プロローグ
失敗した。うっかりしていた。
人間という生き物はどこまでも生き汚いということを、失念していた。勇者という生き物はどこまでもお節介だということを、理解できていなかった。
薄暗い石造りの空間だった。元は白かっただろう大理石の内装は煤で汚れ、壁だけでなく天井付近にまで破壊の形跡があり、蜘蛛の巣状のひび割れが大渋滞している。あちこちに放置された芸術的な価値があったらしい石像は砕け、壁にかけられた絵画は悉く額縁が割れ絵も裂けている。
見るも無残な有り様だ。
「……チッ」
魔力を練る。しかし魔法を発動するより早く、喉元に剣を突きつけられた。
「何をする気だ……!」
放たれた言葉には怒気があふれ、しかし反して、声には覇気がない。
短く刈ってある金髪は血に濡れ、せっかくの端正な顔は擦り傷だらけだ。蓄積された疲労からか、澄んでいただろう青い瞳は濁り焦点も定かでない。左腕は折れている。纏っていた服はひどく破れ、彼は上半身のほとんどを露出していた。派手に散った血が、まるで肌を這う赤い文様のようにも見える。残っている服は血に濡れ、元の色が何であったのかわからない。
「ふむ……汚いな」
「何をする気だ、と聞いているんだ、魔王!」
「そう興奮するな。失血死するぞ、勇者」
あふれてなお冷めやらぬ怒気をぶつける勇者を前に、魔王はしれっと言い放った。
死ぬ、死んでしまう。こんな弱い勇者は放っておいたら死んでしまう。到底、魔王の相手になる器ではなかった。一目見た瞬間、確信した。
魔王城の最奥、玉座の間でくつろいでいた魔王の元へやってきた勇者は、あまりに弱かった。デコピンで殺せると魔王は確信した。だから言った。帰れ、と。勇者が出しゃばってくるほどのことはまだ何もしていない。おおかた、貴様らが信仰する神が勇み足で神託を寄越したのだろう。大丈夫。対等に争えるような勇者が生まれるまで待っても、人間を滅ぼし尽くすには時間が足りない。安心して帰れ、と。いっそ憐みの気持ちさえ込めて言った。本心からの同情だった。可哀想に、こんなに弱いのに。よくぞここまで、よく死なずに到達できたものだ、と。抱きしめてキスしてあげたい気分だった。
「黙れ。貴様を殺すまで、俺は死なない」
震える足で、勇者は剣を構える。もう握力が限界で、突きつけた切っ先はしかし定まらず揺れていた。それでも構える。それでも踏ん張る。朦朧とする意識の中で、魔王への殺意だけを研ぎ澄ます。
勇者だってわかっていた。玉座の間で、中央にクッションを敷き詰めて寝そべっていた魔王ではあったけれど。『あれ、マジで来ちゃったの?』なんて第一声で迎えるような魔王ではあったけれど。勝てないことくらい理解できた。この禍々しい深紅のたてがみのような髪をした、ねじれた二本角を持つ魔王には決して勝てない、と。確信した。魔王は圧倒的な強者だった。頬を撫でられただけで死ぬと確信した。それでも剣を抜いた。勝てないけれど、殺せないけれど、生かしておけない存在だった。
「わかったから、とりあえず寝ろ。貴様そのままじゃ、どんなに意地を張ったって死ぬぞ」
「俺は――」
おやすみ、という魔王の声を最後に、勇者の意識は途切れた。
魔王はくずおれた勇者の体を支え、握りしめている剣を手からそっと抜いてやる。触れた指先が焼けるが気にしない。勇者が弱いせいで、せっかくの聖剣も魔王の指先に火傷を負わせる程度の力しかなかった。
あれだけ警戒しておいて、こうもあっさり魔法で眠らされる勇者に、魔王はなんとも言えない気持ちを抱く。いっそ殺してやったほうが、この男のためであったかもしれない。ぐったりした勇者の顔を眺めながら、しばし思案する。
……正気ではない。
「……」
瓦礫の少ない場所まで移動する。
どこを見回しても汚いのでしかたなく破れたカーペットの中でも割と原型を残している場所に勇者の体を寝かせ、自分のローブを毛布代わりにかけてやる。
己もまた、正気ではないのだろう。簡潔に結論を弾き出し、思考を切り替える。
「さて、と」
魔法を使うとまた感知して起きてしまうかもしれないと思い、魔王は自分が今いるこの場所をひとまず探索することにした。