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雨音色  作者:
11/17

第11話・進展、そして退行。


「おはようございます」



既に彼女と会ってから1週間が経とうとしていた。



その日の朝も、いつも通りの格好で、藤木は牧の研究室を訪れる。



両手には、顔を隠すぐらいの本が大量に抱えられていた。



「藤木君、おはよう。独逸語の辞書かい?」



言うや否や、牧は独逸語の辞書を本棚から取り出し、



彼の両腕の中の本の山に、それを重ねた。



「あ、ありがとうございます」



その重たさに、思わず彼がよろめく。



「そうだ。藤木君」



部屋から出ようとしていた藤木は、立ち止まった。



「はい?」



「今日、君の4限目の授業、私にさせてもらえないか?」



「え?先生がですか?」



突然の申し出に、彼は危うくも本を数冊落としそうになった。



「そうだ。久々に学生諸君等と関わりたいと思ってな。


別に構わんだろう?藤木君」



牧が片目をぎゅ、と瞑る。



普通、他の教官が担当する授業を代わってもらうということは無い。



それも判例刑法ゼミナールといっても、



ベテランの牧が興味を持つような授業ではなく、



過去の判例を学生と共に検討するという内容だ。



「は、はぁ。確かに構いませんが・・・」



彼は重さに耐えながら、その申し出を承諾した。



「それじゃあ決まりだ。では、授業頑張ってくれたまえ」



牧の突然の申し出に違和感を覚えながら、



彼は講堂への道を急いだ。





















それは午後一の授業が終わった頃だった。



ようやく藤木が担当する授業が終わり、生徒からの質問も一通りなし終えた所だった。



藤木が黒板を消して、教壇の上に積み重なっている大量の本を抱えようとすると、



ふ、と視界の端に人の姿が映った。



教室の隅っこに、生徒であろう誰かが座っている。



質問を終える頃には、いつもであれば殆どの生徒は教室に残っていない。



藤木は目を凝らしてその人物を見る。



よく顔は見えなかったが、



恐らく授業では見かけない顔であろう。



下を見て、何かを真剣に読んでいるかのようであった。



彼は本をそこに置いたまま、その人物の方に向かって歩き出した。



「あの、どうされました?」



彼が声をかける。



はっとしたように、その人物が上を向いた。



その瞬間、彼は息を呑んだと同時に、大声を上げそうになった。



「さ、さ、さ、幸花さん!?」



「ごきげんよう、壮介さん」



そこには紛れもなく、袴姿の幸花が笑いながら座っていた。



机の上には見覚えのある分厚い本が1冊開かれている。



「・・・な、な、何故ここにいらっしゃるのですか?」



「先日、牧先生から電話をいただいて、


『刑法に興味はありませんか?』と尋ねられたんです。


壮介さんが専攻なさってる法律だから、少し勉強してみたいなと思っていたので、


『はい』と答えました。


そうしたら、今日、講義に出てみたらどうかと言われまして」



彼はただ、開いた口をぱくぱくさせているだけであった。



「更に牧先生、ご親切なことに、3日前に私の家まで来てくださって、


刑法の基本書までいただきました。


これで勉強されると良いと」



彼女が机の上の本を指差し、そしてにっこりと微笑んだ。



「そ、そうでいらっしゃったのですか」



そういえば、3日前、牧の研究室に入った時、



基本書が机の上に置かれていた。



何故今更、と疑問には思ったものの、



特に気にもしていなかった。



そう思ったのと同時に、藤木の頭に片目をぎゅ、と瞑った牧の顔が浮かぶ。



そして先日の牧の声が蘇る。



『手ぐらい繋ぎなさい』という言葉が。



彼の心臓が、急スピードで高鳴り始める。



「いや、ちょっと、まだ・・・」



突然彼が頭を左右に振り出した。



「・・・?どうされたのですか?」



幸花が不思議そうに尋ねる。



「え?あ、い、いえ。何でもないです」



彼が真っ赤になりながら慌てて答えた。



「・・・変な壮介さん」



彼女は首をかしげながら、机の上の本を閉じた。



「ところで壮介さん、この後はまだ授業がおありですか?」



「いえ、いつもなら授業があるのですが、今日は牧先生が・・・」



そう言い掛けて、彼は今朝の牧の言動を思い出した。



こういう事だったのか・・・。



「壮介さん?どうされましたか?」



「え?あ、いえ。何でもありません」



藤木は小さく溜息を付いた。



「それではまずあの本を研究室に置いてから、どこか参りましょうか」



「はい」



二人は教壇の方に歩き出した。



「すごい量の本ですね・・・」



「おかげで腕だけは逞しいんですよ」



彼は苦笑しながら本を抱え込む。



「少しお持ちしましょうか?」



「いえいえ、そんな・・・て、幸花さん」



彼女は彼の返事も待たず、上のほうの数冊を取り上げた。



「さ、行きましょう」



彼女は笑いながら教壇を降りて行った。



彼は呆気にとられながら、



―同時に少し照れ臭く思いながら―



その後ろをゆっくり歩いた。





















「・・・本当にこれを見るのですか?」



「お嫌いですか?活動写真」



彼等は新宿にいた。



活動写真が見たい、という彼女の要望で、新宿の劇場に来たのだった。



「いえ、ただ、これは、その・・・」



ここは新宿でも有名な活動写真が見れる劇場だった。



弁士の語りも中々と評判で、休日になると、長蛇の列ができた。(*1)



