第16話・想い。
「誰だったの?」
縁側に戻ると、茶椀が2つ用意されていた。
彼の湯飲みには、湯気が立っていた。
「ちょっとした知り合いだよ。
大した用事ではなかったけどね」
彼はそれを持ち上げ、温かいそれを飲んだ。
その様子を、横に座る母がじっと見詰める。
そして、彼女は静かに語りだした。
「最近ね、思うのよ」
「ん?何を?」
「母さんね、今まで我侭に生きてきたなって。
やりたい事やって、言いたい事言って」
その言葉に、懐かしい気持ちになる。
藤木は昔の生活を思い出した。
家族4人で暮らしていた日々。
裕福ではなかったけど、
とても楽しくて、誰一人欠ける事無く笑い合っていたあの頃。
特に母は愉快で、自由奔放な人だった。
旅行に行きたいと思えば、
平日でも子供や夫に学校を休ませて家族旅行をしたこともあった。
いつも元気一杯で、表情が人一倍豊かで。
夫婦喧嘩も、大体は母親が優勢だった。
しかし父はそんな母に対して何も言わず、
黙って、それもにこやかに聞いていた。
そして母を見るその目は、愛情で溢れていた。
そんな姿を思い出し、彼は自分の胸がいっぱいになる事を感じる。
「本当、その通りだね」
彼は苦笑交じりで答えた。
「でもね、1つだけ、今でもああすれば良かったって、後悔している事があるの」
「母さんが?意外だね」
「そうでしょ?ねぇ、何だと思う?」
考えてはみたが、思い当たる節は無かった。
「うーん、分かんないや。何?」
少しの間の後、彼女は恥ずかしそうに言った。
「・・・お父さんに、愛してるって、言わなかったこと」
「え?」
思わぬ科白に、彼は目を丸くした。
彼女は懐かしそうに目を細めていた。
まるで、遠い何かを見詰めるかの如く。
「私達、お見合いで出会ったの。
お父さんは当時助教授で、私は女学校を出たばかり。
出会った時にね、直感でこう思ったのよ。
『あぁ、この人と結婚すれば幸せになれる』て」
彼女は照れくさそうに笑う。
「へぇ。すごいね。実際その通りになったじゃない」
「えぇ。本当、その通りだったわ。
その数ヵ月後に私達は結婚したのだけど、
お父さん、結婚を申し出る時、何ていったと思う?」
「え?何か言ったの?」
普通、見合いは結婚を前提とする。
―自分のような例外もあったが。―
わざわざ申し出る必要はほとんどない。
「えぇ。こう言ったの」
一呼吸付いて、彼女は続けた。
「『愛しています』て」
真っ赤になる彼女の顔は、まるで少女のそれのように見えた。
「お母さん、武家育ちだから、言われた時は恥ずかしくて、恥ずかしくて。
その場に倒れるかと思ったわ。
でも同時に嬉しくて。
結婚してからも、お父さんはしばしば言ってくれたの。
その・・・言葉を」
意外な事実だった。
物静かそうな父が、母にそう言っていたなんて。
「その度にお母さんは真っ赤になるだけで、何も言えなかったわ。
時々は悪態もついてしまったり。
でもね、いつかは言おうと思っていたの、私も同じ言葉を」
茶碗を持ち上げ、渇いた喉に茶を少しずつ流し込んでいく。
生まれて初めて、母が悲しそうな顔をしたのを目の当たりにした。
「・・・だけど、言わないまま、お父さんは私を置いて先に逝ってしまったわ」
彼女は両手に持っていた空っぽの茶碗を見つめていた。
「きっと、お父さんは分かっていたよ。
お母さんもそう思っていることぐらい」
彼は確信を持って言った。
「えぇ。そうかもね。でも・・・」
茶碗を藤木は無言のまま、眺めていた。
「後悔だけはしては駄目。
特に大切な人がいるのであれば尚更よ」
ずしり、と心が重くなった。
終わらせる。
そう、決めた筈なのに。
「・・・母さん」
「何?」
「・・・ううん。何でも無い」
教えてなかった筈なのに。
あの見合いの結末は。
やはり母は母だ、そう彼は思った。
彼女は『よっこいしょ』と言って、立ち上がり、自分の茶碗をお盆に載せた。
「もう一杯、飲む?」
母にいつもの笑顔が戻る。
「うん」
鈴虫の歌声が、秋の夜長を誘い込もうとしていた。
彼は目を閉じ、その歌声に耳を済ませた。
次第に、その声は小さくなっていく。
空の端から浮遊する黒い雲が、月の前を横切るのが見えた。
「また一雨振るのかな・・・」
夜空を見上げ、彼は一人呟いた。
「お嬢様」
外は再び、たくさんの雨が降っていた。
少し濡れた肩を軽くぬぐい、タマは幸花の部屋の前に来ていた。
「お嬢様、お話があります」
ドアを軽く叩く。
返事は無い。
もう一度叩く。
今度は、もっと強く。
しかし、また返事は無い。
「お嬢様?」
タマがドアを開けた。
部屋は真っ暗であった。
タマはベッドの側に近寄る。
しかし、そこに彼女の姿は無い。
「・・・幸花お嬢様?どこに行かれ・・・」
ふ、と目の端に紙片が写る。
机の上に、1枚の紙が置かれていた。
彼女はそれを手に取った。
「・・・さ、幸花お嬢様!!」
タマの叫び声が、屋敷中に響き渡った。
どん、どん。
扉を叩く音がした。
「今日は夜の来客が多いこと」
持っていた湯飲み茶碗をちゃぶ台の上に置くと、
彼女はそう呟きながら、玄関の方へ歩いた。
そこには、いつもは洋装の牧が、和服姿で立っていた。
急ぎのようだ、彼女はそう思った。
「あら、牧先生。どうされましたか?こんな時間に」
「壮介君は?」
傘をさす牧の額には、うっすらと汗が浮かんでいた。
「それが、何時の間にか見当たらないのですよ。
さっきまでいたのですが・・・」
牧が困惑したような表情をした。
「実は先ほど、
先日、壮介君が見合いをした相手の山内殿から電話がありまして。
幸花お嬢様が行方不明だそうなのです。
そこで壮介君なら何か知ってるかと・・・」
彼女はしばらく黙った後、こう続けた。
「牧先生。壮介が現れるまで、
ここでお待ちになられたらいかがですか?」
「・・・え?」
彼女は笑った。
「大丈夫ですよ。幸花お嬢様も、きっと直ぐに見つかりますよ。
さ、お上がりください。濡れてしまいますよ」
再度の雨が、強く強く、降っていた。
彼女は微笑みながら、乾き始めていた大きめの手拭を、彼に手渡した。




