序章 全てを破壊する者
土埃が辺りを舞う。誰一人、何一つ、そこにはない。
そこにいるの?
鈴の音みたいな声が響く。荒涼とした大地に空しく。
どこにいるの?
短い間隔で響く。だが返事は無い。
どこ? どこにいるの? そこにいるよね?
やがて声は姿を作った。始めに口ができた。その次は顔、最初は口だけののっぺらぼう、大きい目の次は小さく端整な鼻ができあがる。次は体だ。生まれてきたのは少女のそれ、凹凸の少ない体は雪のように白く儚い。最後にその体を覆う純白のワンピースが現れ、ひらひらと風に揺れ始める。
そうなっても彼女はひたすら名前を呼び続ける。愛する者を呼ぶように、自らの想いを届けるように。
数秒か、あるいは数年か、少女にその概念はない。ここはすでに時間という概念が破壊され、何時の時代にもあり、何時の時代にもない。誰もこの場所を知らないし、誰もがこの場所を知っている。
そうして途方もない短い時間呼び続け、その声がやがて止まる。
「ここに、いたんだね」
彼女は何もない空間を愛おしげに見つめる。
誰、だ?
彼女の声とは別に重たく掠れた声が誰もいない空間から響く。
同時に彼女のワンピースが破れる。何かあったわけではないのに、無残にも破れた。
カエレ、お前まで、コワれてしまう。
「大丈夫。私はいなくならないよ。どこにでもいて、どこにもいないから」
ワンピースが再生する。再び彼女を包み込んだソレは何事もなかったかのように風に舞っていた。
「名前、教えて? 友達になろう」
ナ、マエ?
「そう……自分の名前も壊しちゃったんだね」
目を閉じ顔を伏せる。
ソウダ、俺はコワす。何もかも。
「だったら、私が造ってあげる。あなたがあなたに在れるために」
顔を上げる。目を開けて見つめる先は何もない虚空。そこは時折歪んで空間が軋みをあげている。
俺は、そこに、在りたくない。俺が、在れば、コワすだけだ。
「大丈夫。あなたはもう壊すということを知っている。もうあなたは何も壊さない」
歪んでいた空間が正されていく。それに合わせるようにうっすらと透明な何かが浮かび上がってくる。
「だからあなたがあなたで在れるために、在れるための名前を」
空を見上げる。太陽が輝きを放つ真昼とも呼べるものでありながら、無数の星が隠されることなくそこに在った。
「セイ。この壊れた世界でさえ在ることのできる存在の名。また壊しても思い出せるように」
セイ。俺の、名前。
透明な何かに影が生まれる。両膝をついて蹲る人間の影だ。
次いで透明に色がつく。人肌が生まれ、人間が形づくられる。
「前を向いて。下を向いても何も見えないよ。セイなら全てを見ることができるよ」
セイが顔をあげる。顔には泣き腫らした痕がついている。瞳は今にも泣き出しそうに揺れている。それでも必死に瞼を上げて少女を見ている。
「俺は、俺は!」
壊れた世界が再生していく。何もなかった大地に家が立ち、道が浮かび上がる。そこを行く人々、生きる人間、その全てが壊れる前の姿を取り戻していく。所々がぼろぼろに。
少女はその光景を見つめる。
「駄目。あなたが取り戻せるのはあなただけ。それ以外は取り戻せないよ」
出来上がった幻想が再び崩れ落ちていく。何もかもが儚くなす術なく。
再び出来上がった何もない世界にいて、彼女とセイだけが見つめあっている。
「俺には、何も、ない。何も、何も!」
「あるよ。前を見て、見えるものはなに?」
「お前が、お前が見える」
「そう。さあ立ち上がって」
セイが立ち上がる。輪郭は時折歪んで消えそうになるが、本当に消えることはない。
足を一歩一歩前にだす。地面が揺れて踏み外しそうになっているのか、がくがくと足が揺れている。それでも転ばずに前に進み続ける。
やがてその距離が手を伸ばせばお互いに手を取り合えるほど近くなった。しかし、それ以上先はない。
だから少女の方から手を伸ばす。手が体に触れ合いそうになるところまでくると、セイは体を引いて手の届かない範囲に後退する。
「触れるな」
「どうして。私はセイに触れたい」
「俺も、俺も触れたい。でも、触れれば、またコワす」
「どうなるかなんて、わからない」
「だが、怖い。今は触れられない」
「いいよ。セイが大切なものを見つけてくれたから。今と、時間を見つけてくれたから」
伸ばしていた手を下ろし微笑んだ。
周りの景色が、世界そのものが歪んでいく。空に在る無数の星が太陽の光の中に隠れて見えなくなる。
もうこの世界はどこにでもあるものではなくなった。一つの時間に留まり、あるべきはずの時間へと戻ってきた。
「だから待つよ。セイが私の手を、あなた自身の意思で、掴んでくれることを」
「本当に、待っていて、くれるのか? そんな日が、来ないかもしれないのに」
「ううん、きっと来る。信じてる」
少女は手を前で組み合わせる。その姿が光の粒子へと変わり始める。
「コワれ……!」
「違うの。元に戻るの。私はどこにでもいてどこにもいない。ここでは形を持つことはできないのだから」
光へと包まれていく中で、少女はセイを、セイは少女を見る。
諦めではなく期待を秘めた瞳が交差する。
「だから、いつかきっと。本当の私を見つけて、その私の手を取って」
「でも、俺は、お前を、見つけられるか、どうか!」
「スバル」
ワンピースが消え、凹凸のない少女の体が、端整な鼻や大きな目が、次々となくなっていき、やがて口すらも見えなくなった。
私の名前、覚えていて。そしたらきっとまた、会えるから。
「ああ、忘れない。まだ、言えてない、ことがあるから!」
セイはスバルがそうしたように手を伸ばす。少し前に出て、先ほどまで少女がいたところへもっていく。しかしその手が何かを掴むことはなく、虚空を撫でた。
歩を進める。再びスバルと会うために、壊すことしかできない青年が歩き始めた。
更新間隔はどうなるかわかりませんが、完結までがんばります!