今週の作品は、ホリーウッドのものだった。(*2)



「恋愛を題にした作品ですが、駄目ですか?」



彼は、映画館に掲げられたポスターを複雑な思いで眺める。



「いや、僕、こういうのは初めてで・・・」



頭をしきりに掻きむしった。



さっきから牧のあの笑顔と台詞が脳裏から離れない。



そのせいか、妙に彼女を意識してしまう。



それなのに、こんな映画を見たら、



ますます恥ずかしくなってくる事は請負だ。



先日の大審院の事例よりも取り扱いが困難な問題に、



彼は非常に頭を悩ませていた。



「それならば尚更良いではないですか」



彼女はそういうと、切符売り場の方に走って行った。



「あ、ちょ・・・。幸花さ〜ん」



情けない呼び声を上げながら、彼は彼女の後を追った。




















「良いお話でしたね」



劇場を出ると、既に外は暗くなっていた。



幸花が嬉しそうに、そう藤木に話し掛ける。



しかし、返事は返ってこない。



「壮介さん?」



彼女が顔を覗き込んだ。



「あ、え?・・・あ、わわ・・・」



彼が慌てたように数歩後ろに退く。



「壮介さん、今日はちょっと様子がおかしいですよ。熱でもおありですか?」



「え、い、いや、そんなことありません。僕はいたっていつも通りですよ」



藤木の顔が赤い。



幸花が心配そうに言う。



「もしかして無理していらっしゃった?そうであればごめんなさい、私、無理矢理・・・」



彼女が悲しそうな顔をした。



「い、いえ!ち、違います!断じてそのような・・・」



彼が両手を急速に振る。



「が、学生時代以来だったんで、かなり楽しめました」



彼は微笑みながら、右手に持つ劇場パンフレットをペラペラ捲る。



内心では、やはり、かなりの動揺を覚えていたのだが。



その瞬間、彼は生まれて初めて牧を恨めしく感じざるを得なかった。



「米国のキネマは初めて見ましたが、中々面白かったです。


あの二人、最後は結ばれて本当に良かったですわ」



まだ映画の余韻から抜け出せていないのだろう、幸花がうっとりしたように呟く。



作品の内容は、身分違いの恋に悩む男女の物語だった。



「弁士の語りも素晴らしかったですね。


ちなみに、米国ではホリーウッドの映画が主流で、多種多様なものが作られているそうです」



平静を振舞うため、彼が彼女の半歩前を歩く。



彼はパンフレットを丸めて、それで顔を仰ぎ始めた。



「そろそろ戻りましょう。お迎えは学校の方に来られるのでしょう?」



一瞬、彼女が何かを言いかけたように見えたが、彼女はそのまま「はい」と答えた。



「時間があれば、エリーゼで軽く食事をいたしましょう」



二人は急ぎ足で駅へ向かった。





















駅に着く頃には、既に夜の7時近くになっていた。



「7時30分頃に迎えがいらっしゃるのですよね。


うーん、この時間じゃ間に合わないな・・・」



彼が困ったように頭を掻く。



エリーゼまでは駅からだと10分はかかる。



「・・・あの、それじゃぁ・・・」



彼女が何かを言い出した。



しかし、語尾が消え入るように小さく、良く聞き取れない。



「はい?」



「・・・先日連れて行って下さった土手に寄り道しませんか?


