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雨音色  作者:
3/17

第3話・きっかけ。

「おはようございます」



広大な敷地の真ん中にある洋風な建物の一室に、彼らはいた。



「おはよう。藤木君」



彼は両手に何冊もの厚い本を抱えていた。



「先生、申し訳ありませんが、独逸語の辞書を貸していただいても宜しいですか」



「おや、今日は授業がある日だっけ?」



「えぇ。午前中に独逸刑法の授業で、午後は判例刑法研究のゼミナールです」



「そうか。頑張りたまえ」



牧は藤木の肩を軽く叩いた。



「藤木君、君の授業は帝国大の中で非常に分り易いと評判みたいだよ」



牧は片目を瞑って笑い、彼の両腕に抱えられた本の山の上に、もう一冊のそれを重ねた。



「あはは。牧先生にはまだまだかないません」



積み重なった書物の重さによろめきながら、自分の学生時代をふと思い出した。



突然の父の死で大学中退を余儀なくされていた時、



牧先生が教授達に頼んで自分を学校に残してくれた事。



いくら父の友人だったといえども、自分の為に頭を下げてくれたこの人を、



彼は亡くした父同様、尊敬し慕っていた。



「先生」



「どうした?」



独逸土産に買ってきた陶器のカップに、紅茶を注いでいる後姿に声をかけた。



「・・・あの時、どうして僕を助けてくれたんですか」



しばらくしての沈黙の後、牧が微笑んだ。



「そうしなけれなばらない、そう思ったからだよ」



腕に軽やかな重みを感じて、彼は呟いた。



「先生らしいですね」



牧は何も言わず、紅茶をお茶菓子と共に、自分の机に運んだ。



















帝国大学での独逸刑法の授業は、学生の間ではその分かり易さで好評を得ていた。



28歳の若さで既に講堂の過半数を埋める事はそうそうあることでは無い。



そのため、時には陰口を、特にエリート層から叩かれる事もあったが、



彼のゆったりとした人柄故か、彼の評判はかなりのものだった。



彼は貧しかった。



着る物も普段は人からもらったものや、父が昔着ていた古い着物だった。



黒い髪も長くぼさぼさで、眼鏡も最近では度が合わなくなってきていたが、


それを変える生活の余裕はなかった。



やっと助教授になれ、病弱な母親の薬代で生活費が消費される中、



余計なものは買えるはずがない。



父が亡くなってから、彼の生活は一変した。



住む場所も、生活水準も、全てが下降した。



大学も本来であれば退学となるはずだった。



しかし、ゼミナールの担当教官であり、父親と友人であった牧教授が、


彼を生活面等で援助し、卒業させてくれた。



果ては大学に残るように、と自分の助手になることまでを勧めてくれた。



そして現在、彼はここで授業を行いながら、刑法についての研究を行っている。



帝国大学というエリートの集まりの中では貴重な経験をしている彼は、


周囲の者よりもどこか親しみやすいものがある。



それが一つの好評の要素なのだろう、そう牧は考えていた。




















「失礼します、先生」



「・・・えぇ・・・え?・・・はぁ、しかし・・・。


うーん、そうですねぇ・・・それでは一応聞いてはみますが、あまり・・・。


はい、はい・・・分かりました。それでは」



藤木が牧の研究室に入ると、牧は電話で誰かと話している最中だった。



彼が自分の研究室に戻ってきた時には、既に太陽は西の地平線にその姿を隠そうとしていた。



議論が長引いて、授業の終了時間を延ばしてしまったのである。



「おつかれさん」



受話器を置いた後、牧は笑って藤木を労った。



牧は自分の机にある椅子に腰掛ける。



「議論が長引いて、つい遅くなってしまいました」



そう言って、彼は朝借りた辞書を、彼の机の上に置いた。



「ありがとうございます、先生」



「あぁ、良いよ。別に・・・」



そう牧は呟くと、彼はじっと藤木の顔を覗き込んだ。



「・・・?何か僕の顔に付いてます?」



「いや、そうじゃないのだが・・・。藤木君、君は今年でいくつだ」



「え・・・28歳になりましたが・・・」



奇妙なことを聞く、藤木はそう思った。



「28歳か・・・。まぁ、妥当であろう」



彼は怪訝な顔で牧を見た。



「どうかされたんですか?」



「藤木君、君、見合いをするつもりはないか?」



しばしの沈黙が流れる。



「・・・はい?」



彼は目を見開いた。



「実は先ほどの電話でだね、若い独身の助教授がいないかと聞かれて。


見合いの相手を探してくれるよう頼まれたんだ」



突然の話に、彼はまだ何を言われているのかさっぱり理解できていないようだった。



「でも、それは別に僕じゃなくても・・・」



「まぁ、君ももう28歳なら適齢だ。いつまでも独り身でいるわけにもいかないだろう」



「いや、しかし・・・」



牧は笑った。



余程、藤木の狼狽加減が可笑しかったのだろう。



「別に見合いしたからといって結婚が強制されるわけではない。


軽い気持ちで相手のお嬢さんに会ってみたらどうだ。


それに相手は財閥の娘だ。申し分もない」



牧は立ち上がって電話のある所に向かう。



「そうは言っても先生、先生もご存知でしょう。僕には病弱な母がいます。


それに研究をしたいので結婚は・・・」



「いや、お母様は君に早く結婚してほしいと思っている」



「え、そ、そうなんですか?」



「そうだ。きっとそうだ」



牧が満足そうに微笑む。



「でも、先生、僕、お嬢様とか、そういう方は・・・。身分の方も・・・」



牧は相手の名前が書かれたメモを手に取る。



「そうと決まったら早速電話しよう」



「せ、先生、そんな」



「良いじゃないか。ちなみに相手は山内財閥の末娘だ」



牧が片目をぎゅ、と瞑る。



「いえ、そういう問題じゃなくて・・・」



「まぁ、人生経験として、な」



言うや否や、牧は既に受話器を耳に当てていた。



「あ、もしもし牧です。先ほどの件ですが・・・」



藤木は後ろで発する言葉を失っていた。


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