第11話・進展、そして退行。
「おはようございます」
既に彼女と会ってから1週間が経とうとしていた。
その日の朝も、いつも通りの格好で、藤木は牧の研究室を訪れる。
両手には、顔を隠すぐらいの本が大量に抱えられていた。
「藤木君、おはよう。独逸語の辞書かい?」
言うや否や、牧は独逸語の辞書を本棚から取り出し、
彼の両腕の中の本の山に、それを重ねた。
「あ、ありがとうございます」
その重たさに、思わず彼がよろめく。
「そうだ。藤木君」
部屋から出ようとしていた藤木は、立ち止まった。
「はい?」
「今日、君の4限目の授業、私にさせてもらえないか?」
「え?先生がですか?」
突然の申し出に、彼は危うくも本を数冊落としそうになった。
「そうだ。久々に学生諸君等と関わりたいと思ってな。
別に構わんだろう?藤木君」
牧が片目をぎゅ、と瞑る。
普通、他の教官が担当する授業を代わってもらうということは無い。
それも判例刑法ゼミナールといっても、
ベテランの牧が興味を持つような授業ではなく、
過去の判例を学生と共に検討するという内容だ。
「は、はぁ。確かに構いませんが・・・」
彼は重さに耐えながら、その申し出を承諾した。
「それじゃあ決まりだ。では、授業頑張ってくれたまえ」
牧の突然の申し出に違和感を覚えながら、
彼は講堂への道を急いだ。
それは午後一の授業が終わった頃だった。
ようやく藤木が担当する授業が終わり、生徒からの質問も一通りなし終えた所だった。
藤木が黒板を消して、教壇の上に積み重なっている大量の本を抱えようとすると、
ふ、と視界の端に人の姿が映った。
教室の隅っこに、生徒であろう誰かが座っている。
質問を終える頃には、いつもであれば殆どの生徒は教室に残っていない。
藤木は目を凝らしてその人物を見る。
よく顔は見えなかったが、
恐らく授業では見かけない顔であろう。
下を見て、何かを真剣に読んでいるかのようであった。
彼は本をそこに置いたまま、その人物の方に向かって歩き出した。
「あの、どうされました?」
彼が声をかける。
はっとしたように、その人物が上を向いた。
その瞬間、彼は息を呑んだと同時に、大声を上げそうになった。
「さ、さ、さ、幸花さん!?」
「ごきげんよう、壮介さん」
そこには紛れもなく、袴姿の幸花が笑いながら座っていた。
机の上には見覚えのある分厚い本が1冊開かれている。
「・・・な、な、何故ここにいらっしゃるのですか?」
「先日、牧先生から電話をいただいて、
『刑法に興味はありませんか?』と尋ねられたんです。
壮介さんが専攻なさってる法律だから、少し勉強してみたいなと思っていたので、
『はい』と答えました。
そうしたら、今日、講義に出てみたらどうかと言われまして」
彼はただ、開いた口をぱくぱくさせているだけであった。
「更に牧先生、ご親切なことに、3日前に私の家まで来てくださって、
刑法の基本書までいただきました。
これで勉強されると良いと」
彼女が机の上の本を指差し、そしてにっこりと微笑んだ。
「そ、そうでいらっしゃったのですか」
そういえば、3日前、牧の研究室に入った時、
基本書が机の上に置かれていた。
何故今更、と疑問には思ったものの、
特に気にもしていなかった。
そう思ったのと同時に、藤木の頭に片目をぎゅ、と瞑った牧の顔が浮かぶ。
そして先日の牧の声が蘇る。
『手ぐらい繋ぎなさい』という言葉が。
彼の心臓が、急スピードで高鳴り始める。
「いや、ちょっと、まだ・・・」
突然彼が頭を左右に振り出した。
「・・・?どうされたのですか?」
幸花が不思議そうに尋ねる。
「え?あ、い、いえ。何でもないです」
彼が真っ赤になりながら慌てて答えた。
「・・・変な壮介さん」
彼女は首をかしげながら、机の上の本を閉じた。
「ところで壮介さん、この後はまだ授業がおありですか?」
「いえ、いつもなら授業があるのですが、今日は牧先生が・・・」
そう言い掛けて、彼は今朝の牧の言動を思い出した。
こういう事だったのか・・・。
「壮介さん?どうされましたか?」