そうすれば時間的に丁度良いと思います」



「お安い御用ですよ」



空にはランプの光と月光が、眩しく街を照らしていた。





















「やっぱり思った通りだわ」



彼女が嬉しそうに呟いた。



二人は土手に腰を下ろしていた。



「何が思われた通りなのですか」



「ここは月と星の光の洪水なのですね。私の家の周辺とは大違いだわ」



無邪気に喜ぶ彼女の隣で、彼が笑う。



「えぇ。ここだけはランプが置かれていませんから」



「本当、夜空の輝きが眩しい位だわ・・・。


先ほどの活動写真の二人が出会った場所でも、


このように星空が広がっていたんでしょうね。


私、この風景もカンバスに留めたいな・・・」



彼女が夜空を見つめる。



ふ、と彼はそんな彼女の横顔を垣間見た。



その時、藤木は心底不安になった。



自分の心音が相手に聞こえ伝わってしまうのではないか、と。



「眩しさなら負けていらっしゃいませんよ。むしろ・・・」



彼は無意識のうちに言葉を口にした。



「え?」



彼女が彼の方を向く。



「いえ・・・。何でもありません」



彼は彼女から目をそらし、夜空を見上げた。



「そろそろ、行きましょうか」



彼女が立ち上がった。



が、その瞬間、彼女が足を滑らせた。



「きゃ!」



藤木は反射的に彼女を助けようとして、咄嗟に立ち上がり、



両手を前に差し出した。



「・・・大丈夫ですか?」



ふぅ、と大きく息を吐く。



「・・・えぇ。危ないところを・・・」



彼女も同時に安堵の吐息を漏らした。



しばらくの間、二人は感じた安堵に気をとられていた。



「・・・あ・・・すみません」



藤木は我に帰った。



彼は彼女の両手を握っていたのである。



急いで外そうとした。



が、左手だけ、外せない。



正確に言うと、外せなかった。



彼女が、しっかりと彼の手を握っていた。



「・・・もし、宜しければ・・・」



うつむいた彼女が、呟く。



「学校までの道のり、このままで歩きませんか」



彼も同時にうつむいたまま、蚊の鳴く様な声で応じる。



「・・・人がいたら、教えてくださいよ」



二人は土手を離れ、学校までの道をゆっくりと歩いていった。





















「・・・お嬢様」



何時の間にか、外では雨が降り出していた。



天井に跳ね返る水の音が聞こえる。



幸花は窓の外を見つめていた。



「何?」



「・・・お嬢様は、本当にあの方と御結婚されるおつもりですか?」



幸花が運転席の鏡を見る。



「・・・何が言いたいの?」



「差し出がましいかもしれませんが、私としては、


お嬢様とあの方は合わないかと」



静かな、そしてはっきりとした口調だった。



そこに映ったタマの厳しい表情は、今までに見たことがなかった。



見合いを散々に終わらせた時でさえ、このような顔はしなかったのに。



「何故そう思うの?」



「・・・」



タマは何も言わない。



ただ前を見つめているだけだった。



その先には、彼女の知らない何かが映っているようだった。



雨音が響く。



狭い車内に、強く、激しく。



「先日の如く、根拠が無いのであれば、そういう事は言わないで欲しいわ」



「・・・申し訳ありません」



タマが頭を下げた。



静けさだけが、車内を漂っていた。





















「・・・どうしようかしら」



タマは家路に着いていた。



頭の中では、その日のある会話がさっきから何度も繰り返されていた。



「はぁ・・・」



大きな溜息をつく。



雨は、いつのまにか止んでいた。



「どうしたものかしら・・・」



2度目の溜息が、静かな夜道に響き渡る。





















その日の昼、幸花を送った後、タマが屋敷に着いた時の事だった。



玄関近くを歩いていると、



傍の花壇で作業をしている二人の女中が会話をしていた。



「ねぇ、知ってる?お嬢様、


今日は前回のお見合い相手とお出かけなさるらしいわよ」



「まぁ。あんなにお見合いを嫌っていたのに、


どういう風の吹き回しかしらねぇ」



最近入りたての若い女中達だった。



こういう噂は、女中内の秩序維持を壊しかねない。



そう考えて、タマは二人に注意をするため、近付こうとした。



「それもね、相手なんだけど、


帝国大の助教授で、藤木って名前らしいんだけど」



「だけど?」



その含みを持つ響きに、思わずタマも耳を済ませる。



「それがさ、私、その人知ってるんだ」



「え?何で?」



同じ科白を、彼女も心の中で言った。



「実家の傍に住んでるんだけど、その人凄く貧乏なのよ」



聞こえてきた言葉に、耳を疑う。



「住んでいる家がボロボロで、着ている服も着たきりスズメなの。


それに、確か病弱なお母さんを抱えてると思ったよ」



タマは背筋に氷水をかけられた気がした。



「え?裕福な人じゃないの?」



「うん。・・・何でかねぇ。山内家は裕福だから、良いのかなぁ」



タマは、絶句した。



足が土に張り付いてしまったかのように、



しばらく彼女はその場で立ち尽くしていた。
















「・・・」



タマは夜空を見上げた。



ランプの無い夜空に輝く月が、眩しかった。



「・・・やはり、そうすべきよね・・・」



タマは踵を返した。



そして、今来た道を、逆方向に進み始めた。





















「旦那様」



「タマ。帰ったのではなかったのかね。忘れ物か?」



廊下で幸花の父英雄が歩いていた。



涼しげな和服に身を包んだその姿は、夏の風情を感じさせる。



「旦那様、お話したいことがございます」



いつになく険しい表情が、彼の背筋を伸ばしていく。



「どうした、改まって」



「・・・居間の方まで、ご一緒願います」



そう呟くと、彼女は応接室のほうへ独り歩き出した。






















(*1)

活動写真(無声映画)を上映中、その内容を語りで表現して解説する専門の職業。


(*2)

現在のハリウッド(Hollywood)












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