表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雨音色  作者:
13/17

第13話・決まっていた、運命

「幸花は今どうしている」



長い廊下で、初老の男性が心配そうな様子である女中に話し掛ける。



窓の外からは、残暑に負けんとばかりに、威勢の良い蝉の鳴き声が聞こえてくる。



「はい。部屋に篭りっきりでございます。お食事もあまり手を付けておりません」



女中も同じような様子で、その質疑に応答する。



「もうあれから1週間にもなる。タマ。どうにかして幸花を説得してくれ」



男性が大きな、そして長いため息を付いた。



「・・・かしこまりました」



タマが立ち去ろうとした時、彼が呟いた。



「私は、間違っているか?」



タマは、その歩みを止めた。



「・・・旦那様・・・」



彼はタマの方を向いた。



「君だったら、そのまま結婚させるか?」



愚問である。



答えなど、明白過ぎる。



それも、『あの人』と結婚していたこの人であれば、尚更だ。



そう、彼女は思った。



「身分が違う者同士の結婚は、私と妻で十分だ。


あの彼も苦労するに決まっている」



沈黙だけが、その場を漂っていた。



蘇り出す記憶。



バラバラになっていた記憶の欠片が、



その原型を取り戻そうとする。



「旦那様は、奥様と結婚されたことを、後悔されていらっしゃるのですか?」



しばらくして、彼が口を開いた。



「・・・彼女にはたくさん辛い思いをさせた。


彼女をこんな金に汚れた世界に連れてきてしまい、寿命を縮ませたのは私の責任だ。


君も知っているだろう、彼女の苦労を」



丁度、この家で働き始めた時を思い出した。



そして一緒に働いていた、自分と同期の、女中のことを。



気がつけば彼女は当家の一人息子と恋に落ち、周囲の反対を押し切って結婚した。



立ち入ってはならなかった筈の区域に、彼女は無謀にも独りで飛び込んで行った。



タマは数少ない彼女の見方として、最期まで彼女の傍にいた。



『女中』として。



そして、『友達』として。



「あのまま、彼女を諦めて同じ身分の者と結婚していれば、


彼女は今もどこかで生きていてくれたかもしれない。


そう思うと・・・」



彼が言葉を詰まらせる。



「・・・旦那様」



無謀な彼女も、決して何も考えなかった訳では無い。



それだけは、タマは確信できた。



何かを彼に伝えたい。



だが、それを自分がどのように表現すれば良いか分からなかった。



そもそも、表現して良いのかさえも。



ただその場で、その背中を見つめているしかなかった。



いつもは大きく見えるそれも、今だけは、とても小さく見えた。



「・・・娘にまで苦しい思いは、させる必要はない。


そう、思うのが普通ではないか・・・」



蝉の鳴き声が、廊下中に響き渡っていた。


























「お嬢様。入っても宜しいでしょうか」



タマがノックをする。



しかし、返事は無い。



「・・・お嬢様」



ドアノブに手をかけ、ゆっくり回す。



ぎぃ、と軋む音と同時に扉が開く。



「お嬢様・・・?」



部屋は昼とは思えないくらいの暗さだった。



ベッドに顔をうずめる姿が見える。



彼女はそっとその隣に腰掛けた。



「幸花お嬢様・・・」



「・・・」



彼女が顔をあげた。



大きな目は、開けられないくらいに真っ赤に腫れていた。



頬も鼻も赤くなっている。



タマが彼女の髪をゆっくりとなで始めた。



「お嬢様。元気をお出しください。タマは・・・」



手を彼女の髪から離した。



彼女は次にかける言葉を見つけられなかった。



代わりに、幸花がその口を開く。



「・・・夢だったら良いのに」



鼻にかかった声で、呟いた。



「全部夢だったら良いのに。醒めてしまえば、それで・・・」



タマは何も言えなかった。



「学者とさえ結婚すれば、それで良かったのでしょう?


