第3話『選択』
「……ご主人様」
ルルディが僕に声を掛けたのは、アゴニアさんを見送って店に戻った時だった。
「……過去の話は人形の修繕に必要な事なのですか? 」
紅茶のカップを片付けながらルルディが訊ねる。
「アゴニアさんとぬいぐるみの話の事?」
「……はい」
「うーん、僕——というか、この店にとってはね。他の店は……どうなんだろう」
他の人形屋との繋がりが、僕には全く無いのだ。だから、他の店や職人がどのように応じているのかが、僕には判らない。
ただお祖父ちゃんやお父さんがそうしてきたから、僕もそれを続けているのだ。
そんな事情もあって……。
これはもしかしたらここだけの拘りかもしれないんだけど、と前置きをした。
「持ち主がその人形をどんな風に大切にして、どこを気に入っているのかを知っておきたいんだ」
テーブルに寝そべるくたくたのぬいぐるみを抱き上げて、その取れかけた左目を見つめた。
「……要望、に答えるだけでは駄目なのですか? 」
ルルディは、解らないと言いたげに頭を傾げた。
その様子が、僕にはルルディが好奇心旺盛な子供のように見えた。
「例えば、何年間も毎日人形を抱いて寝ていれば、人形に癖がつくんだよ。でも僕がそれを完全に治したら抱き心地が変わっちゃうでしょ? だからそういう場合は、ある程度の癖は残すようにしてるんだよ」
でもこれは、前置きをしたように、あくまでも僕の拘りで、僕が勝手にやっているだけだ。だから必要か不要かで言ったら、必要の無い無駄な工程なのかもしれない。
新しい中綿を癖に合わせて詰める作業は簡単な事じゃないけれど、特に思い入れのある傷や汚れは完璧には治さずに少しだけ元の状態を残している。
だからこそ、お客さんに最後、要望を訊く時に「手を加えて欲しくない箇所などもあればお応えします」と言うのだ。
「ま、あくまでも話から判る範囲でだけどね」
ルルディの方を確認すると、まだ「解らない」の姿勢のままだった。
「……効率が悪くなりませんか?」
「確かにね。そうかもしれない」
でも、と僕は続けた。
「その手間が、『喜び』に繋がるんだよ」
「……喜び、ですか」
「そう、喜び」
ルルディはまた、首を傾げた。
「まあ、今は解らなくても、そのうち解るかもね」
多分ねと付け加えて、僕は工房へと続く廊下の暖簾をめくった。
「僕は工房でアゴニアさんのぬいぐるみを治したいんだけど、ルルディはどうする? 」
店番をするか、工房へ来るか。ルルディは、人形が敷き詰められた壁をゆっくり見渡してから、最後にアゴニアさんが出て行ったドアの方へ向いた。
「……私はここに残ります。お客様が来たらご主人様に報せます 」
ルルディは銀色の髪で隠された背をこちらへ向けた。
「そう」
彼女なりに何か思うところがあったのかもしれない。
ルルディが何を考えているのかは僕にはまだ判らない。でも、ルルディが店に残る理由は「必要だから」だとか「ご主人様のため」だとかではない事は確かだ——と思う。
「じゃあ、十七時くらいに店を閉めるからその時呼んで」
「……はい、ご主人様」
そう答えるルルディは、ずっと人形達を見つめ返していた。
そんなルルディを店に残し、僕は依頼のぬいぐるみとノートを持って工房へ向かった。
工房の中央を陣取る作業用のテーブルに着くなり、無造作に置かれた道具を手で押しのけた。替わりに、くたくたになった元気のない猫のぬいぐるみと、ぬいぐるみの損傷箇所や状態を記したノートを乗せる。
改めてノートと見比べる。ぬいぐるみの状態は良いとは言えない。
両脇を持つと頭が垂れ下がるし、毛は古びた絨毯のように固い。それに両頬から伸びたヒゲはほつれて途中から枝分かれしている。
「やり甲斐あるなあ」
机にばら撒かれた道具をかき集め、袖をまくった。
