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雨音色  作者:
16/17

第16話・想い。






「誰だったの?」



縁側に戻ると、茶椀が2つ用意されていた。



彼の湯飲みには、湯気が立っていた。



「ちょっとした知り合いだよ。


大した用事ではなかったけどね」



彼はそれを持ち上げ、温かいそれを飲んだ。



その様子を、横に座る母がじっと見詰める。



そして、彼女は静かに語りだした。



「最近ね、思うのよ」



「ん?何を?」



「母さんね、今まで我侭に生きてきたなって。


やりたい事やって、言いたい事言って」



その言葉に、懐かしい気持ちになる。



藤木は昔の生活を思い出した。



家族4人で暮らしていた日々。



裕福ではなかったけど、



とても楽しくて、誰一人欠ける事無く笑い合っていたあの頃。



特に母は愉快で、自由奔放な人だった。



旅行に行きたいと思えば、



平日でも子供や夫に学校を休ませて家族旅行をしたこともあった。



いつも元気一杯で、表情が人一倍豊かで。



夫婦喧嘩も、大体は母親が優勢だった。



しかし父はそんな母に対して何も言わず、



黙って、それもにこやかに聞いていた。



そして母を見るその目は、愛情で溢れていた。



そんな姿を思い出し、彼は自分の胸がいっぱいになる事を感じる。



「本当、その通りだね」



彼は苦笑交じりで答えた。



「でもね、1つだけ、今でもああすれば良かったって、後悔している事があるの」



「母さんが?意外だね」



「そうでしょ?ねぇ、何だと思う?」



考えてはみたが、思い当たる節は無かった。



「うーん、分かんないや。何?」



少しの間の後、彼女は恥ずかしそうに言った。



「・・・お父さんに、愛してるって、言わなかったこと」



「え?」



思わぬ科白に、彼は目を丸くした。



彼女は懐かしそうに目を細めていた。



まるで、遠い何かを見詰めるかの如く。



「私達、お見合いで出会ったの。


お父さんは当時助教授で、私は女学校を出たばかり。


出会った時にね、直感でこう思ったのよ。


『あぁ、この人と結婚すれば幸せになれる』て」



彼女は照れくさそうに笑う。



「へぇ。すごいね。実際その通りになったじゃない」



「えぇ。本当、その通りだったわ。


その数ヵ月後に私達は結婚したのだけど、


お父さん、結婚を申し出る時、何ていったと思う?」



「え?何か言ったの?」



普通、見合いは結婚を前提とする。



―自分のような例外もあったが。―



わざわざ申し出る必要はほとんどない。



「えぇ。こう言ったの」



一呼吸付いて、彼女は続けた。



「『愛しています』て」



真っ赤になる彼女の顔は、まるで少女のそれのように見えた。



「お母さん、武家育ちだから、言われた時は恥ずかしくて、恥ずかしくて。


その場に倒れるかと思ったわ。


でも同時に嬉しくて。


結婚してからも、お父さんはしばしば言ってくれたの。


その・・・言葉を」



意外な事実だった。



物静かそうな父が、母にそう言っていたなんて。



「その度にお母さんは真っ赤になるだけで、何も言えなかったわ。


時々は悪態もついてしまったり。


でもね、いつかは言おうと思っていたの、私も同じ言葉を」



茶碗を持ち上げ、渇いた喉に茶を少しずつ流し込んでいく。



生まれて初めて、母が悲しそうな顔をしたのを目の当たりにした。



「・・・だけど、言わないまま、お父さんは私を置いて先に逝ってしまったわ」



彼女は両手に持っていた空っぽの茶碗を見つめていた。



「きっと、お父さんは分かっていたよ。


お母さんもそう思っていることぐらい」



彼は確信を持って言った。



「えぇ。そうかもね。でも・・・」



茶碗を藤木は無言のまま、眺めていた。



「後悔だけはしては駄目。


特に大切な人がいるのであれば尚更よ」



ずしり、と心が重くなった。



終わらせる。



そう、決めた筈なのに。



「・・・母さん」



「何?」



「・・・ううん。何でも無い」



教えてなかった筈なのに。



あの見合いの結末は。



やはり母は母だ、そう彼は思った。



彼女は『よっこいしょ』と言って、立ち上がり、自分の茶碗をお盆に載せた。



「もう一杯、飲む?」



母にいつもの笑顔が戻る。



「うん」



鈴虫の歌声が、秋の夜長を誘い込もうとしていた。



彼は目を閉じ、その歌声に耳を済ませた。



次第に、その声は小さくなっていく。



空の端から浮遊する黒い雲が、月の前を横切るのが見えた。



「また一雨振るのかな・・・」



夜空を見上げ、彼は一人呟いた。





















「お嬢様」



外は再び、たくさんの雨が降っていた。



少し濡れた肩を軽くぬぐい、タマは幸花の部屋の前に来ていた。



「お嬢様、お話があります」



ドアを軽く叩く。



返事は無い。



もう一度叩く。



今度は、もっと強く。



しかし、また返事は無い。



「お嬢様?」



タマがドアを開けた。



部屋は真っ暗であった。



タマはベッドの側に近寄る。



しかし、そこに彼女の姿は無い。



「・・・幸花お嬢様?どこに行かれ・・・」



ふ、と目の端に紙片が写る。



机の上に、1枚の紙が置かれていた。



彼女はそれを手に取った。



「・・・さ、幸花お嬢様!!」



タマの叫び声が、屋敷中に響き渡った。




















どん、どん。



扉を叩く音がした。



「今日は夜の来客が多いこと」



持っていた湯飲み茶碗をちゃぶ台の上に置くと、



彼女はそう呟きながら、玄関の方へ歩いた。



そこには、いつもは洋装の牧が、和服姿で立っていた。



急ぎのようだ、彼女はそう思った。



「あら、牧先生。どうされましたか?こんな時間に」



「壮介君は?」



傘をさす牧の額には、うっすらと汗が浮かんでいた。



「それが、何時の間にか見当たらないのですよ。


さっきまでいたのですが・・・」



牧が困惑したような表情をした。



「実は先ほど、


先日、壮介君が見合いをした相手の山内殿から電話がありまして。


幸花お嬢様が行方不明だそうなのです。


そこで壮介君なら何か知ってるかと・・・」



彼女はしばらく黙った後、こう続けた。



「牧先生。壮介が現れるまで、


ここでお待ちになられたらいかがですか?」



「・・・え?」



彼女は笑った。



「大丈夫ですよ。幸花お嬢様も、きっと直ぐに見つかりますよ。


さ、お上がりください。濡れてしまいますよ」



再度の雨が、強く強く、降っていた。



彼女は微笑みながら、乾き始めていた大きめの手拭を、彼に手渡した。


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