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舎人二章の譚



 荷車を引く馬車の音を、珍しいと感じなくなっていた。



 

 青々とした大地にはくるぶし程の草が生い茂り、何にも遮られていない、清涼な北風にその身体を揺らし、この頬に優しく身を傾ける。

 顔を少し上に傾ければ、混ざりけのない静かな青空。その切れ目は果てしなく先。青と白が混ざり合うようにして、その峻厳たる大山脈は姿を表す。頂には万年雪を残し、その優美な峰はいつまでも続いてるように思えた。



 名前を聞いたことがある。



「何だよ知らねーのかよ。いっつも見てるもんだから、知ってると思ってた」

 

 その山脈は主に三つの山から成り立っているそうで、右から、『アルトリア』『カイドマール』『ピース』というらしい。

 そしてその山脈には、空と大地の切れ目である他にも、切れ目の役目がある。


「この山はな、国境なんだよ。地図で見りゃ隣同士でも、実際はすごく遠い」

「あぁ」



 雄大で美しく、そして切れ目である。

 ジャンは知っているのだろう、その遠さを。


「俺は行く。あの山の向こうに」

「あぁ……」

 

 最初はそれが2人の共通点だった。

 ジャンはいい奴だ。いい人ではなく、いい奴なのだ。こいつと知り合ってから、俺はどれほど救われたか。

 正直、俺はこの山の先には、もうあまり未練はない。だが、こいつが行きたいと言っているのだ。俺は何処までも付き合おう。


「一緒に……行っていいか?」

「一緒に行ってくれんのか!?ほんとに!?お前がいれば百人力だよ!」


 こんなに喜んでもらえるとは驚いた、だが、それが当然の反応なのかもしれない。ジャンはこの旅の厳しさを知っている。だからずっと自分からは言い出せずにいたのだろう。


「よろしくな!ジン!!」


 未練はない。だが、少しの期待はあった。この旅で何か分かるかもしれない、この世界にどうやって来たのか、どうしてここに来たのか。

その謎が——————————






 俺はバカだ。

 大馬鹿だ。もっとやるべきことはあったというのに。

 激しく鳴り響く鐘の音

 悲鳴

 石畳を蹴る足音

 目の前の建物で響く聖歌

 赤く燃ゆる空を見て、懺悔した。



 

 またか。





:第一章『新世界より』






 夕方。10月某日。

 都内から少し離れた場所。23区外と言うのだろうか、そこに俺の通っている大学がある。といってもこっちは本校とは別のキャンパスで、本校は都心に居を構えている。


 学校説明会で、ろくに話を聞いていなかった俺がいけないのだが、このキャンパスは家から少し遠く、本校に通えるものだとばかり思っていた俺は、合格通知に次いで送られてきたパンフレットを見た時、自分のアホさ加減にしばらく思考が停止したのを覚えている。


 自分の通うこのキャンパスの校門からは、古びた外観に似つかわしくない、ガラス張りの建物が鎮座しているのが見えるだろう。去年出来たばかりの新校舎らしい。すごく目立っているので直ぐに見つけられると思う、もちろん、悪い意味で。


 本校改新の煽りを受ける形で、こちらにも新しい建物や歩道の補強、今まで1度も見たことなかった庭の手入れもされるようになった。


 だが、ここだけは変わらない。

 俺がこのキャンパスに入って唯一心から良いなと感じた場所。

 それが図書棟だ。

 キャンパスの中央よりずっと奥の、そのまたずっと左にある……つまりはキャンパスの端にあたる、この場所が俺のキャンパスライフを彩る唯一の憩いの場であり、また、終わりを示す場所でもある。

 いつものように窓際の席に居座り、木々の隙間からかろうじて見える校外の信号を見て思う。東京の端のキャンパス、その端にある図書棟の端の席に座っていると、自分という人間性までも、窓際に追い埋められているような、そんな気がしてならないと。


「まだ、残ってたんだ」


 そいつは爪楊枝のような腕に抱えた、大量の分厚い本を丁寧に、赤子でも触るかのように慎重に、俺の座っている6人がけの長机の中央に置き、自分は対面よりもひと席ずらして着席する。

 いつものことだ、対面に座ればいいのに、こいつは絶対にひと席ずらして斜向かいに座るのだ。間に本があるので、喋りにくいからやめてほしいのだが、これがこいつにとっては喋りやすい位置らしい。


