第14話・雨の強さに打たれながら。
「それでは野村先生、詳細は後ほど」
牧がかぶっていた帽子を右手で軽く持ち上げた。
「えぇ。後日研究室の方にお伺いします」
野村はそう言うと、同じように帽子を少し持ち上げて、車内へと乗り込んだ。
白い煙が、その場に一瞬立ち込める。
「雲行きが良くないな。一雨振るかもしれん」
車が過ぎ去る様を見送りながら、
薄暗い空を見上げて、隣にいた牧は呟いた。
「藤木君、乗っていくだろう?」
講堂を出たところに、大きな黒い車が彼の前に止まった。
「申し訳ありません。今日は寄る所がありますので」
時は午後5時を回っていた。
他の学者達も、それぞれ自らの帰途へ着き始めている。
「・・・そうか。それじゃあ、また明日」
牧はそう言うと、そのまま車に乗り込んで行った。
彼は感じていた。
その背中に掲げられた優しさを。
「はい。また明日」
ばたん、とドアが閉まると同時に、白い煙を吐き出して車は去っていった。
彼はその場で、その姿が見えなくなるまで、佇んでいた。
藤木はひたすら道を歩いていた。
寄る所など、本当は何処にも無くて。
ただ、歩きたい。
ふらふらと、彷徨う子羊のように。
それが牧の申し出を断った理由だった。
ひたすらに、道が続く限り、脚の動きを続けていく。
自分が何処にいるのかさえもよく分からない。
何故こんな気持ちになるのか、自分自身に問い掛けてみても、
明確な答えは導き出せない。
だからといって、歩けば答えが出るはずも無くて。
ただ、彼は少し休みたかった。
忙しすぎた頭を、少しの間だけでも休ませたかった。
モヤモヤした、得体の知れない何かが心の片隅にこびり付いている。
そこまではよく分かっているのだけれども。
同時に、どこかそれが滑稽に感じられた。
自分で自分が、よく分かっていないなんて。
皮肉な笑いが、溜息に変わっていった。
ぽつ、と何かが顔に当たる。
ぽつ、ぽつ、とそれは次第に数を増やしていく。
そして、
しまいにはそれが集団の形になって、地上のすべてにぶつかっていた。
牧が言った通り、
何時の間にか空は、その姿を漆黒の闇に包まれ、大粒の雨を降り落としていた。
前髪から滴る雨粒が、眼鏡に映る光景を曇らせる。
しかし、それは彼を止めるほどには十分の力を持ち合わせていないようだった。
彼の耳には、雨が道を打ちつける音しか聞こえない。
彼は歩みを止めなかった。
ただ、歩き続けた。
見慣れない景色が続いても。
雨が、体に染み込んで行く。
着ている服にも、同様に。
砂漠の土地に、水が染み入るかのように。
心地よい冷たさと体に感じる重みが、
彼の歩みを助けていた。
どれくらいの距離を歩いたのだろう。
そろそろ体に疲れを感じ始めていた頃。
ある所の道の角を曲がると、そこには洋風の大きな屋敷が建っていた。
彼はそこでようやく、その歩みを止めた。
しばし、その場に立ち尽くす。
何が彼をそうさせたのかは、分からない。
彼は何もすることなく、雨に打たれながら、ただその屋敷を見つめていた。
いつの日にか見た欧州の風景が、
目の前に再現されている。
よほどの財力の持ち主だろう、
そんな取り止めの無い事を、藤木は思った。
そして、彼は再び、その歩みを続けようとした。
その時だった。
ぎぃ、という音と共に、門の所で人の気配がした。
その人は少しの間、その場に立ち止まり、
傘もささずに歩くずぶ濡れの彼を見ているようだった。
初めは気にせずに歩いていた彼も、
その視線の強さに、振り向かずにいられなかった。
「・・・貴方は・・・」
二人はしばらく黙ったままだった。
「何故ここにいらっしゃるのですか?」
振り落ちる雨音の中で、彼はその人を見詰めた。
彼に鋭い視線が投げかけられる。
「ここは貴方の様な方が来られる場所ではございません。
早急にお引取りください」
その人が近づいて来る。
どしゃぶりの雨の中、足音が何故かよく聞こえた。
傘の影でよく見えなかった顔が、はっきり見えてきた。
「・・・タマさん、でいらっしゃいましたよね」
彼が呟いた。
「貴方様は此処に来られる資格などございません。
山内家を欺いた罪の大きさは、例え故意でなくとも計り知れません。
お引取りになられないのであれば、警察の方に連絡をいたしますよ」
厳しい声が、雨と共に彼を突き刺す。
「申し訳ありません。
歩いていたら、立派なお屋敷が見えたので、つい見とれてしまいました。
ここが山内様の邸宅であったとは露知らず。
無礼をお許しください」
彼は静かに頭を下げた。
その口元に、そっと微笑を浮かべて。
そして、無言のまま、自らの歩んできた道を進み始めた。
背後からの視線がちくりと痛みを疼かせる。
が、しばらくして、その足が止まった。
彼は振り向きもせず、こう尋ねた。
「・・・タマさん。1つだけお尋ねしたいことがあるのですが・・・」
雨音が、二人の会話を遮ろうとする。
「貴方様に話すことは何もございません」
即座の返答に、沈黙が続いた。
言葉は無い。
ただ雨の降り続ける音が、こだまする。
そしてしばらくして、彼は再度口を開いた。
「幸花さ・・・もとい、お嬢様は、今尚笑っておられますか?」
タマは何も答えない。
彼は彼女の方を向かず、そのまま話し続けた。
「お嬢様が元気でいらっしゃるか。
間違っても落ち込まれたりしていないか。
それだけが、僕の気掛かりです」
静かな、それでいてしっかりした声が、その場を駆ける。
その瞬間、彼は悟った。
あぁ、これだったのか、と。
「・・・お嬢様は、貴方と別れて清々した、そうおっしゃっていらっしゃいます」
響く。
冷たく、激しく。
雨の音が。
耳の奥に。
心の奥底に。
深く、更に深く。
「そうですか。
それを聞けて安心しました。
申し訳なかった、そう一言、お嬢様に伝えてくださると幸いです」
そう言うと同時に、彼は歩き始めた。
後ろを振り向くことも無く、来た道を真っ直ぐに。
彼女はしばらくその場で、濡れた彼の背を見詰めていた。
雨音だけが、激しくその場に響き渡っていた。
「母さん、そういうことだから、
またしばらくの間、牧先生の家に居る事になるかもしれないけど・・・」
彼らは縁側に座っていた。
藤木は湿った手拭いを首にかけていた。
夜も深くなり始めてきた頃だった。
冷え切った体を温める為に、
帰宅後直ぐに風呂に入った後、彼は母に留学の件を告げた。
雲間から顔を覗かせる満月の光が、庭先を明るく照らす。
夜だけの鈴虫の合唱が聞こえてきた。
「そう。お土産頼んだわよ。欧州のお菓子はおいしいから、よろしくね」
母は笑いながら、蚊取り線香に火を付けた。
「うん。頑張ってくるから」
先ほどまでの雨と打って変わって、静けさが漂っている。
秋の到来が、もう目の前に迫っていた。
「・・・壮介」
「何?」
母が何かを言いかけた、その時だった。
どん、どん。
誰かが玄関を叩く音が聞こえた。
「こんな時間に誰だろう。ちょっと見てくるよ」
彼は手ぬぐいをはずし、
隣に置いていた洋式のランプを右手に持ち、玄関に向かった。
母は、彼の後姿を眺めていた。