「え?あ、いえ。何でもありません」
藤木は小さく溜息を付いた。
「それではまずあの本を研究室に置いてから、どこか参りましょうか」
「はい」
二人は教壇の方に歩き出した。
「すごい量の本ですね・・・」
「おかげで腕だけは逞しいんですよ」
彼は苦笑しながら本を抱え込む。
「少しお持ちしましょうか?」
「いえいえ、そんな・・・て、幸花さん」
彼女は彼の返事も待たず、上のほうの数冊を取り上げた。
「さ、行きましょう」
彼女は笑いながら教壇を降りて行った。
彼は呆気にとられながら、
―同時に少し照れ臭く思いながら―
その後ろをゆっくり歩いた。
「・・・本当にこれを見るのですか?」
「お嫌いですか?活動写真」
彼等は新宿にいた。
活動写真が見たい、という彼女の要望で、新宿の劇場に来たのだった。
「いえ、ただ、これは、その・・・」
ここは新宿でも有名な活動写真が見れる劇場だった。
弁士の語りも中々と評判で、休日になると、長蛇の列ができた。(*1)
今週の作品は、ホリーウッドのものだった。(*2)
「恋愛を題にした作品ですが、駄目ですか?」
彼は、映画館に掲げられたポスターを複雑な思いで眺める。
「いや、僕、こういうのは初めてで・・・」
頭をしきりに掻きむしった。
さっきから牧のあの笑顔と台詞が脳裏から離れない。
そのせいか、妙に彼女を意識してしまう。
それなのに、こんな映画を見たら、
ますます恥ずかしくなってくる事は請負だ。
先日の大審院の事例よりも取り扱いが困難な問題に、
彼は非常に頭を悩ませていた。
「それならば尚更良いではないですか」
彼女はそういうと、切符売り場の方に走って行った。
「あ、ちょ・・・。幸花さ〜ん」
情けない呼び声を上げながら、彼は彼女の後を追った。
「良いお話でしたね」
劇場を出ると、既に外は暗くなっていた。
幸花が嬉しそうに、そう藤木に話し掛ける。
しかし、返事は返ってこない。
「壮介さん?」
彼女が顔を覗き込んだ。
「あ、え?・・・あ、わわ・・・」
彼が慌てたように数歩後ろに退く。
「壮介さん、今日はちょっと様子がおかしいですよ。熱でもおありですか?」
「え、い、いや、そんなことありません。僕はいたっていつも通りですよ」
藤木の顔が赤い。
幸花が心配そうに言う。
「もしかして無理していらっしゃった?そうであればごめんなさい、私、無理矢理・・・」
彼女が悲しそうな顔をした。
「い、いえ!ち、違います!断じてそのような・・・」
彼が両手を急速に振る。
「が、学生時代以来だったんで、かなり楽しめました」
彼は微笑みながら、右手に持つ劇場パンフレットをペラペラ捲る。
内心では、やはり、かなりの動揺を覚えていたのだが。
その瞬間、彼は生まれて初めて牧を恨めしく感じざるを得なかった。
「米国のキネマは初めて見ましたが、中々面白かったです。
あの二人、最後は結ばれて本当に良かったですわ」
まだ映画の余韻から抜け出せていないのだろう、幸花がうっとりしたように呟く。
作品の内容は、身分違いの恋に悩む男女の物語だった。
「弁士の語りも素晴らしかったですね。
ちなみに、米国ではホリーウッドの映画が主流で、多種多様なものが作られているそうです」
平静を振舞うため、彼が彼女の半歩前を歩く。
彼はパンフレットを丸めて、それで顔を仰ぎ始めた。
「そろそろ戻りましょう。お迎えは学校の方に来られるのでしょう?」
一瞬、彼女が何かを言いかけたように見えたが、彼女はそのまま「はい」と答えた。
「時間があれば、エリーゼで軽く食事をいたしましょう」
二人は急ぎ足で駅へ向かった。
駅に着く頃には、既に夜の7時近くになっていた。
「7時30分頃に迎えがいらっしゃるのですよね。
うーん、この時間じゃ間に合わないな・・・」
彼が困ったように頭を掻く。
エリーゼまでは駅からだと10分はかかる。
「・・・あの、それじゃぁ・・・」
彼女が何かを言い出した。
しかし、語尾が消え入るように小さく、良く聞き取れない。
「はい?」
「・・・先日連れて行って下さった土手に寄り道しませんか?
