眠り姫 ―百二十年の物語―
晒し中
大日本帝國村田連發銃 製造番号六一三六二は、現在この博物館に収蔵されています。
http://www.weltmuseumwien.at/en/
あたしの名前は、明治二十二年制定 大日本帝國村田連發銃。でも、みんなは二十二年式村田連発銃って呼ぶんだよ。明治二十二年に東京造兵敞で村田銃の三女として生まれたの。製造番号は、六一三六二。それで、今住んでいるのはオーストリアのウィーンなんだ。
え? なんでそんな所に居るのかって? 話せば長くなるけど聞いてくれる? 語っちゃうよ!
あたしが日本からオーストリアに渡ったのは十九世紀も終わりに近い明治二十六年、西暦でいえば一八九三年なんだ。なんで日本を出たのかって言うと、あたしは明治帝陛下からオーストリア=ハンガリー二重帝国のフランツ・フェルディナント皇太子殿下に下賜されたから。弾丸の輿……じゃなくって玉の輿だよね。
前年の明治二十五年、フェルディナント皇太子殿下は世界一周旅行に出立されて、翌年の八月二日、長崎に到着あそばされたの。陸路を通り七日には京都、それから名古屋を通って東海道を上られれたの。でもね、途中の箱根で駕籠かきの入れている刺青が気に入られて、御宿に刺青師を呼ばれ、左腕に竜の刺青を入れられれたんだ。殿下ってお茶目。それから上京され十七日に陛下に拝謁されたんだ。
あれは忘れもしない明治二十六年八月十九日、カンカン照りの夏日が眩しかった日、真っ白な入道雲が真っ青な空に映えてきれいだったよ。広い草原が広がる青山練兵場……今は神宮外苑って言うみたい……で閲兵式を催された陛下は、フェルディナント皇太子殿下と御親覧あそばされ、その時あたしを賜られた。一緒に賜られたお道具はね、あたしの入る一寸五分の柾目板を十枚、まるで指物の様に組み合わせて中に臙脂色のシルクビロードを敷いた箱、守り刀代わりの銃剣とあたし専用、世界であたしだけしか使えないオートクチュールの「8x53R Japanese Murata」と呼ばれる八ミリ村田弾も一緒にだったの。
その時代、ヨーロッパで日本の位置を示せるのは超一流の知識人だけ。その知識人の知識だって、重工業は最低で外貨獲得の輸出産業は世界の銀の半分を産出する事と絹、それから陶磁器が有るくらい。西欧の列強から比べれば貧しい農業中心の異教徒の国って思われていたの。神武天皇即位から二千五百年を超える歴史があるのにね。だから、陛下があたしを賜られた理由はね、世界のトップモードのあたしを賜る事で日本の工業レベルを示すことだったのよね。ヨーロッパでも単発銃が多く残る時代にスタイリッシュなチューブマガジン八連発、銃身はメトフォード型のライフリングで画期的にスリムな八mm弾……十三年式、十八年式のお姉ちゃん達は十一mm、太いよね。あっ、あたしが言ったって内緒だよ……まだまだ黒色火薬が幅を利かせている時代に金属薬夾で無煙火薬仕様。無煙火薬だからお姉ちゃん達に比べて二倍以上の弾速、インパクトパワーは弾速の二乗に比例するから四倍以上よ。何よりも世界初、銃剣を着剣したまま撃てるバヨネットラグ装備なんだ。この後の明治二十七・八年戦役つまり日清戦争では、惰眠をむさぼる豚……だったかな?……の清国軍相手にお姉ちゃん達と一緒にブイブイ言わせたんだから。
あ、話が横道に逸れちゃったね。
そうしてフェルディナント皇太子殿下が八月二十日に退京されるのと一緒に御召艦で日本を離れたんだ。
でも、ヨーロッパに行くのはちょっと心配だったの。湿度の高い日本から乾燥したヨーロッパでしょ? クルミ材のあたしの銃床がどうなっちゃうのかなって。だって乾燥ってお肌の大敵だもん、下手すると割れちゃうよね。でも銃工っていう名前のエステティシャン達が居て、その手で亜麻仁油が塗られて……手作業で塗ってもらったって意味じゃないよ……素手に亜麻仁油を取って、体温で溶かしながら何回も何回も丁寧に塗られて、御蔭でお肌つるっつるでピカピカ、女子力アップ!
