第三話 百聞一見
夢を見ていた。昔の夢だ。
まだノラが十五で、妹のラミナが十三歳で――父と母も健在だった頃の夢。
当時の父は、今のノラと同じようにうだつの上がらない探求者で、危険度の低い迷宮で日銭を稼ぐのが精一杯だった。その金で家族四人を養い、病弱な母も家事や内職などで家庭を支えていた。
貧しく、明日すらも分からない毎日だったが、それでもそこには家族の団欒があったと言えるだろう。今にして思えば、きっとそれは何よりも大事で掛け替えのないものだった。
そしてそんな苦しくも、だけれど幸せな日々が続いたある日のことだ。
十五になったノラは探求者になる資格を満たし、こっそりと貯めていたお金を支払って、家族に内緒で探求者になった。
少しでも家計を支えるためである。
「ノラ、何もお前まで探求者になることはないだろう……」
探求者になったことを打ち明けたノラに、意外にも父は悲しそうな顔で力なくそう言う。
父を助けるために探求者になったつもりであったノラは、その反応に自分を否定されたようなショックを受けた。
だからその日、久しぶりに父親と口論染みたやりとりをした。
「うるさいな。俺が自分で貯めた金で何しようと勝手だろうっ!」
「そうだが……お前は俺より頭が良い。もっと別の道が、もっと安全に――」
「いいじゃん、別にっ! 家族すら満足に養えない奴に、とやかく言われる筋合いはないっ! ――っ」
その時ノラは、認められなかった怒りに任せて決して口にしてはいけない言葉を言い放ってしまった。言った後で激しく後悔したが、もう遅い。ノラの口から紡がれた言葉は――父親の耳に届いてしまったその言葉は、もう二度と取り消すことなどできやしないのだ。
反射的に「殴られる」と思ったし、殴られても仕方ないことを言ってしまった自覚はあった。だから身体を強張らせて身構えたが――予想に反し、父はノラを叩かなかった。
ただ、寂しそうに小さく笑ったのである。
「……そうか」
「――父さんっ?」
その時ノラは、自分がいつの間にか父親の背丈を追い越していたことに気が付いた。父親の薄くなった頭髪に、幾本も白色が混じっていることに気が付いた。改めて顔を見れば皺が増え、声にも若い頃の張りが微塵もない。
自分を――家族をずっと養ってくれていた父親が、どうしようもなく老いていることに、この時になって初めて気付いてしまった。
「……そう、だな。ろくに父親らしいことができなかった俺が、お前にとやかく言う筋合いはないな。お前のやりたいようにやるといい」
いつも通り迷宮に行くために、建て付きが悪い家の玄関の扉を開けた父親は、最後に振り返ってノラに言った。
「ただ、これは命令ではなくお願いなんだが……お前は兄ちゃんなんだ。ラミナを守ってやってくれ。母さんは俺が守る。だからあの娘のことだけは、ラミナのことは兄であるお前に任せたからな――頼んだからな」
「…………」
唐突な父親の願いに、ノラは何も言えなかった。
そんなノラにやはり小さく笑いかけると、父親はゆっくり背を向け歩き去って行く。耳障りな音を立てて玄関は閉まり――それが、ノラが見た父親の最後の姿だった。
今ではもう、夢ですら帰って来てくれることはない。
「……嫌な夢を、見たな。なんだって今さらあんな夢を――」
意識を取り戻したノラは、ゆっくりと身体を起こした。
どうやら無意識に泣いていたらしく、鼻の付け根辺りを涙が流れたのかむず痒い。
涙を拭おうとまずは顔にかかる邪魔な髪を掻き上げ耳に引っ掻けて――違和感に気付いた。
「髪が長い?」
いつも短く刈り上げていた自分の銀髪が、邪魔になるほど顔にかかるはずもない。だが、耳にかけた髪を摘まんで目の前に晒し観察しても、やはりその髪色は自分本来の銀色だ。少し艶が増しているような気もするが、髪が伸びたと考えるのが自然だろう。
「……そうか。これが『変異の匣』の効果だな? 髪が伸びる変異――あれ?」
自分が『変異の匣』を開けたことを思い出して納得しかけたノラは、さらなる違和感に気付いた。
「声が……おかしい? あー? ああぁ?」
最初は目覚めたばかりだからおかしいと思ったのだが、それにしたってどうにも妙だ。
先ほどから口を突いて出る独り言は、男であるノラが発声するにはあまりにも女性的過ぎる。声だけ聴けば女と間違われること必至だろう。
何とか普段の声に戻そうと躍起になるも、てんで上手くいかない。ノラは諦めて現実を受け入れた。
「よく分からないが、『変異の匣』を開けたことで髪が伸びて声が高くなったってことか? へんちくりんな変異だな……」
(まぁ、白骨化したり、身体が腐ったりするような変異じゃなくてマシだったかもな)
ノラはそんな風に自分を慰めつつ立ち上がろうとして――自分の胸が膨らんでいることに気付いた。
「――はぁっ?」
身体を――正確には胸元を見下ろして――自分の身に着けているゆったりとした平服の上からでも分かるほど、控えめながら主張する胸に困惑する。
理解が追い付かないまま何とはなしに揉んでみて、そしてその掌と胸の感覚が自分に伝わることに首を傾げ、目を見開いて固まった。
「……いや、あの……はぁ? まてまて……いや……えぇ」
どのくらい呆然としていただろうか。
なんとか身体に活を入れ、緩慢な動きで立ち上がる。
そして念のために自分の股間をまさぐり、ノラは完全に理解した。
「ああ、なるほど。俺、女になっちまったんだな――マジか……?」
自らの意志で『変異の匣』を開けたのだ。
話に聞いた通り、どんな特異なことが起こっても驚かないよう覚悟はしていた。しかしこのような変化もあるとは……。
――『百聞は一見に如かず』とは、まさにこのことなのだろう。ノラは今、それを身をもって体験した。