第13話・決まっていた、運命
「幸花は今どうしている」
長い廊下で、初老の男性が心配そうな様子である女中に話し掛ける。
窓の外からは、残暑に負けんとばかりに、威勢の良い蝉の鳴き声が聞こえてくる。
「はい。部屋に篭りっきりでございます。お食事もあまり手を付けておりません」
女中も同じような様子で、その質疑に応答する。
「もうあれから1週間にもなる。タマ。どうにかして幸花を説得してくれ」
男性が大きな、そして長いため息を付いた。
「・・・かしこまりました」
タマが立ち去ろうとした時、彼が呟いた。
「私は、間違っているか?」
タマは、その歩みを止めた。
「・・・旦那様・・・」
彼はタマの方を向いた。
「君だったら、そのまま結婚させるか?」
愚問である。
答えなど、明白過ぎる。
それも、『あの人』と結婚していたこの人であれば、尚更だ。
そう、彼女は思った。
「身分が違う者同士の結婚は、私と妻で十分だ。
あの彼も苦労するに決まっている」
沈黙だけが、その場を漂っていた。
蘇り出す記憶。
バラバラになっていた記憶の欠片が、
その原型を取り戻そうとする。
「旦那様は、奥様と結婚されたことを、後悔されていらっしゃるのですか?」
しばらくして、彼が口を開いた。
「・・・彼女にはたくさん辛い思いをさせた。
彼女をこんな金に汚れた世界に連れてきてしまい、寿命を縮ませたのは私の責任だ。
君も知っているだろう、彼女の苦労を」
丁度、この家で働き始めた時を思い出した。
そして一緒に働いていた、自分と同期の、女中のことを。
気がつけば彼女は当家の一人息子と恋に落ち、周囲の反対を押し切って結婚した。
立ち入ってはならなかった筈の区域に、彼女は無謀にも独りで飛び込んで行った。
タマは数少ない彼女の見方として、最期まで彼女の傍にいた。
『女中』として。
そして、『友達』として。
「あのまま、彼女を諦めて同じ身分の者と結婚していれば、
彼女は今もどこかで生きていてくれたかもしれない。
そう思うと・・・」
彼が言葉を詰まらせる。
「・・・旦那様」
無謀な彼女も、決して何も考えなかった訳では無い。
それだけは、タマは確信できた。
何かを彼に伝えたい。
だが、それを自分がどのように表現すれば良いか分からなかった。
そもそも、表現して良いのかさえも。
ただその場で、その背中を見つめているしかなかった。
いつもは大きく見えるそれも、今だけは、とても小さく見えた。
「・・・娘にまで苦しい思いは、させる必要はない。
そう、思うのが普通ではないか・・・」
蝉の鳴き声が、廊下中に響き渡っていた。
「お嬢様。入っても宜しいでしょうか」
タマがノックをする。
しかし、返事は無い。
「・・・お嬢様」
ドアノブに手をかけ、ゆっくり回す。
ぎぃ、と軋む音と同時に扉が開く。
「お嬢様・・・?」
部屋は昼とは思えないくらいの暗さだった。
ベッドに顔をうずめる姿が見える。
彼女はそっとその隣に腰掛けた。
「幸花お嬢様・・・」
「・・・」
彼女が顔をあげた。
大きな目は、開けられないくらいに真っ赤に腫れていた。
頬も鼻も赤くなっている。
タマが彼女の髪をゆっくりとなで始めた。
「お嬢様。元気をお出しください。タマは・・・」
手を彼女の髪から離した。
彼女は次にかける言葉を見つけられなかった。
代わりに、幸花がその口を開く。
「・・・夢だったら良いのに」
鼻にかかった声で、呟いた。
「全部夢だったら良いのに。醒めてしまえば、それで・・・」
タマは何も言えなかった。
「学者とさえ結婚すれば、それで良かったのでしょう?
