第15話・真実と現実の狭間で。
「はい、どちらさま・・・」
玄関の扉を開けると、真新しい記憶に残っている女性の姿が、そこに立っていた。
「・・・よくここがお分かりで」
彼は穏やかに言った。
「少しばかし、時間を頂けますでしょうか」
彼は玄関方から外に出て、戸を閉めた。
ガラガラ、という音が大きく響く。
彼女は彼を前にして、何かを躊躇っている様だった。
何も聞こえない。
ただ、鈴虫の歌声のこだまを除いては。
少しして、彼女が静かに話し始める。
「・・・私のせいでございます」
「はい?」
唐突な彼女の言葉が、その場を浮遊する。
「私が旦那様に申し上げました。貴方様が庶民であることを」
突然のタマの発言に、藤木は戸惑った。
鈴虫の鳴き声が、静けさの中で、そのか細さを響かせていく。
「ある日偶然、私は貴方様が庶民であることを知ってしまいました。
私はとても悩みました。
この事を、旦那様に伝えるべきかどうか。
そこで、こう考えたのでございます。
お嬢様は今まで苦労などしたことはございません。
世間知らずのお嬢様がこのまま貴方様に嫁ぐことになれば、必ずやお嬢様本人のみならず、
貴方様までをも苦しませる事になる、と」
頭上に輝く満月が、柔らかく彼らを照らす。
「違う身分同士の結婚は、祝福されません。
下からは妬まれ、上からは恨まれます。
貴方様も学者様であれば、このような事はお分かりでしょう」
タマは吸えるだけの息を胸に取り込んだ。
「わざわざその事をお伝えに・・・?」
「いえ、それだけではございません」
彼女は少し俯いた。
「私は先程、貴方様に嘘を付きました。
お嬢様は元気であると。
しかし、実はお嬢様は貴方様に会えなくなってからというもの、
毎日泣いて暮らしております。
あんなに悲しまれるお姿は、
お母様がお亡くなりになって以来でございます」
タマが悲しそうな顔をした。
「タマは耐えられません。
あんなお姿を見続けるのは。
そこで恥を承知で、
貴方様に頼みたいことがございます」
「何でしょう」
彼が優しく微笑んだ。
これ以上無い程に。
少しの躊躇いの後、静かに彼女が呟く。
「・・・お嬢様に1度、会っていただけませんか。
会って、貴方様を諦めるよう、説得してくださりませんか」
沈黙が再び落とされた。
鈴虫の鳴き声が、彼らの間をさ迷う。
彼は瞼を落とした。
そして瞳を閉じたまま。彼が口を開いた。
「その必要はございません。
僕は早ければ年内に独逸に向かう予定です。
日本には当分帰れません。
僕達は縁が無かった、と。
そう、お嬢様にお伝えください」
藤木は瞼を開き、再び微笑んだ。
開いたその瞳に、迷いは映っていなかった。
彼は分かっていた。
今こそ幕を引く時なのだ、と。
所詮、身分違いの恋など、西洋の映画のように実るはずがない。
現実とは、そういうものなのである。
「・・・承知いたしました。タマの無礼、どうかお許しくださいませ」
タマが、深く頭を下げる。
「いえ。僕の方こそ、故意ではございませんが、
身分を偽っていた事を謝罪しなければなりません」
彼も同じく、頭を下げた。
そして、彼女は顔を上げ、出口の方にその足先を変えた。
「・・・藤木様」
しばらく歩いて、タマが立ち止まった。
「貴方様は、お嬢様のことを好いていらっしゃいましたか」
暫くして、彼女の背中に暖かな言葉が反射した。
「えぇ。そう・・・だったようです」
何も言わず、タマは再び歩き始めた。
彼はその姿を、見えなくなるまで見送った。
暫くの間、彼はその場で、
胸の奥でじわりと疼く締め付けてくる痛みを、噛み締めていた。




