第二話 変異の匣
「あ、だだだ……さ、寒っ!」
一層から不意に落下し、どのくらいの時間が経ったのだろうか。
ノラは頭の痛みと身体を襲う寒さに眼を開け周囲を見渡した。
「ここは……どこだ?」
ズキズキと痛む頭を押さえながら見れば、辺り一面の銀世界――と言えば大袈裟であるが、しかし広くもない部屋には氷の塊が至る所にあり、触れている床には霜が張っている。
吐き出す息も白く、どうやらこの部屋は随分と気温が低いらしい。
現在のノラの恰好と言えば動きやすいだけで、防御はおろか防寒など度外視した平服だ。こんなにゆったりとした服では、寒さから身を守ることなど到底できない。
「さ、寒いわけだな……――っ?」
とにかく手を温めるために息を吹きかけようと掌を見れば、そこには少なくない量の血が付着している。手に傷がなさそうなことから、どうやら頭を押さえていたためについたらしい。つまり、頭から出血があるのだ。
「マジかよ……」
落下した時に頭を打ってしまったのだろう。
上位の探求者たちが当然のように持っている『回復薬』も、資金に余裕のないノラが持ち合わせているはずはなく、治療する術もない。
頭の出血に加え、おまけにこの極寒地獄。このままでは不味いことくらい、学のないノラにだって本能的に理解できた。とにかくここから一刻も早く出なければ、失血死の前に凍死してしまう。
落ちてきた穴を確認しようと上を向いたが、ノラはすぐに視線を戻した。
周辺はまだ明るくて見通しが利くが、上の方は天井が見えないほどの暗闇だ。これでは自分がどこから落ちてきたかなど確認できない。
「他に出口は……くそっ! 塞がれてるじゃねーかっ!」
視線を巡らすと出口はすぐに見つかったが、その出口を塞ぐようにして大きな氷の塊が床から生えている。叩いたり蹴ったりしてみたが、ビクともしない程頑強だ。棍棒があったところで、この氷塊の前には意味をなさなかっただろう。
「う、くぅ……さ、さ、さむ、寒い……」
そうしている間にも容赦なく、冷気は体温と思考能力を奪っていく。ノラはガチガチと身体を震わせ、不随意に歯を打ち合わせる事しかできない。
(お、俺はここで死ぬのか?)
せっかくゴブリンから逃げ切れたと思ったのに、現実はどこまでも残酷だ。
このまま頭の出血を止めることもできず、寒さから身を守る術もない。ノラは絶望して膝から崩れ落ちた。
「もう、駄目か……ごめんな」
諦め自分の死を悟った時、何故かノラの口から不意に謝罪の言葉が漏れた。一体誰に向けた言葉かと一瞬だけ思ったが、そんなことは考えるまでもない。
妹のラミナへ、無意識に向けられたものだ。
(俺が死んだら、あいつは一人になるのか。俺はあいつを……一人にしちまうのか?)
探求者だった父が探求地で帰らぬ者となり、後を追うように病弱だった母が病で亡くなった。
残されたノラとラミナは貧しいながらも、お互い支え合って生きてきた。ここでノラが死ねば、ラミナは一人残されることになる。
残されたラミナは、どうやってこの先生きて行くのだろう? 十五で学もツテもない娘が生きていく方法なんてそう多くはなく――ノラの脳裏に売春宿で働くラミナの姿が過ぎった。
「だ、駄目だ……しね、ない。死ねない、死ねない、死ねない、死ねないっ!」
そんなことはさせられない。
「し、死んでたまるかぁぁぁぁっ!」
兄として、ここで妹を一人残して死ぬわけにはいかない。
死を目前にして芽生えたその強い想いが、死にかけていたノラの身体を無理やりに動かした。
「出口はっ! ここ以外にもあるんだろうっ!?」
自分に気合を入れるため、叫びながら部屋の中を探索する。
体温を少しでも上げようとがむしゃらに動きながら、氷で塞がれた出口に背を向け周囲を探った。
「――あ? なんだこれ……」
そして部屋の隅に、奇怪な紋様が施された、黒い箱がひっそりと置かれていることに気が付く。
床まで薄く氷が張っているにも拘らず、その奇妙な箱だけは一切の霜すらついていない。見るからに怪し気な雰囲気が漂っている。
「黒い箱……まさかこれ――『変異の匣』か?」
――その匣の存在を、噂には聞いていた。
曰く、開けた者に大いなる力を与えてくれる、希少で珍しい黒い匣である。
誰が置いたのかも、何故、そのような仕掛けが施されているかも不明な匣。開ければ大いなる力を得る代わりに、開ける前までの自分には戻れない。
姿や形、性格や人格が変異することからその匣は『変異の匣』とされており、匣を開けた者は『変異者』、あるいは『開匣者』などと呼ばれているとのことだ。
(噂じゃ、匣を開けたことで白骨化した奴、記憶を無くした奴、色々いるらしいな。けど……どうせこのままじゃ死ぬんだ)
探してみたが、どうやら出口は氷に塞がれた一か所しかなさそうだ。であるならば、ノラが助かる術は一発逆転を賭けてこの匣を開ける他ない。
「頼む、どんな力でもいい。ここから俺を――ラミナのいる場所に還してくれ。どんな代償だって払うっ! だから――」
ノラは縋る気持ちで祈りながら、目を瞑って閉ざされていたその匣を開いた。
そして薄目を開けて匣の中を窺うも――中身は何も入っていなかった。
「そ、そんな……」
まさか匣の中身はすでに回収された後だったのか? 一瞬だけそんな絶望的な考えが過ぎり、
「――っ? なっ……!」
突然、匣の中から光が溢れ出して得体の知れない何かが、ノラの身体に入り込み暴れ出す。
「うぐ……ぐあぁぁぁぁっ!?」
身体の中から壊されるようなあまりの痛みに絶叫を上げ、ノラは氷の張った床をのた打ち回る。
寒さとか出血のある頭部の痛みなんて微塵も感じない。感じている余裕などない。ひたすら続く痛みに悶絶し、やがてノラは再び意識を失ったのだった。