それからあたしは、居城のアルトシュテッテン城で静かに暮らしてたんだ。でもある日、あたしは皇太子殿下の秘密を知ってしまったの。
その頃のヨーロッパでは懐中時計の蓋の裏に女性の肖像画を描く事が流行っていたのよね。あたし見ちゃった、殿下の秘密を。殿下の時計のふたにも女の人の肖像画が書いてあるのよ。ブルネットのすっごい美人さん。後で判ったんだけど、シュツットガルトの伯爵家出身で、テシェン公フリードリヒ妃イザベラの女官だったゾフィー・ホテクさん。
でも周囲の雑音はひどかったよ。もう聞くに堪えないくらい。身分違いだとか、卑しいボヘミア女だとか、本当にうるさいのよ。いいじゃない、好きな人と暮らすのが一番幸せなんだからっ!
十九世紀最後の年にオーストリア=ハンガリー二重帝国萬歳! 大日本帝国萬歳! そんな事件が起きたのよ! もう大事件もいいとこっ!
明治三十三年の七月一日に御成婚されたんだ。すっごい大恋愛! フェルディナント皇太子殿下は、皇位継承権を放棄してまで御成婚あそばされたんだよ。う~ん、愛されてるなぁ。
御成婚後は、ホーエンベルク公爵夫人と呼ばれたゾフィー皇太子妃なんだけど、周囲からは身分が低いと言われ続け、公の席では全皇族の末席、それ以外でも大公との同席は許されなかったって、ひっどいよね。
それでもお二人は仲睦まじく、居城のアルトシュテッテン城でお暮しになられたんだ……って、童話ならここで末永く幸せに暮らしました、で終わるんだけど、現実はもっとハッピー!
翌年には御長女のゾフィー妃、その翌年には御長男のマクシミリアン皇子、その二年後には二女のエルンスト妃が御生誕あそばされたんだ。でも、その次の年はちょっと悲しい年、男の子が生まれたんだけど、すぐに神様の下に帰って行った。きっと神様に愛され過ぎていたんだね。
そうして時間はゆっくりと流れていったの。ヨーロッパが幸せな時代、少し騒がしい事もあったけど、それなりにみんな幸せだったよ。
あたしがこの国に来て十九年たった一九一二年、明治帝が御隠れになって、大正に代わって、それを聞いてちょっと悲しくなって、でも大喪の礼にはオーストリア=ハンガリー二重帝国からも特派大使としてラヂスラス・ミュルレル・ド・スツェントギオルギー男爵が参列されたんだ。
何時の事だったかな? あたし、重厚な旋律が素敵なこの国の国歌を聞いたんだ。
“神よ、皇帝フランツを守りたまえ、われらが良き皇帝フランツを”
“皇帝に長寿あれ、幸運の輝かしき栄光のうちに”
“皇帝の行く処、月桂樹の一枝も栄誉の花輪に繁れり”
“神よ皇帝フランツを守り給え、我らが良き皇帝フランツを”
あたしも神様にお願いしたんだ。皇帝陛下だけじゃなくってフェルディナント皇太子殿下も守ってって。でも神様は、お願いを聞いてくれなかった。
大正三年、つまり一九一四年六月二八日の日曜日だった。明治一〇年の露土戦争でオーストリアが割譲を受けたサラエヴォに出立されたの。サラエヴォは遠くに山並みを見て、周りを小高い丘に囲まれた街、赤い屋根に白い壁の街並みが続くきれいな街、一八八五年にヨーロッパで最初に路面電車が整備されたオシャレな街なのよ。
フェルディナント皇太子殿下とゾフィー皇太子妃の御料車は、グレフ・ウント・シュティフト社に特注された漆黒のオープンカー、ハンドルだけが赤で目立つんだ。オシャレだよね! 三台の護衛の車と一緒にサラエヴォの市街に向かった。車列が石畳の道を進むと、沿道には大勢の人たちが皇太子殿下を歓迎して、いっぱいの花が投げられた。
十時十五分、テロリストのネデリュコ・チャブリノヴィッチが花束に偽装した爆弾を皇太子殿下の車に投げ込んだの。でも皇太子殿下は煙に気付かれて、その花束を車外に投げ出したんだ。爆弾は、爆発したけど、ご夫妻は無事でホッとしたんだ。
犯人はその場で服毒したけど死に切れなくって、警官が来るまで周囲の民衆にボコボコにされたんだよ、ザマぁ見ろ!