「そ、それにしても、未だに馴れないな舎人トネリくんがここに居るのは。もっと……遊んでるイメージだったから」

「お前はもっと言葉を選んでくれるイメージだったよ」

「て、適当な表現だと思うけど」


 このガリガリ男は『社げんた』といって、この図書棟の、何というか、主人のようなものだ、いや、ヌシと言い換えてもいい。とにかく本の虫で、講義が終わってはこうして此処で本を読み耽っているらしい。もっといえば、げんたは講義がない日だって此処に本を読みに来ているので、ここがこいつの家といっても差し支えないだろう。故にヌシであり主人である。


「と、舎人くんはそれ、何を読んでるの?」

「六法全集」

「え……舎人くん法学部じゃないよね?」

「おう、と言うかこれは読んでない、目の前に開いて置いてるだけ」

「そ、そうだよね。『六法全書』の名前すら間違える人が、法学部なわけないよね」


 ん?

 

「……それで、なんでそんなもの置いているの?読んでもないのに」

「いやぁ、俺は本なんて読むタチじゃないし、それよか、ここに居残るための体裁っていうのかな?一応の格好をする為に置いてんだよ」


 ウソだ。いや、体裁というのは嘘ではないのだが、ここに居る理由は他にある、体裁を、取り繕っている理由は他にあるのだ。


「ふーん、そ、それで六法全書?こんなにたくさんある中から?一応の格好なんて言って、本当は格好つけてるだけなんじゃないの?」

「……」

「フフッ、まぁでも、舎人くんらしいかな、うん。舎人くんらしいや」


 何かに納得した様子のげんたは、積み上げられた本越しにクスクスと静かに笑っていた。案外笑顔の似合うこのガリガリ男は、うちの大学では相当な変わり者扱いされているようで、初めて見かけた時は、数人のチャラそうな男共に絡まれている最中だった。暴力は振るわれていないようだが、日に何度か、ガタイの良いヤンキー共に囲まれてはイジられているようだった。


 友だち曰く、ガリガリで無口な上に、いつも訳のわからない本ばかり読んでいるので気持ち悪がられているのだそう。それをげんたに伝えると「訳わからなくないよ!ドストエフスキーは人類文学における最高傑作だよ!!」と興奮気味に言っていたのを覚えてる。確かにそうなのかもしれないが、ロシア語で書いてあるその分厚い本を見て、ドストエフスキーだと分かるのは、いったいこの大学に何人いるのだろうか。というか、反論するところはそこでいいのか……。


「相変わらず面白いね舎人くんは。まだ、帰りたくないのかい?」








「……何の話だ?」


 日も暮れ始め、多くの窓が南向きに付いているこの図書棟は薄暗く、頼りなく点滅を続ける蛍光灯だけが俺たちを照らしていた。

 薄暗くても、高く積み上げられた分厚い本越しでも、分かる。今げんたはこちらを見ている。反応を伺っている。

 問いかけに、一瞬の間ができた。

 それは明らかに肯定を予感させる、意味深で意味ありげな含みを持たせる間。

 げんたはこういう男だった。ガリガリだが図太く、聡明であるが物腰柔らかく、妙に勘が鋭いが、それを隠してシラを切る。


「そっか、まだ5時だもんね」

「……。」


 げんたは少し間を置き、ゆっくりと席を立つと再びその小枝のような腕で、俺との間にある山積みにされた本を持ち、立ち去る。


「ま、幾らでも居ればいいさ。図書棟の施錠は僕だし、君がいてくれれば遅くなった言い訳も考えなくて済むしね」

「20時が最終だろ、それまでには帰るよ」

「……そう、無理しなくてもいいのに。じゃあ気をつけてね、今日は一段んと熱くなりそうだからさ」


 図書棟の施錠は警備員の役目だろ、何で鍵なんか持ってるんだ。

 俺は、大学を後にした。






 音楽が聞こえる。終わりを告げる、悲しい音楽が。




 図書棟に残っていた理由。あいつには、はぐらかしていたが、それは明確にあるのだ。

 

 家に帰りたくない。

 何を思春期の子供みたいなと、思うかもしれないが、俺にしてみれば、これは最後の抵抗なのだ。



 俺には兄がいる、強がりな小心者で、いつになっても大人になれない兄がいた。

 だが、そんな兄は中学に入ってから悪い方に変わってしまった。悪い先輩たちとツッパリだ何だと悪い事をしまくって、イジメ、盗み、暴力、強姦、俺からしてみれば、兄の小心者のナイーブな部分を、悪い事をしている=自分は強い人間なのだと、体裁を取り繕っているようで、痛々しくて弱々しくて、見ていられなかった。弱い犬ほど良く吠えるとは言ったもので、兄はそんなか弱い小犬だったのだろう。

