者は声を尖らせ噛みつく。
「お前ちっとも俺の話きいてねぇな!」
「聞いても損するからな」
「得するかもしれねぇだろ!」
それだけはない。
胸中でしっかり否定しつつ、魔王は話を聞いてやることにした。憐れんでいるときの魔王は寛容であった。
「我に何を説明してほしいんだ?」
「だからこれだよ、これ!」
ペチペチ、とやっぱり腹を叩きながら、勇者は空いた手で指をさした。しっかりと視線で追い、そこにあるものを確認し、魔王はまたも深々と溜め息を吐き出した。
「貴様の粗末な陰茎を見て、感想を述べればいいのか?」
「そこじゃねぇよ! あと粗末なってそれもう感想言っちゃってるから! 粗末じゃねぇから普通だから!」
「それは他人と比較しての意見か?」
「え……いや、……でも、普通くらいはあるだろ? 俺、勇者だし」
「そこのサイズで選ばれたわけではあるまい」
勇者は傷ついた。
比較対象など、子ども時分に見た父のものしかない。大浴場に通っていたのも同じ年の頃だけで、勇者に選ばれてからは足を運んでいない。幼い記憶では正確なサイズなどわかるはずもない。
旅の最中、入浴はゆっくり湯に浸かって疲労を溶かすものではなかった。こびりついた泥であるとか、返り血であるとか、浴びてしまった体液であるとか、ぶちまけられた内臓であるとか、そういったものをひたすら、とにかくこそげ落とす作業の時間であった。柔らかいタオルなどお呼びでない。毛質の硬いブラシで、皮膚がずる剥けるほど全身を擦った。そうでもしないと落ちないのだからしかたない。
「〜〜っって、そうじゃなくて! こっちだよ!」
勇者は改めて、己の腹部を指差す。
臍を囲うように、歪な紋様が刻まれていた。認めたくはないが、形はどうにも、魔王の二本角に似ていた。
どうして今の今まで気づかなかったのだろう。傷痕をなぞり這い回る深紅の文様とはまた違う、同じ色彩のそれは気づけばそこにあった。
「これ何!?」
「我の眷属だという印だな」
「眷属じゃねぇだろ!?」
「我の血で魔族になったのだから、貴様は我の眷属ということになるんだよ」
「嫌だよ!」
そう言われても……。魔王は困ってしまった。
「文句を言うな。死にかけていたくせに。我の眷属にでもしなければ、貴様は死にかけのまま生きていくことになったんだぞ」
「……そうだった。それはありがとう助かった。でも嫌なものは嫌だ!」
なんて我儘な男だろう。魔王は呆れ果てた。
「我の眷属だぞ? その印があるだけで、貴様は他一切の魔族から害されず、どころか手厚く丁重に扱ってもらえるのだぞ?」
何が不満だ。魔王は心からそう思った。
弱肉強食の魔族の世界で、すべてから大事にしてもらえる存在などそういない。無条件で、ただ優しくしてもらえる。脆弱な人間が生きていくのに、これほどありがたいことはないだろうに。
「俺とお前しかいない世界で、他一切の『他』にお前が含まれてない時点でこの印に意味なんてねぇだろ!」
「ふむ……」
そこに気づくとは、意外だ。珍しく正しいことを言う。魔王は素直に感心した。
「ふむ、じゃねぇよ! 消せよ、これ!」
「無理だ」
「なんでだよ!」
勇者は地団駄を踏んだ。湯冷めしてどんどん熱の抜けていく体に反して、頭にはどんどん熱がこもっていく。
お前が一方的につけた印であるのなら、お前が消せない道理はない。早く消せ、すぐに消せ、今消せ。熱に比例して、勇者の声はどんどん大きくなる。
しばらく黙って聞き流していた魔王であったが、いい加減うるさいので口を開いた。
「魔族の絆は互いの血を飲ませ合うことで成立する。しかし我と貴様の関係は一方通行だ。我の血を飲ませただけだからな」
魔王はもう溜め息を吐くのも面倒で、淡々と言葉を吐く。
「片道の絆は隷属の意味合いが強い。眷属に主人が所有印を刻むのは当然のことだ」
己に近くなった、強さを引き上げた存在を、むざむざ他者に奪われないように。唆されて、うっかり他者のものにされないように。
魔族にはない絆を結ぶことが根底にある以上、盗難防止の所有印は絶対に必要なものである。
勇者に血を飲ませたことに、そこまで大仰な意味合いを持たせるつもりはない。そんな気は毛頭ない。しかし、眷属づくりのそれがルールである以上、魔王は従う。そもそも初めての眷属で、その印を消す方法など心得ているはずがなかった。消してやりたくても、魔王にはできない。
「つまり……」
説明を聞き終えて、ようやく静かになった勇者は思案顔で言う。
「俺がお前より強くなって、お前に俺の血を飲ませれば……俺の腹の印は消えるんだな!」
勇者はバカだった。
それでは両者の間にきちんとした絆が結ばれてしまう。そうなると、魔王と勇者は同一に限りなく近い存在になる。それでいいのか。いや、そこまで考えていないな。魔王は考えることを放棄した。真面目に相手をしたら疲れるばかりなのである。
「あぁ、うん……そうだな。何億年かかるか知らんが、頑張れ」
「おう! 責任もってちゃんと俺のこと強くしろよ!」
「なぜそうなる……?」
話が急に方向転換してどっか遠くへ跳躍した。
「ここにはお前以外に魔族がいないんだから、全魔族を代表してお前が俺を大事にしろ」
優しくしろ。丁重に扱え。可愛がれ。
素っ裸でわけわからないことを堂々と言う、恥ずかしい男の姿がそこにはあった。誰だ、こいつ。
魔王はもう深々と吐き出すために酸素を吸い込むことすら面倒になって、曖昧に頷いた。
「あー……、うん。わかった」
よしよし、と適当に言葉を吐きながら素っ裸の勇者に自身の上着を着せてやる。風邪を引くぞ、と声をかけてやり、風呂場まで連れて行ってやれば、勇者は満足したのか素直に従った。
優しくすることも、丁重に扱うことも、可愛がることも、魔王には縁のない接し方であったが、相手は勇者である。気を遣ってやる気はなかった。不意打ちで陰茎をもぐような真似さえしなければ、まあいいだろう。
「出てくるときは服を着るんだぞ」
「任せろ~」
のんきな返事に脱力する。これから先、永遠にこんなやりとりを繰り返していかなければならないのだろうか。
考えるだけで気が滅入る。魔王は早くも慣れ始めてしまった「思考の放棄」を、またも実行することに決めた。