ぬいぐるみの修繕工程事態はそれほど複雑じゃない。中綿を抜き、生地を洗い、ほつれたり磨り減った部分に補強などをして、新しい綿を詰め替えて形を整える——といった感じだ。
先ずはぬいぐるみのつなぎ目を外し中綿を抜いていく。背中の切り込みから、ぼろぼろと玉になった綿を取り出す。
次は生地の洗濯だ。タライに水を張り、詰め物が無くなって脱け殻となった猫を水に沈めた。
洗剤を入れて優しく揉むと、水面が瞬く間に泡で埋もれていく。
雲のような泡の中から生地を引き揚げる。茶色く濁った汚れが滴り落ちた。
洗う前と比べれば見違えるほど色が落ちている。
でも。
「うーん、もうちょいかな」
初めは真っ白だった泡が所々茶色くなって、泡の切れ目からは水が土色になっているのが見える。
人形の状態がひどかっただけに、綺麗になっていく様子が目に見えて判る。
何回か水を入れ替え、水が濁らなくなったところでタライから引き上げた。
「良し、きれい」
綺麗になった猫を抱えて、店の二階へ上がった。
不便な事に、この工房には窓が無いのだ。そのおかげで工房で洗った物を外に干すためには、わざわざ店の二階に上がらなければならない。もう少しマシな造りにならなかったものかと思う。
二階は住居スペースだ。正面には大きな窓と外にはささやかなベランダがある。
窓を開けると、心地良い風が部屋を駆け抜けた。
ベランダに出て外を見渡す。沈みかけの太陽が、町を、森を、この家を夕日色に照らしている。
両親を亡くしてから広く感じていたこの部屋は、つい一週間前から、ほんの少しだけ狭くなった。
——寂しかったんだろうか。
ぬいぐるみの生地を干しながら、ふとそんなことを思った。
もちろん二年前は凄く悲しかったし辛かった。事故とはいえ、とても悔しかった。たくさん泣いた。
でも、お父さんとお母さんの仕事を引き継ぐようになってからは気にしなくなった気がする。それに今は……。
洗い終わったばかりの猫を干し終えると、猫は気持ち良さそうに風で揺れた。
欄干に頬杖をして、風景に黄昏てみる。
木々の葉が擦れる音がする。
親の帰りを待つ雛の声。
風が耳にぶつかる音。
遠く離れた子供のはしゃぐ声が、風に運ばれて微かに聞こえる。
夕映えの景色がとても綺麗で、平和で、僕はしばらく町を眺めていた。
「……十七時です」
背後から声がした。
はっ、と我に帰り、僕は辺りを見渡した。いつの間にか、遠くの町は山の影に覆い尽くされていた。
振り返ると、静かに佇むルルディの姿があった。
山の稜線から辛うじて漏れる光が僕の部屋を金色に染めていた。
風でなびくルルディの髪が、僕の影からはみ出るたびにきらきらと輝く。
「……十七時です」
ルルディはもう一度、さっきと同じ言葉をかけてから、
「……三十四秒です」
と加えた。
「うん。ありがとう、すぐ行くよ」
店を閉めるために僕らは一階に戻った。
閉店の作業と言っても、お客さんのほとんど来ないこの店は、戸締りや掃除をする程度だ。
「……ご主人様」
ハタキで棚の人形たちの埃を落とすルルディが手を止めた。
「どうしたの?」
僕も掃除を中止する。
「……もう、人形の修繕は終わってしまいましたか?」
「まだだよ。今日は綿を抜いて、生地を洗っただけ。次の作業は生地が乾いてからかな」
どうしてそんなことを? と思ってルルディの方を見ると、彼女はまだハタキを上げたまま停止していた。
「ルルディ?」
「……では明日、ご主人様の作業を見ても良いですか?」
つまりルルディは人形の修繕作業に興味を持ったという事だろうか。
もしそうなら……。
僕は嬉しくなって、もちろんと大きな声で返事をした。
「僕の腕前を披露してあげるよ」
「……はい。お願いします」
そう言ってルルディは丁寧にお辞儀をした。
その後、僕らは箒で床を掃いて今日の業務を終えたのだった。