 事実、兄はぽっきりと折れてしまった。


 兄が高校に上ったある日を境に、その所謂不良グループから締め出されてしまったようで、その時、この街もろくに歩けないような激しい辱めを受けたらしい。

 周りの人間は誰1人兄に手を差し伸べなかった。

 兄のことは特段慕っていたわけではないが、流石にその時は可哀想だなと思った。いや、兄のやったことを思えばそのくらい当然だと思う、ただ一つ、兄だけでなく、その不良グループが平等に罰を受けていないということに、俺は可哀想だと思ったのだ。


 そんなこんなで、兄は高校から今までずっと、引きこもりを決め込んでいるのだ。

 年齢から考えればもういい大人なので、そんな兄のいる家にどうしても帰りたくないのだ。まぁ、兄は普段部屋から出てこないので、顔を合わせることはなく、気配を感じるだけなのだが。






 ……同じ空間にいたくない。

 


 違う。

 今のは言葉の綾だ。語弊だ。間違いだ。

 俺に、そんなことを言える資格はないのだから。

 だから、最後の抵抗。

 子供のように情けなく、家に帰りたくない、などとのさばることが最後の砦なのだ。


 俺は帰路につく

 いつも通り、電車を乗り継ぎ降りた先、バスは使わずに徒歩でたっぷり時間をかけて。

 途中で渡る川を意味もなく眺めて、公園のブランコは、いつも通り空いている。

 錆びたカーブミラーをみたり、何の面白味もないコンクリートを眺めたり、ぼちぼちプラプラ、所在なさげに。




「ただいま」


 そんな逃避行も虚しく家に帰宅する。

 東京の閑静な住宅街、そこにある、そこそこ大きな家。庭付き、しかも大きなバンが3台も置ける車庫付き、3階建て。

 そんな家の隣にある、普通の2階建て一軒家に、俺は住んでいた。


 結局家に着いたのは21時ごろで、台所の上に置かれた晩御飯をレンジで温め直し、リビングで食べる。途中父親が風呂から上がってきて、世間話なんかをしたがあまり覚えていない。

 風呂に入る。いつもこの時間だけは欠かせない、嫌なことも風呂に入れば何とやら、ここでは明日の講義の持ち物なんかを頭の中で反芻する、文房具、メモ帳、パソコン、レポート、レジュメ。


 ドゴン、バタンバタン、ガン!!


 自分の頭上で音が鳴る。

 しばらくして、父親の怒鳴り声と……兄と思われる物音。

 いつものことだ、もうしばらくすると……ほらな、母親の怒声が響き渡る。近所では何と噂されているのだろうか?

 今は、そんなことどうでもいいか。

 俺は風呂を出て、さっとドライヤーで髪を乾かし着替えると、財布と携帯だけを持ち外の自販機まで早足で歩いていく。


 1時間だな、あの様子だと。肌寒くなってきた季節、ココア片手に公園のベンチへ腰掛けた。

 狭い夜空はいつも通り星なんて見えない。東京じゃ、こんなもんか。

 

二章カズアキ、お前は兄貴のようにはなるなよ」

 

(わかってるよ)

 いつも考えていた、自由意志とは何なのか?俺がやりたい事とは何なのか?


「大学へいき、いい会社に勤めて、お前は真面目な人間になってくれ」


 いや違う、これは俺の意思じゃない。もちろんこうなれば人生は安泰だろう。実際、俺は今いい大学に通っていると思う、だが、そこに通うことに俺の意志はあっただろうか?


「なぁこの後どうしようか?舎人、どっか行きたいとこある?」


 こんな質問ですら俺はまともに答えられた記憶がない。

 質問を変えよう。

 俺のやりたいことってなんだ?目標は?夢は?……思いつかない。いつもこうだ、茫漠とした不安に足を絡め取られていく。


 俺は死を待つ老人のように、呆然とベンチから動けないでいた。不安の種が開花する、足元に蔓を絡ませ夜闇を養分にその花を開花させる。

 あの時もそうだった、助けを求められても俺にはどうすることもできなかった、ただ、見ていた。兄貴……。

 俺は、ただ傍観者だった————————————————










 気がつくと辺りが騒がしくなっていた。

 音は、そう、先ほど歩いてきた方向。

 ざわざわと響く人の声、赤く光る空の真下には、家があった。


 紛れもなく自分の家が。


 人混みを確認する。

 近所のおばあさん、おじさん、知らない子供、大勢の大人。


「おい!まだ中に人がいるぞ!!」


 反射的に動いてしまった。

 それは家の2階の窓に、確かに人影を見たからだった。

 消防車の到着を待つべきだった、もう少し確認するべきだった。そんなことは俺の頭から一切抜け落ちており、ただ、反射的に崩れた壁から中へ飛び込んだ。


 「父さん!母さ、ゲフォゴホォゴホォ」

 

