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第5話『表情』

 それは出会ってから初めて見る表情だった。猫の人形を抱き上げながら優しく微笑むルルディの姿に、僕は胸がかっと熱くなるのを感じた。

「……ご主人様(マスター)?」

 どうしましたかと、ルルディが僕の顔を覗く。

「 あ、いや、その……」

 顔が真っ赤になっているんじゃないかと思って、僕は慌てて自分の顔を隠した。

 指の隙間から見えるルルディの顔は、いつも通りの豊かさに欠ける表情に戻っていた。

「……心拍数が上昇しています。大丈夫ですか?」

 ——そんな事も判るのか。

 ルルディはぬいぐるみを脚に乗せて、僕をじっと見つめた。

 何もかもを見透かされそうで、僕は目を逸らす。

「いや、その……なんでも……ない」

 あれは、夢でもなければ見間違いでもない。

 ルルディのあの横顔を思い返す。

 ——うん。

 僕は強く確信した。あれは見間違いなんかじゃあない。

 いつか僕にもあんな風に微笑んでくれるだろうか。

「さてと、今日はこれでおしまい。時間過ぎちゃったでしょ、お店閉めようか」

 僕は腰を捻って体をほぐした。

 ぬいぐるみを机に寝かせたルルディは、首から下がる懐中時計を確認した。

「……十八時三十八分四十二秒です。……明日も作業があるのですか? 修繕はもう終わったのですよね?」

「うん、終わったよ、修繕はね。さっきアゴニアさんに、四日くらいかかるって言ったの憶えてる?」

 そう尋ねながら僕はエプロンについた糸屑をはたいた。

 ルルディも立ち上がって、見よう見真似でジャンパースカートを手で払い始める。

「……はい。記憶しています。忘れるという機能はありませんから」

「ここからは、この店に代々受け継がれてきた工程に入るんだよ」

 修繕は明日くらいに終わる予定だったんだけどねと、僕は付け加えた。

「……修繕よりも長い作業なんですか? 」

「まあ、そういう時もあるけど。でも作業自体は特殊なわけじゃないよ」

 なかなか落ちない糸を払い続けるルルディを手伝った後、僕らはぬいぐるみを机に残し工房を出た。



 アゴニアさんとの約束の日。

「いやぁ、ありがとねえ、こんなに綺麗にしてもらってえ」

 アゴニアさんは顔を一層しわくちゃにして笑顔を向けた。

 僕よりも長く人生を歩んでいる人に対して失礼な事だと思うけど、アゴニアさんの笑顔は、なんだか赤ん坊のような可愛らしさがある。

「あんなにぼろぼろで、大変だったろうに」

 アゴニアさんは四日ぶりに見る猫のぬいぐるみの額を、愛おしそうに指で撫でた。指が耳に触れた時、アゴニアさんはほうと一息つく。

「ここの汚れ、残してくれたんだろう?」

 アゴニアさんはどこか安心したように、ぬいぐるみに僅かに残る染みを撫でた。

 この人生の大先輩は、僕の身勝手なお節介を見破っていたのだ。

「すみません、余計なお世話だってことはわかってるんですけど」

 その場で話を聞いただけの僕なんかが、持ち主の想い出に踏み入るのはおこがましい事だし、身勝手な事だとも自覚している。でも、この汚れを取ってしまうと、人形に染み込んだ大切な想い出まで消えてしまう気がするのだ。

「いやあ、良いんだよぉ。むしろホッとしたよ。本当はねえ、可哀想だから自分で直して誰かにあげてしまおうかと思ってたんだけどねえ。その度に寂しくなっちゃって、なかなか踏ん切りがつかなかったんだ。さっき取りに来る間だって、この子の汚れは簡単に落ちやしないだろうと、どこか期待すらしてたしねえ」

 この歳になっても私は我儘だねえ、とアゴニアさんは瞼を伏せてぬいぐるみを見つめた。

「この先短いだろうけど、一生大事にしなきゃだねえ」

「そうしてあげて下さい。その子もきっと喜びます」

 この先、一生。今は元気なアゴニアさんだけれど、いつまでもそうだとは限らない。長い年月をアゴニアさんと共にしたぬいぐるみは、あとどれだけ一緒にいられるだろうか。つい僕はそんなことを考えてしまう。