車列はスピードを上げて市庁舎に向かい、そこで一時避難したんだ。でもね、後続の車に乗っていた十二名が負傷したって聞いたフェルディナント皇太子殿下は予定を変更し、爆発で怪我をした者を見舞いに病院へ向かうことにしたの。でも、この優しさが仇になった。
病院へ向かう途中、犯人のプリンツィプは皇太子殿下の車に駆け寄って、ブローニングM一九一〇拳銃を取り出してゾフィー妃を撃った! 絶対許せない! だって、妃は御懐妊中だったんだよ。そのお腹に拳銃を撃ったんだよ! 絶対許さない! それに二発目は皇太子殿下の首を撃ったのよ。あたしが傍にいれば守って差し上げられたかもしれないのに、あたしの銃剣の露にしてやったのに。殿下の纏われた水色の軍服も勲章の列も溢れる血でたちまち赤く染まっていった。御二人は直ぐにボスニア総督邸に運ばれたけども、もう帰って来なかった。
犯人のガヴリロ・プリンツィプはその場で逮捕されて、あたしは絞首刑だと思ったんだけど未成年だったから二十年の禁固刑だけ。でも刑務所の中で壊疽を起こして引き金を引いた右腕は切断されたし、最期は刑務所の中で肺結核で死んだ、天罰覿面よ。でも、この事件がきっかけとなって、第一次世界大戦が勃発したのは知ってるよね。
仲睦まじかったお二人の葬儀は、教会の尽力もあって合同だったのに、最期までフェルディナント皇太子殿下と並ぶことは許されず、葬儀の時も殿下の棺より二十インチも低い所にゾフィー妃の棺が置かれた。もう滅茶苦茶!
その上、墓所もフェルディナント皇太子殿下の正妃なのにハプスブルク家のカプツィーナー納骨堂じゃなくって、居城のアルトシュテッテン城内にある墓所だったの。でも……これで良かったのかな。墓所では真っ白な大理石の棺で寄り添うように二人並んで眠っている。それがせめてもの救い。
そうして、あたしは皇太子殿下の所蔵品達と一緒に長い眠りについた。あたしが眠っている間に時間があたしを追い越して、大きな戦争であたしは忘れ去られ、時間の河の中に沈んでいった。長い夢の中でずっと思っていたの、このまま永久に眠り続けるんだろうなって。そして誰にも知られず朽ち果てて行くんだろうなって。
ある日、あたしの眠る箱がいきなり揺れた。
「おい、この箱は何だ?」
そう言って箱が開いたの。そこにいたのは白馬の王子様……じゃなくって、眼鏡をかけた優しそうなおじさん。あとでオーストリア陸軍のハラルド・ピッヒャー准将って聞いたわ。
「天皇家のエンブレムがある。一体、この銃は何だ?」
あたし達姉妹は、十三年式のお姉ちゃんからずっと菊の御紋を佩用している。メイド・イン・ジャパンの証、旅券代わりよ。
「この銃剣を見てみろ。サビ一つ浮いてない」
姉妹ではあたしまでは銃剣が鋼色で、先端が両刃なのよ。妹達の銃剣は、日本刀型で深い血流しの付いた三十年式銃剣、後から刀身を反射防止に黒く塗られたの。だから牛蒡剣って呼ばれていたのよね。
なんか急に大騒ぎになっちゃった。あたしがどうしてこの国にやって来たのかが調べられているうちに、周りの収蔵品たちと一杯お話ししたんだ。あたしが眠りについた時は大正三年だったけど、今はHEISEIの二十五年になっているって、でも字が判んないや。西暦で聞いたらすっごいの、あたしが日本を出てから百二十一年経っていたんだよ。それにね、妹がいっぱい生まれたって。三十年式や三十八年式が生まれたことは知っていたけど、それからも九九式、二式、三式、五式、日本が大きな戦争に巻き込まれた時、妹達は祖国を守るために全員一生懸命に頑張ったんだよって。戦争が終わって六四式が生まれて、今は八九式が日本の兵隊さん達と一緒に祖国を守ってくれているって。それで、今は平和で豊かだよって聞いたよ。
あたしも遠くから祈ってる、祖国がずっと平和でありますようにって、みんなが幸せでありますようにって祈ってるからね。それにね、今年はサラエヴォ事件から百年経つんだ。もし良かったら会いに来て。それで日本の話も聞かせてよ。じゃあねっ!
御高覧を感謝いたします。