そうすれば時間的に丁度良いと思います」
「お安い御用ですよ」
空にはランプの光と月光が、眩しく街を照らしていた。
「やっぱり思った通りだわ」
彼女が嬉しそうに呟いた。
二人は土手に腰を下ろしていた。
「何が思われた通りなのですか」
「ここは月と星の光の洪水なのですね。私の家の周辺とは大違いだわ」
無邪気に喜ぶ彼女の隣で、彼が笑う。
「えぇ。ここだけはランプが置かれていませんから」
「本当、夜空の輝きが眩しい位だわ・・・。
先ほどの活動写真の二人が出会った場所でも、
このように星空が広がっていたんでしょうね。
私、この風景もカンバスに留めたいな・・・」
彼女が夜空を見つめる。
ふ、と彼はそんな彼女の横顔を垣間見た。
その時、藤木は心底不安になった。
自分の心音が相手に聞こえ伝わってしまうのではないか、と。
「眩しさなら負けていらっしゃいませんよ。むしろ・・・」
彼は無意識のうちに言葉を口にした。
「え?」
彼女が彼の方を向く。
「いえ・・・。何でもありません」
彼は彼女から目をそらし、夜空を見上げた。
「そろそろ、行きましょうか」
彼女が立ち上がった。
が、その瞬間、彼女が足を滑らせた。
「きゃ!」
藤木は反射的に彼女を助けようとして、咄嗟に立ち上がり、
両手を前に差し出した。
「・・・大丈夫ですか?」
ふぅ、と大きく息を吐く。
「・・・えぇ。危ないところを・・・」
彼女も同時に安堵の吐息を漏らした。
しばらくの間、二人は感じた安堵に気をとられていた。
「・・・あ・・・すみません」
藤木は我に帰った。
彼は彼女の両手を握っていたのである。
急いで外そうとした。
が、左手だけ、外せない。
正確に言うと、外せなかった。
彼女が、しっかりと彼の手を握っていた。
「・・・もし、宜しければ・・・」
うつむいた彼女が、呟く。
「学校までの道のり、このままで歩きませんか」
彼も同時にうつむいたまま、蚊の鳴く様な声で応じる。
「・・・人がいたら、教えてくださいよ」
二人は土手を離れ、学校までの道をゆっくりと歩いていった。
「・・・お嬢様」
何時の間にか、外では雨が降り出していた。
天井に跳ね返る水の音が聞こえる。
幸花は窓の外を見つめていた。
「何?」
「・・・お嬢様は、本当にあの方と御結婚されるおつもりですか?」
幸花が運転席の鏡を見る。
「・・・何が言いたいの?」
「差し出がましいかもしれませんが、私としては、
お嬢様とあの方は合わないかと」
静かな、そしてはっきりとした口調だった。
そこに映ったタマの厳しい表情は、今までに見たことがなかった。
見合いを散々に終わらせた時でさえ、このような顔はしなかったのに。
「何故そう思うの?」
「・・・」
タマは何も言わない。
ただ前を見つめているだけだった。
その先には、彼女の知らない何かが映っているようだった。
雨音が響く。
狭い車内に、強く、激しく。
「先日の如く、根拠が無いのであれば、そういう事は言わないで欲しいわ」
「・・・申し訳ありません」
タマが頭を下げた。
静けさだけが、車内を漂っていた。
「・・・どうしようかしら」
タマは家路に着いていた。
頭の中では、その日のある会話がさっきから何度も繰り返されていた。
「はぁ・・・」
大きな溜息をつく。
雨は、いつのまにか止んでいた。
「どうしたものかしら・・・」
2度目の溜息が、静かな夜道に響き渡る。
その日の昼、幸花を送った後、タマが屋敷に着いた時の事だった。
玄関近くを歩いていると、
傍の花壇で作業をしている二人の女中が会話をしていた。
「ねぇ、知ってる?お嬢様、
今日は前回のお見合い相手とお出かけなさるらしいわよ」
「まぁ。あんなにお見合いを嫌っていたのに、
どういう風の吹き回しかしらねぇ」
最近入りたての若い女中達だった。
こういう噂は、女中内の秩序維持を壊しかねない。
そう考えて、タマは二人に注意をするため、近付こうとした。
「それもね、相手なんだけど、
帝国大の助教授で、藤木って名前らしいんだけど」
「だけど?」
その含みを持つ響きに、思わずタマも耳を済ませる。
「それがさ、私、その人知ってるんだ」
「え?何で?」
同じ科白を、彼女も心の中で言った。
「実家の傍に住んでるんだけど、その人凄く貧乏なのよ」
聞こえてきた言葉に、耳を疑う。
「住んでいる家がボロボロで、着ている服も着たきりスズメなの。
それに、確か病弱なお母さんを抱えてると思ったよ」
タマは背筋に氷水をかけられた気がした。
「え?裕福な人じゃないの?」
「うん。・・・何でかねぇ。山内家は裕福だから、良いのかなぁ」
タマは、絶句した。
足が土に張り付いてしまったかのように、
しばらく彼女はその場で立ち尽くしていた。
「・・・」
タマは夜空を見上げた。
ランプの無い夜空に輝く月が、眩しかった。
「・・・やはり、そうすべきよね・・・」
タマは踵を返した。
そして、今来た道を、逆方向に進み始めた。
「旦那様」
「タマ。帰ったのではなかったのかね。忘れ物か?」
廊下で幸花の父英雄が歩いていた。
涼しげな和服に身を包んだその姿は、夏の風情を感じさせる。
「旦那様、お話したいことがございます」
いつになく険しい表情が、彼の背筋を伸ばしていく。
「どうした、改まって」
「・・・居間の方まで、ご一緒願います」
そう呟くと、彼女は応接室のほうへ独り歩き出した。
注
(*1)
活動写真(無声映画)を上映中、その内容を語りで表現して解説する専門の職業。
(*2)
現在のハリウッド(Hollywood)