それなのに、何故・・・」
再び、その瞳に涙が溢れる。
タマがようやく話し始めた。
「幸花お嬢様。貴女様は山内一族の一員でございます。
お嬢様はそれに相応しい方と御結婚なさらなければなりません」
彼女はタマを見つめる。
泣き疲れた顔が、青白い。
「・・・どういう事?」
タマは続けた。
「あのお方は、お嬢様とは全く違う世界の人間だったのでございます。
つまり、庶民階層の人間なのでございます。
山内家の一員である以上、庶民と結婚するなぞ、世間が許しません」
薄暗い部屋に、静けさが漂う。
あの時言うべき筈だった言葉を今、伝えている。
その遅さが、滑稽な位に悲しい。
しばらくして、幸花がそれを消した。
「・・・だから?」
幸花の声が震えていた。
「だから何なの?
私は、私は世間の為に、山内家の繁栄の為に結婚するのが義務なの?
お姉様達みたく、好きでもない人と暮らして、
夫婦共に外で他に愛人作ることが結婚なの?
そんな生活送るぐらいなら山内の名前なんか要らないわ!」
幸花が大声を絞り上げた。
タマはただ、幸花を見つめていた。
「お嬢様。世間はそんなに甘くないのですよ」
タマが諭すように言った。
「私達は生まれつきそれぞれの身分があり、そこには義務があるのです。
貴女様は貴女様の身分がございます。
そして、私には私の身分がございます。
私が貴女様にお使えするのも、身分故に課される義務だからでございます。
これは永遠に変えることはできない、運命なのです」
強く、厳しく、
世の理を教えてやらねばならない。
山内家の女中として。
「・・・そんなの・・・」
タマはそれ以上何も言わなかった。
幸花は無言のまま、再びベッドの上にその顔を埋め、
止まらない何かを、ただただ流し続けるのであった。
「藤木君、君、本当に素晴らしかったよ!」
「野村先生、ありがとうございます」
学会の終了と同時に、藤木が座っているところに、背の低い男が近づいて来た。
そして、藤木の手を握り、上下に激しく揺らす。
彼は急いで立ち上がった。
「いや、お世辞ではない。
私は感動して鳥肌が立ったくらいだ。
牧先生、貴方は本当に優秀な弟子をお持ちになられた」
隣で得意そうに笑う牧が、大きな口ひげを何度も何度も触る。
その日は帝国大の講堂を会場とした、学会が開かれていた。
「いえいえ。滅相もございません。
まだまだ彼は若いですし、研究も未熟でございます」
「何をおっしゃる。これは早速政府の方に藤木君を留学候補者に推薦しなければ」
夏の暑さも峠を過ぎた頃だった。
その日の藤木の論文の発表は、学会でも高い評価を得ることができ、
たくさんの学者からの支持を得る事が出来た。
「共犯論の根幹を揺るがしかねない理論である。
これならば独逸の学者の間でも引けを取らぬでございましょう。
出来る限り早急に政府の方に申し立てておきましょう。
早ければ、今年中には独逸に行けるかもしれません」
―独逸。昨年までいた、遥か遠い欧州の国。―
刑法議論の最先端が、彼を待っている。
藤木は心底喜んだ。
少しばかりの苦さが、そこに紛れている事に気づかないで。
「ありがとうございます」
彼は再び野村の手を握り、頭を下げた。
「何、礼には及ばぬ。君の実力ですよ」
野村が笑いながらその手を揺すった。
目の前に、確たる未来が一瞬見えた気がした。
初めから、そう決められていたのだろう。
そういう運命だった。
そういう・・・。
「・・・藤木君?いつまで握手しているつもりですか?」
「え?あ、ごめんなさい」
藤木は慌ててその手を離した。
「ははは。よっぽど嬉しいようですね」
3人が一斉に笑い出した。
講堂にその声がこだまする。
それが彼の心の片隅に、
じん、と響いた。




