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雨音色  作者:
2/17

第2話・違う世界。

「藤木君、今日の学会はどうだった」



立派な口ひげを指でなぞりながら、長身の初老の男性が、隣で歩くこれもまた長身で、



少し大きめの洋服に身を包んだ若い男性に話し掛けた。



「非常に有意義でした。


独逸の学者の方々と直接議論できるなんて、独逸留学から帰ってきて以来初めてですし」



若い男がそう言うと、彼は嬉しそうに何度もそのひげを触った。



「最近刑法学者も増えてきたことだし、今後の頑張り次第だね」



「はい。頑張ります」



彼らがいたのは、帝国大学の講堂だった。



午前中からの白熱した刑法学会も、ようやく幕を閉じたところであった。



彼らは外に出た。



そこには1台の車が待っていた。



「藤木君、今日は乗って帰るかい?」



「お言葉に甘えて」



彼が軽く会釈をした。



「最近は車の数も増えてきたから、


あまり我々が乗っていてもそう珍しがられることもなくなったな」



男はそう笑うと、運転席の窓を叩いた。



うたた寝をしていた運転手は、慌てて外に出てきて後部座席のドアを開けた。



「いえいえ、僕の住む方では、まだまだです。


道端にランプがあるのは先生がいらっしゃる近辺ぐらいですよ」



「ははは。大日本帝国とか、デモクラシーといっても、東京だけなのかもしれんな」



彼らは車内に乗り込んだ。



黒光りする車体が、白い煙を立ててその場を去っていった。





















「牧先生」



被っていた帽子を取り、大きく息を吸う。



肩から力が抜けていくのを、藤木は感じていた。



「何だ」



「明日、読んで頂きたい論文があるんです」



「ほう、何についての論文なんだ」



「こないだ父親が子供を使って窃盗をさせた事案があったではないですか」



「あぁ、そういえば」



「あの事案における父親の正犯性について考えてみたんですが・・・」



彼は、藤木をまじまじと見詰め、こう言った。



「・・・面白い。明日、持ってきなさい」



彼はふと、窓の外を見た。



暗闇に光るランプの明かりが、ぼやけて見えた。



「藤木君、最近のお母様の体調は?」



「あぁ、先生がくださった食材のおかげでしょう、最近調子が良いです」



彼には病弱の母親がいた。



父は昔、帝国大学の物理学の教授だったが、既に他界していた。



それ以来、母の体調は芳しくない傾向にあった。



「そうか、それは良い事だ。くれぐれもお大事にな」



彼は何も言わず、ただ笑って軽く頭を下げた。





















「お嬢様、お嬢様!」



その呼び声に、足早に歩く長い髪の女が振り向いた。



正午のこの辺りは、駅が近い為、昼御飯を求める人で溢れていた。



「何?タマ」



「何?ではございません。また今日もあんな風にしては、お父様がまたお叱りになりますよ」



不満げな表情を浮かべて叱責する声に、女は満面の笑みで答えた。



「良いのよ。どうせ私は末っ子だし。お姉さま達は良い所に嫁がれているのだから」



タマと呼ばれたその女は、額に汗をにじませ小走りで彼女の隣に来る。



「そんなことはございません。幸花お嬢様にも良い旦那様を・・・」



「タマ!」



彼女は立ち止まった。



タマは両肩を一瞬震わせた。



「お願い。お父様には私が説明するわ。だから、今はもう何も言わないで」



そう呟くと、彼女は再び歩き始めた。



その後をタマが息を切らせながら追いかける。



「しかしお嬢様、やはり断るにしてもそれなりの方法が・・・」



タマは先ほどの光景を思い出した。



そして実感する。女が学と富を得ることの恐ろしさを。



「・・・そうね。今日はやりすぎたわ」



幸花は大きなため息をついた。



家で落とされる雷の音が、今にも彼女の耳を劈くようだった。





















「幸花」



父が仕事から帰ってくるとすぐに、彼女は居間に呼ばれた。



決して彼女の父の声は大きくはなかった。



今まで父親に怒鳴られたりしたことも、手を上げられたこともない。



穏やかな、しかしどこかにその威厳を感じさせる、そういう声だった。



「どうして今回のお見合い相手は気に入らなかった」



彼女は父の視線から目を逸らした。



「・・・相性が良くなさそうだと思いました」



父がくわえるパイプから、苦くて甘い香りがした。



「幸花、私は君を少し甘やかしすぎたかもしれん」



いつもは柔らかいソファも、その時ばかりは岩の上に座っているようだった。



広い居間に、父親と二人だけでの向かい合わせのこの状況は、



最近では日常茶飯事になりかけている。



「強制はしない。しかし、幸花ももう19歳だ。その事は良く分かっているね?」



「はい・・・」



女学校時代の友人のほとんどは既に結婚していた。



中には子までも産んでいる者もいた。



「でも、お父様、私・・・」



「私も分かっている。しかし、いつまでもそうはいかないだろう」



彼女は俯いた。



父はソファから立ち上がった。



「好きな絵も音楽も学も、結婚してからでも出来る。優先事項を間違えてはいけない」



父が窓の方に歩いていく。



その後姿は広く、大きかった。



「・・・はい」



「・・・自分の部屋に戻りなさい。私はこれから先方に詫びの電話を入れねばならない」



「ごめんなさい、お父様」



「もう良い。しかし、幸花、やはり断るにも無礼であってはならない」



「はい。お休みなさい、お父様」



「・・・お休み」





















自分の部屋までへの長い廊下を歩いていると、背後に気配を感じた。



「・・・タマ、言ったのね、お父様に」



彼女は振り向きもせず言った。



「申し訳ございません。しかし、お父様からは逐一報告するようにと言われておりまして」



「・・・でも、すっきりしたわ」



彼女は今日、自分が言った台詞と相手の顔を思い出しては、笑いそうになった。



「学者馬鹿との見合いはもう嫌よ。


自分の専門分野のことばかり話して、つまんないんだから!」



「しかし、『満州征服』に意外と時間がかかっていることについて話されたからといって、


『常識無しの空っぽ脳みそと話すことについては


それに匹敵するぐらいのかなりの時間と労力を費やす』と言っては駄目ですよ・・・」



「事実を言ったまでよ」



「山内家は学者だけなのですよ、親族にいないのは」



山内家は当時、日本でも有数の財閥であった。



彼女の2人の姉は、他の財閥や政治家の家に嫁いでいた。



「だから、日本の有能な学者様とお嬢様が結婚なされば、山内家は・・・」



「タマ」



彼女は真剣な眼差しでタマを見つめた。



「お姉様達みたいな生活は、本当に幸せなの?」



「・・・えぇ。そうでございます」



タマは答えた。『少なくとも、私たちよりは』という言葉を付さないで。



「・・・」



幸花は何も言わず、自分の部屋へ向かっていった。


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