それなのに、何故・・・」



再び、その瞳に涙が溢れる。



タマがようやく話し始めた。



「幸花お嬢様。貴女様は山内一族の一員でございます。


お嬢様はそれに相応しい方と御結婚なさらなければなりません」



彼女はタマを見つめる。



泣き疲れた顔が、青白い。



「・・・どういう事?」



タマは続けた。



「あのお方は、お嬢様とは全く違う世界の人間だったのでございます。


つまり、庶民階層の人間なのでございます。


山内家の一員である以上、庶民と結婚するなぞ、世間が許しません」



薄暗い部屋に、静けさが漂う。



あの時言うべき筈だった言葉を今、伝えている。



その遅さが、滑稽な位に悲しい。



しばらくして、幸花がそれを消した。



「・・・だから?」



幸花の声が震えていた。



「だから何なの?


私は、私は世間の為に、山内家の繁栄の為に結婚するのが義務なの?


お姉様達みたく、好きでもない人と暮らして、


夫婦共に外で他に愛人作ることが結婚なの?


そんな生活送るぐらいなら山内の名前なんか要らないわ!」



幸花が大声を絞り上げた。



タマはただ、幸花を見つめていた。



「お嬢様。世間はそんなに甘くないのですよ」



タマが諭すように言った。



「私達は生まれつきそれぞれの身分があり、そこには義務があるのです。


貴女様は貴女様の身分がございます。


そして、私には私の身分がございます。


私が貴女様にお使えするのも、身分故に課される義務だからでございます。


これは永遠に変えることはできない、運命なのです」



強く、厳しく、



世の理を教えてやらねばならない。



山内家の女中として。



「・・・そんなの・・・」



タマはそれ以上何も言わなかった。



幸花は無言のまま、再びベッドの上にその顔を埋め、


止まらない何かを、ただただ流し続けるのであった。

























「藤木君、君、本当に素晴らしかったよ!」



「野村先生、ありがとうございます」



学会の終了と同時に、藤木が座っているところに、背の低い男が近づいて来た。



そして、藤木の手を握り、上下に激しく揺らす。



彼は急いで立ち上がった。



「いや、お世辞ではない。


私は感動して鳥肌が立ったくらいだ。


牧先生、貴方は本当に優秀な弟子をお持ちになられた」



隣で得意そうに笑う牧が、大きな口ひげを何度も何度も触る。



その日は帝国大の講堂を会場とした、学会が開かれていた。



「いえいえ。滅相もございません。


まだまだ彼は若いですし、研究も未熟でございます」



「何をおっしゃる。これは早速政府の方に藤木君を留学候補者に推薦しなければ」



夏の暑さも峠を過ぎた頃だった。



その日の藤木の論文の発表は、学会でも高い評価を得ることができ、


たくさんの学者からの支持を得る事が出来た。



「共犯論の根幹を揺るがしかねない理論である。


これならば独逸の学者の間でも引けを取らぬでございましょう。


出来る限り早急に政府の方に申し立てておきましょう。


早ければ、今年中には独逸に行けるかもしれません」



―独逸。昨年までいた、遥か遠い欧州の国。―



刑法議論の最先端が、彼を待っている。



藤木は心底喜んだ。



少しばかりの苦さが、そこに紛れている事に気づかないで。



「ありがとうございます」



彼は再び野村の手を握り、頭を下げた。



「何、礼には及ばぬ。君の実力ですよ」



野村が笑いながらその手を揺すった。



目の前に、確たる未来が一瞬見えた気がした。



初めから、そう決められていたのだろう。



そういう運命だった。



そういう・・・。



「・・・藤木君?いつまで握手しているつもりですか?」



「え?あ、ごめんなさい」



藤木は慌ててその手を離した。



「ははは。よっぽど嬉しいようですね」



3人が一斉に笑い出した。



講堂にその声がこだまする。



それが彼の心の片隅に、



じん、と響いた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