上
暑い。暑さのせいか風景が、写ルンですで撮った写真のように白っぽく見える。
「今年の暑さは異常だ」なんて、異口同音に皆が言うのに、日頃から天邪鬼を自認している僕でさえ大いに同意するしかない暑さだ。
アスファルトの路面は逃げ水でテラテラに輝き、街路樹は陽炎の向こう側でグラグラと揺れている。
「海の上でーは、太陽がー、力一杯、照っているー」
なんて、不思議の国のアリスの一節を口遊みながら僕は車に乗り込み、窓を全開にしてエアコンをフルパワーでつけた。3度程ドアを開閉して通風口から出る風が冷たくなったのを確認して、ドアを閉め、シートベルトを装着すると、僕は車を出発させた。
炎暑の午後2時の街は人通りが全くなくて、明るい廃墟を思わせた。
「不思議なー景色と、言うわけはー…なにしろ、真夜中、だったからー」
そう何気なく先程の詩の続きを、フルートでも吹くような調子で口遊んだ、その瞬間のことだ。
真夜中だった。
僕は、あまりのことに一瞬放心したが、慌てて車を路肩に停めて周りを見渡した。
ここは、どこだっけ。絶対に知っている場所の筈なんだけれど、喉の奥に引っかかったかのように出てこない。
恐る恐る、車を降りて、気がついた。
車が、違う。
僕が今の今まで運転してきた筈のシエンタが、レビンになっていた。
なんなんだ、僕は知らないうちに人の車を盗んできてしまったのか。確かにレビンは僕が大学生の頃、親父のお下がりを貰ってさんざん乗り回した愛車だったが、もう20年程も昔の話だ。流石に間違えたりはしない筈だ。しかし、僕はそのレビンのナンバーを見て息を飲んだ。僕の愛車(元愛車というべきか)と全く同じナンバーなのだ。まさか、あのレビン…いや、あのレビンは、廃車になったのだ。朝まで痛飲した帰り道に、何故かドリフトが出来そうな気分になった僕が力一杯ガードレールに突っ込んでしまったから…。
ああ、なんだか思い出したくないことまで思い出してしまって、頭が混乱するやら痛いやら。ああ、これは熱中症なんじゃないかな。熱中症も酷くなると幻覚とか見えたりするのかな。
僕はフラフラしながら、偶々そこにあったコンビニに入った。
「いらっしゃいませー!って、あれ、先輩。どうしたんですか?夏休みは実家に帰るんじゃなかったですか?」
オレンジに近い金髪の店員が、僕を見てそう言った。
「あれ、マイケル?お前どうして…?」
店員は確かに見覚えのある顔だった。同じサークルの後輩で、富岡という名字から全く安易にマイケルという渾名がつけられていた男だ。しかし、問題はそこではない。マイケルだって俺と同年代のアラフォーの筈だ。なんだって、こんな色の髪で、コンビニの店員なんか…。いや、そんなことより、このマイケルは…
「そうだ先輩、たいへんなんですよ!さっき、鈴木先輩と高橋とユキちゃんが来て…」
僕は、マイケルの声を脳の背景に置いたまま、何気なく、窓ガラスに映った自分の姿を見て絶句していた。
いまの僕は、20代の僕だ。
レジ前に積んであるジャンプの表紙を見た。るろうに剣心だ。
そういえば、このコンビニはサークルkじゃないか。有線放送からは華原朋美が聞こえてくる。
なんだ、なんなんだ。これが所謂タイムスリップなのか。
混乱しながらも僕は、マイケルがポケベル(!)で呼び出した高橋に連れられて、鈴木の下宿にやってきた。
鈴木の下宿先は僕が住んでいた下宿とは大学を挟んで丁度反対側にあった。周りを田畑に囲まれたアパートで、同じ大学の下宿生しか住んでいないものだから夜中に集まって多少騒いでも大丈夫だということで、よく下宿生同士で集まって飲んだものだった。
ああ、この辺りの行きつけの田んぼでよく馴染みの猫と寝ていたものだなあなんて、碌でもなかったあの頃を思い出すと苦笑しかできない。
しかし、いま、鈴木の部屋の扉を開けた途端、それは過去ではなくて、現在のこととなった。
カーネル・サンダースが、寝ている。
「おい。これはいったいどういう…」
完全に引き攣った顔の僕に他の3人は頭をかいている。
「えーと、あのね、先輩。わたしたち、12時くらいまでは記憶があったんですよー。」
ユキちゃんが言った。ユキちゃんは鈴木の彼女で当時はシノラーだった。頭の上に2つおだんごを結ってプラスチックのビーズで作ったアクセサリーを多量にくっつけている。
「さっき高橋が起きたらここにカーネルがいて、俺たちもうビックリですよ!!」
鈴木がそう大きな身振り手振りを交えながら僕に状況を説明したが、ハッキリ言って、全然なんにも分からない説明だった。
時計を見ると午前4時になろうというところだ。東の空が白くなってくる。近隣の部屋に新聞が投函される音が響く。
「兎にも角にも、カーネルを返してやんないとなあ…」
僕がそう言うと、3人はカクカクと首を上下に振って全力で首肯した。
「そこで先輩の天才的な知恵を貸して欲しいんですよー!!」