第10話・眩しく、輝く。
「・・・あぁ、おいしかった!」
エリーゼを後にして、二人は再び大学の方へ向かっていた。
時はまだ、昼時のピークを迎えたばかりだった。
通りは昼食を求める人で混雑している。
「藤木さん、どこへ向かっていらっしゃるのですか」
彼女はきょろきょろとあたりを見回した。
「大学の側にある土手です」
「土手?」
「えぇ。実は、そこ僕のお気に入りの場所で、よくそこで昼寝をしたりしてるんですよ」
彼が楽しそうに話し出す。
同じ歩調で、夏の日差しの中を二人は進んで行った。
「春は桜が満開で、夏は青々とした緑の絨毯が出来るんです。
そこで寝転がっていると、本当に幸せな気分になります。
傍には川も流れてて、水の流れが子守唄になるんですよ」
「素敵ですね」
「もうすぐ着きますよ。ここを曲がれば、ほら」
道を曲がると、先ほどまで混み合っていた道とは一点、
閑静な街路樹のアーチがある通りが真っ直ぐに伸びていた。
そして彼が指差した先は、彼女が今までに見てきたた絵の中の世界が広がっていた。
「わぁ・・・。東京にもこんな場所があるなんて知らなかった。
絵にしたら、どんなに素晴らしいかしら」
「えぇ。きっと素敵な・・・て、あれ?幸花さんって、おーい」
彼女は土手の柔らかい芝生の上に乗ると履いていた靴を脱いだ。
そして斜面を一気に駆け上り、川に向かって下って行く。
彼も急いで彼女の後を追った。
その背が視界に入る。
同時に、自分の心臓が強くその音を全身に響かせていた。
それが走っているせいなのかは、良く分からないが。
ふいに、前方を走る彼女が立ち止まった。
肩で息をしながら、彼女の横に立つ。
「山内さん、一体どうされたんですか・・・。突然、走り出されて・・・」
切れ切れの息をする彼をよそに、彼女は真っ直ぐに、広がる風景を見つめていた。
ちらり、とその横顔を見た。
その時、彼は自分の心臓が強く音を打つ理由を悟った。
一瞬、立ち眩むほどのまぶしさを覚える。
ホテルのロビーでみた光よりも、まぶしいほどのものを。
そして、初めて判った。
自分の心が、彼女と再び会うことを、切に願っていることを。
「貴女は・・・すごく・・・」
夏の匂いを僅かに強い風が、二人の間を吹きぬける。
「はい?」
長い髪を抑えながら、彼女が顔を向けた。
「いえ、あの・・・。幸・・・花・・・さん」
名前を呼ばれた。
彼女は思わず彼を見つめた。
初夏には珍しく、強い風がまた吹いた。
「もしよろしければ・・・また、この土手に、二人で来ませんか。
その、今度は・・・スケッチをしに」
彼は自分の胸が、今さっきよりも速い速度でその鼓動を奏でているのを感じていた。
自分の頬が赤く染まっていくのが分かる。
そして、気のせいか、彼女の頬も少し赤いように見えた。
藤木は無性に自分の髪の毛をぐしゃぐしゃにしたい気分になった。
「幸花さんがよろしければなのですが・・・」
「あ、はい。是非喜んで・・・。壮介・・・さん」
きらきら輝く水面に、二人の姿が見えた。
そこには、微笑み合う彼等が映し出されていた。
「お嬢様」
タマが彼女に話し掛ける。
明らかに分かる、彼女の怒っている様子が。
このようなタマの声を聞くのは久しぶりであった。
「本当にあの方なのでございますか?藤木様というのは・・・」
「えぇ。そうよ。それについて何か?」
静かな車内の中、助手席のタマの声が響く。
「いえ・・・。ただ、何故今回はかような方なのかと・・・」
今度は彼女の機嫌が悪くなる番であった。
「私の自由です。あの方が今までで1番良い方なのだから」
「しかし・・・」
「タマ。だまってて」
後部座席からの声は、鋭く尖っていた。
「・・・はい」
それから二人は屋敷まで一言も交わさなかった。
「先生、いらっしゃったのですね」
「おぅ。お嬢さんとはもう別れたのかね」
試しに研究室を覗いてみると、牧が何かを読んでいた。
「えぇ。今日は4時から絵のお稽古があるようで・・・。
先生、何を読んでいらっしゃるのですか?」
彼が近づいてみると、それは藤木の論文であった。
「明日、同じ刑法学者の友人に会うんでね、君の論文を読んでもらおうと思っているんだ」
「本当ですか」
彼は喜んだ。
「あぁ。今回のは中々興味深い」
そう言うと、牧はその論文を机の上に置き、藤木の方に向き直した。
「それはそうと、お嬢さんとはどうなんだ」
しかし、彼は答えを聞く前に、既に分かっていた。
みるみる内に赤くなるその頬が、彼の気持ちを全て物語る。
牧は自分の口髭を触り始めた。
「良い事だ。近いうちに二人で飲もう。
いや、家内もお前のお母様も混ぜてやろう。
今度家に着なさい。何なら彼女も連れてきて良いぞ」
「からかわないでください、先生」
彼はその恥ずかしさを隠すかのように、ぼさぼさの頭を掻いた。
その姿を見て、牧が声をあげて笑った。
「良いじゃないか。二人とも相性が良さそうだ。
また来週も会いたい旨伝えておこうか?」
「・・・」
藤木は何も言わず、ただそっぽを向いていた。
「これも刑法を勉強するにあたって有効な事だぞ」
牧が再び笑い声を上げた。
その声が部屋中に木霊していた。
「そうだ。藤木君、君に課題を課そう」
「課題ですか?」
牧からの久しぶりの課題という言葉に、思わず反応する。
学生時代以来の課題。
その頃はあまりに難しいそれに毎度頭を悩ませていたな、と
懐かしく感じる。
「次にお嬢様に会う時には、彼女に口付けをする事」
藤木は一瞬、その言葉の意味を飲み込めずにいた。
「・・・」
しばらくして、彼の顔は湯気が出るかのように赤くなった。
「ま、ま、牧先生。な、な、何を突然・・・」
彼が牧に詰め寄る。
「何を驚くのだ」
牧は論文のページを捲りながら言う。
「君は奥手だから、それぐらいしておかなければ、お嬢様に逃げられてしまう恐れもある」
「い、いや、だからといって、そ、そのような事は・・・」
藤木が物凄い勢いで頭を左右に振る。
「まぁ、そこまでではなくとも、手ぐらいは繋いでも良いだろう。
君はそういうことに関しては素人も良い所だからな。
こうやって助言してもらって感謝して欲しいぐらいだ」
牧が冷め切った紅茶を啜る。
藤木は何も答えず、ただ真っ赤になりながら、その場に立ち尽くしていた。
「さ、そろそろ私も帰るが、藤木君は帰るかい?」
「・・・」
「藤木君!」
「は、はい!」
彼の両肩が同時に上がる。
「君も帰るかい?」
「え、あ、はい?」
まるで電波の悪いラジオから聞こえる様な、歯切れの悪さだ。
そう、牧は思った。
同時に微笑ましい気持ちにもなったのだが。
「全く、君は冗談も通じない男だったかねぇ」
牧はコート掛けに掛けられた帽子を被りながら言った。
「は・・・冗談・・・ですか?」
「ほら、ぐずぐずせんで、付いて来なさい」
「は、はい」
軽いため息をつきながら、牧がドアを開けた。
しかし、その顔には、
悪戯っ子の様な笑いが浮かんでいるのを、
外気温よりも高いそれを感じている藤木に知る由もなかった。