「それじゃあ、ありがとうねえ。お嬢ちゃんも、紅茶美味しかったよ」

 店の前まで見送った僕とルルディの頭に、アゴニアさんはそっと触れた。

 そしてまた、ありがとうと言葉を残し、アゴニアさんはゆっくりとした足取りで森の道を歩いて行った。

 まだまだ涼しい風が、木々の隙間を駆け抜けた。

「中に入ろっか」

 アゴニアさんの依頼を終えた僕たちは、昼食を摂る為に二階に上がった。——と言っても、ルルディは食事をしないから食べるのは僕だけだ。

 僕が自分用の昼食を作り終えたところで、紅茶を用意してくれたルルディが椅子に座った。

 遅れて僕も、テーブルを挟んで向かいに座る。

「……ご主人様(マスター)

 と、ルルディが声を掛けてきたのは、僕が、ふわっふわでとっても甘い僕好みの手作りフレンチトーストを頬張った時だった。

「どうしたの?」

 一応訊ねてみたけれど、そろそろ僕にもルルディの行動が読めてきた。

 こんな風にルルディから会話を切り出す時は大抵、何か疑問がある時だ。きっとアゴニアさんに撫でられたことだろうなと、僕は予想を立てた。

 その証拠に、撫でられた頭を気にしているのか、時々自分で触っている。

「……新しく買うよりも、直した方が安く済むのですか?」

「え?」

 予想と違った意味不明な質問に、僕は口に近づけていた紅茶を止めた。

 ルルディのことを解った気になって、一丁前に分析した僕が恥ずかしい。

「安く、って人形の金額のこと?」

 はいと首肯くミュノを見て、そこでようやく、ああと僕は合点がいった。

「つまり、アゴニアさんが古くなった人形を買い換えないのは何故かって事かな? 」

 ルルディはまた首肯した。今回は正解らしい。

 きっとルルディはその理由を考えた結果、治した方がお金がかからないからだろう、という考えに行き着いたようだ。

 僕はさっき飲み損ねた紅茶を飲み直す。甘いハーブの香りが口の中に広がった。

「うーんとね、まず、お金ははあまり関係ないかなぁ」

 人形の金額はその素材や構造の複雑さなどで決まる。それに、僕みたいに一人で作っているお店の人形は少し値段が高めだと思う。

 けれども修繕では依頼内容や人形の具合によって変化する。例えば、汚れを落としたいだけなら安いけれど、人形の状態がひどければそれだけ費用がかかる。

「場合によっては新しく人形を買う方が安い事もあるよ。今回の依頼はそれに当てはまるかな」

「……では何故新しく人形を買わないのですか? 」

 ルルディはいつものように首を傾げた。

「想い入れがあるから、かな」

 僕はフレンチトーストの最後の一口を口に押し込み、紅茶で流してから続けた。

「このお店では修繕だけじゃなくて人形を作って売ってもいるでしょ? でもね、古くなった人形を治して欲しいって言う人は、目の前に売っている新しい人形を、元々の人形の代わりとして買おうとはしないんだよ。同じ物を新しく作ってくれって言う人でもね。どうしてか解る? 」

 ルルディは無言で首を振った。ほぼ即答だ。僕は残った紅茶をわざとゆっくり啜って間を置いた。

「別の人形じゃダメだからだよ。人形についた汚れ、匂い、癖。全部その人形だけの個性になる。そしてその一つ一つには、持ち主と人形だけの想い出が詰まっているんだ」

 人形は、皆んな違った表情(かお)をしている。喩え同じデザインの人形であっても、それは少しずつ違う。持ち主と同じ時間を過ごした人形は世界に一つだけの、自分だけの人形だ。

 もし、同じ型の人形を作ってしまうと、それはもう、同じ形をした別の人形だ。今まで過ごした記憶や痕跡はその人形には無い。なにより、その違和感に一番に気付くのは持ち主だ。似ているからこそ、違いが浮き彫りになる。

「……持ち主と、人形だけの、想い出」

 ルルディは途切れ途切れに呟いた。

 こんな風に、ルルディが瞼を伏せて何かを考えているようなそぶりを見ていると、彼女が人間ではないという事を、つい忘れてしまう。

 僕は少しぬるくなった紅茶を飲み干して食器を片付けた。

「そろそろ下に戻ろうか」

 テーブルへ戻ると、そこにルルディの姿は無かった。

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