 ダメだ、息も出来ない。声なんてまともに出る訳が無い。視界が赤一色で、壁から出ていた炎は天井にまで届き、廊下など見る影もなかった。

 階段。最後家から出た時は、兄の部屋へ集まっていたはず。兄の部屋は2階の一番奥の部屋、つまり階段を見つければ……。

 だがそこにあったのは、階段と呼べる代物ではなかった。手すりは外れ、殆どが燃やし尽くされ炭と化していた。

 

 (くそっ!!どうすれば、どうすればいい!)

 



 ガタン


 物音がする。一階のリビングから。

 駆け出した、一心不乱で廊下からリビングへの扉を蹴破り中へなだれ込む。


 そこには……そ、そこには……何だこれ?

 黒い、塊。肉塊、黒焦げた、人の上半身?



 「ビィ、ヒュー……ビュ」




 は?






 轟々と燃える炎の中。俺は、立ち尽くしていたと思う。

 だが、疑問に思うべきだった。

 まだ崩れてもいないリビングのど真ん中で、上半身だけが転がっていることに。気がつくべきだった、丸焦げになっているにも関わらず、そいつの周りには、リビングの中心には、まだ火がついていないという事実に。

 

 俺は一瞬、意識を手放したと思った時には、倒れていた。

 ぼんやりと薄れていく視界には、丸々と太った巨体が見える。斧を手に持ち薄ら笑うそいつが見えた。


 どうすればよかったのか、俺には見当がつかなかった。どうすればこの結果を回避できたのか、もっとうまくやる方法はあったのか、もし今あの時に戻っても絶対に同じことをするだろう、それくらいはわかる。言い訳だ、この後に及んで。全く、嫌になる……。


 意識が薄れてきた。


 不安も後悔も消えていく。痛みはなかった、ただ、その景色を静観していた。そういえば、死ぬ時には走馬灯なんてものを見るなんて聞いたことがあるが、嘘っぱちじゃないか。

 だけど、まぁ、好都合かもしれないな、せめて死ぬ時くらい安らかな気持ちで……いきたいな。

 






 いや、もういいんだ、これが結果で受け入れるべき罪なのだから。


 

 これは俺の罪だ。傍観者だった俺への罰なのだ。








 音楽が聞こえる。終わりを告げる、悲しい音楽が。

 矛盾を抱える、始まりの音色が。


































 明るい。




 やめてくれ、眠いんだ。

 明日も講義だし疲れてるんだ、体が嫌に重くて、重くて……腕も上げられないくらい。






 あたりがやけに眩しく、さらに激しくぼやける。

 気がつくと俺は多くの人間に囲まれ見下ろされていた、1人の女に抱き上げられて。


 嘘だろ?俺は少なくとも65キロ以上はあった、なのにこの女は軽々と俺を抱き上げている。

 何やら話しをているのか?よく聞こえない。

 するといきなり、尻に大きな痛みが走った。


 なんだ!?これは叩かれているのか?尻を!?

 会ったばかりの女に尻を叩かれる。状況が状況なだけに戸惑い、激しく狼狽するのが普通の感覚なのだろうが、それとは別に、妙な気分になっている自分も確かに感じていた。

 何だろうこれ?エクスタシー?

 自分の気持ちの悪い一面に驚きつつも、やはり何回も食らっていると、流石に不愉快だ。


(他にも叩く場所があるうでしょう!?︎)


 そう言おうと口を動かすが、「あぅ…」口から出たのはそんな情けない母音のみだった。

 え?今の俺?俺か?喉がいうことを聞いてくれない、気持ちの悪い感覚だ。

 一度、歯医者にかかったことがあるが、その時の麻酔を思い出した。


 女は俺の声を聞いて満足したのか、尻を叩くのをやめ。違う女へと俺を手渡すと、何だか分からない液体へと俺を浸した、温度は人肌ほどのぬるま湯で、粘度はなく水のようでだったが、色は緑色をしており、なかなかに独特な匂いだった。そこに俺を首までつけ込みジャバジャバと体を洗う。

 そこで俺はこの恐るべき状況をやっと理解した。



 赤ん坊になっている。



 洗う傍ら、体は女の手にがっちりと固定されており、そのおかげで自分体をよく見ることが出来た。

 小さくなっている、まるで赤ん坊のように、いや、これは断言していい、俺は三色パンのような自分の足を見て、赤ん坊になったのだと理解した。







 何だよこれ、意味がわからない、俺は赤ん坊で、この女達に裸を見られ、尻を叩かれ、体をよくわからない少し匂う液体で洗われている。

 これを訳がわからないという以外に、どう表現すればいい!


「あ〜、あー!あうぅ」


 クソッ!声も出ねーしよ!どうすればいいんだ、誰か説明してくれ!!







 …………少し落ち着こう、深呼吸だ、ヤケになってもこの現実は変わらない。


(スー……ハー……)


 よし、いいぞ……そうだ。落ち着いて状況を整理すれば何かわかるかもしれない。



 現在地  →不明

 周りの人間→不明

 記憶   →不明

 味覚   →不明

 視覚   →軽微

 聴覚   →軽微

 嗅覚   →軽微

 触覚   →良好

 体    →赤ん坊



 控えめに言って、最悪である。

 何もわからない。分からないどころか、何も出来ないことに絶望感すら湧いてくる。

 周りを見渡したが視界がぼやける、色の落差で輪郭を判断しているような感じだ。


 この空間に、物は微かにあるということはわかるが、やはりぼやけていて上手く見えない。相当近づかない限り、はっきりとは見えないだろう。

 音も水の中で聞いているような、耳鳴りがひどい。ほとんど何を言っているのか聞き取れていない。だが日本語ではない、ということは分かる、あれほどまでに慣れ親しんだ言語だ、こんな耳でも聴き間違えるはずはない。


 このことを踏まえると、多分ここは日本ではないように思える。何か指標になるような物があればいいのだが、情報を集めようにもそのための器官が役に立たない。

 だが、必死になるほか選択肢はない、まだ開け切らない瞼を無理やり見開きあたりを見渡す。





 この空間には壁と屋根がある、そこそこ大きな部屋のようだ、左隣には大きなベッドが1つ、自分が浸かっているこの液体の入れ物は木?多分、桶のようなものだろう、相変わらずこの液体は臭い。

 周りには多分5人ほど人間がおり、そのうち3人は女だ。残り2人は距離が遠くて分からない。


 ダメだ、指標になりそうな物は確認できない、どころか、ますます状況が理解できなくなってきた。


 待て、左隣のベッド、さっきは気がつかなかったが、この上には女が1人寝ている。




 多分、この人が俺を産み落としたのだろう。



 ん?

 なぜそう思った?状況的に考えて、周りの女達が助産婦で、ベッドに寝かされている女が母親。そう思ったのか?

 いやだが、それも全てこの使えない五感で集めた仮定でしかない。

 常識的に考えて俺の意識はこの赤ん坊にある、ということはつまり体を縮められたと考えた方がいいのか?コ◯ンみたいに、何らかの方法で赤ん坊にまで体を縮められた、あるいは、赤ん坊に意識を植え付けた……。

 いやいや、常識的に考えると言ったのは自分じゃないか、そんなこと無理に決まっている、意識を見つけて植え付けるなんて、チ◯ッピーじゃないんだから、それに体を縮めるのも無理がある、それこそ、全身を入れ替えるなんて、しない限り……。





 だが、もし、この人が自分の母親だとしたら……。


 ズキン


 頭に鈍い痛みが走る。これは、黒焦げたこれはなんだ?

 俺は何だか無性に、自分を産み落としたであろうその人に、抱き上げてほしくなった。


「あー」


 手を伸ばした、ベッドの方へと、情けない声を上げながら。

 その人も俺の方に気づいたのか、うっすらと目の辺りに光る粒をためて、こちらへ両手を広げる。


 もう少し。


 その人の手が当たる瞬間、俺は抱き抱えられた、男だ。

 男は俺の体を布で包むと、その人から遠ざけるように歩いていく、離されていく。

 気がつくと何人もの人間にその人は押さえつけられ、叫んでいた。この使いようのない耳にも届く絶叫。

 それを聞きながら、俺を連れたその男と数人の助産婦は、部屋を出たのだった。






お疲れさまです。

また、お読みいただければ幸いです。

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