僕は今日もノートを開く
玄関の鍵を開けてドアを開ける。
中に入って靴を脱ごうとしたところで、期待に満ちた甲高い声が奥から飛んできた。
「おかえり勉ちゃん!週末テストどうだった?95点は取ったのよね?」
ただいますら言わせず、母は先週末に行われた学校のテストの結果を求めてきた。
「97点だよ」
僕はそっけなく、そして苛立ちを交えた声で結果を話した。
「97点!よかったわぁ~。これで私はランク1のままね」
ランクとか言っているのは近所のママ友内での序列のことだ。
子供の週末テストの平均点で決まるらしい。
毎回くだらないと思うが言い返したところで無駄なので何も言わない。
「じゃあママは出かけてくるから。しっかり勉強するのよ」
いそいそとヒールを履きながら僕のほうを見ずに母は言った。
そして返事を返す間もなく外へ出て行った。
ドアが閉まった後、僕は軽くため息をついて、階段を上った。
自分の部屋に入って、机の上にかばんを置き、数学のノートを取り出す。
僕の通っている学校は進学校だ。
「週末テスト」という毎週末行われるテストがあるのが特徴で、母親連中の間では子供がこのテストで何点を取るかによって力関係が変わるらしい。
わけがわからん。
月曜日のこの時間はいつも虚しさを覚える。なんのために僕は勉強しているんだろう、と。
それでも怒られたくないから、僕は今日もノートを開く。
火曜日の授業が終わり、僕は帰宅の途についた。
僕はいつも学校へ通うときに遠回りになる道を選んでいる。
国道沿いに歩けば5分ほど早く着くけど、車の音が嫌で裏道を通っている。
裏道にも車は来るが、国道ほどは来ない。
静かな道を歩くのが日々のちょっとした楽しみだ。
この日もいつものように車1台がやっと通れる幅の裏道を歩いて下校していると、見慣れたものが目の前に現れた。
黄色い猫。
その猫は道路をのそのそと歩いていた。
このへんに居ついている野良猫らしい。
日によっては道路沿いの家の塀の上にいたり、道路の真ん中に座っていたりする。
こいつを見るたびに僕はいつも愚痴を呟く。
「いいなぁ。猫は自由で」
勉強に縛られない身分を羨んで、ついその言葉が出てしまう。
ただ、不思議なことにこのときもう一つ感じることがある。
安堵感だ。
猫がカワイイから癒されたというものではない。
身体は汚れているし、片目は白く濁っていて、顔も少し潰れた大福みたいで不細工だ。
お世辞にも可愛いとは言えない。
だからこの安堵感の正体がわからない。
水曜日の5時間目の音楽の授業の後、教科書を忘れたことに気づき、西校舎の音楽室へ向かっているときだった。
廊下の角に差し掛かるあたりで、毒島先生の話声が聞こえてきた。
「どうですか荒井先生。2年の調子は」
毒島先生は確か3年の数学担当だったと思うが、習ってないからよく覚えていない。
毒島先生が話しているのはあの荒井先生らしい。
荒井先生は数学担当でよく僕に難しい問題を当ててくる。
僕は結構な確率で間違えるから、「なんでこんな問題が解けねぇんだ」と怒鳴られる。
そのたび僕は身が縮む思いをするのだ。
だから、数学の時間も荒井先生もあまり好きではない。というか嫌いだ。
僕は荒井先生に出会うのを恐れ、背中を壁に張り付かせた。
それと同時に荒井先生の不機嫌そうな声が響いてきた。
「ダメダメ。中堅大学あたりは全員行けるだろうが上位大学は良くて30人じゃねぇか?」
「30人なら上等でしょう。3年なんて10人が関の山ですよ」
毒島先生がため息をつく。
「何が上等なもんか。学年の半分がAラン大に合格しなきゃ学年担当の教師全員の給料カットだぜ?」
怒気を含んだ声を吐き出される。
「あーあ、3年の連中が全員須沢みてぇならいいのによ」
唐突に僕の名前が挙がったものだから、緊張で体がこわばった。
「須沢くんはそんなにいいんですか?」
「ああ、俺の理想の生徒だな」
荒井先生がそんなことを言うなんてと一瞬気分が高揚したが、そんな気分は次の一言で木端微塵に吹き飛んだ。
「ビビリだからちょっと脅しゃ必死でやんのよ」
「荒井先生はスパルタですからね。恐怖で動いてくれる生徒は相性がいいでしょう」
「ハッ、毒島先生も似たようなもんだろ。頻出問題の解き方パターンをしこたま暗記させてるだけじゃねぇか」
「いちいち導くのは面倒なんですよ。須沢君みたいにとりあえずいうこと聞いてくれる子は扱いやすくていいですよね」
「学年に須沢みたいな優秀なヤツがどのくらいいるかがカギだな。全体的にもうちょいキツくしてみるか」
「やりすぎは禁物ですよ。下手したらモン、いやクレーマーどもが来ますから……。っともうこんな時間ですか。次の授業の準備しないと」
「ああそうだな」
パンパンと手をはたく音をさせながら荒井先生が言う。どこかに手をついていたらしい。
「大体クレーマーどもも大概だよな。ガキの教育を全部押しつけやがって……」
パタ、パタと足音を立てながら荒井先生の声が遠ざかってゆく。
それを聞きながら、僕は軽くため息をつく。
諦めと納得の入り混じった奇妙な満足感とともに僕はぼそりと呟いた。
「やっぱり僕は都合のいい道具、か……」
学校でのショックを引きずりながら家路をとぼとぼ歩いていると、道路の真ん中に何かが横たわっていた。
そばに寄ってみるとあの黄色い猫だった。
右の腹を下にして四肢を投げ出したままピクリとも動かない。
口の付近のアスファルトには小さな赤いしみが広がっていた。
「ひかれたのか……」
僕はぽつりと呟いた。
ここは車どおりは少ないといったが、少ないだけでまったく通らないわけではない。
その中の一台にひかれたのだろう。
そのままにして別の車にひかれるのも忍びないから、とりあえず脇へよけることにした。
埋めようかと思ったがそこまでの気力はない。
おそるおそる肩のあたりを持ってみると案外温かった。絶命してからそう時間が経ってないのだろう。
左手を猫の下に突っ込んでもう片方の肩を持ち、そのまま道路脇へ引きずるようにして運んだ。
思ったより重くて、自分の腕力のなさを感じた。
運び終えた亡骸を見下ろして、いつも目にしていた猫がいなくなったことを理解し、なんとなく虚しさを覚える。
それから少しホッとする。またあの安堵感を感じたかと思ったが、これ以上ひかれることがなくなったからそう感じたんだろう。
このまま放置することにためらいはあったが、近所の人が弔ってくれることを信じて、歩き出す。
結局、あの猫を見たとき感じた安堵感はわからずじまいだ。
一体なんだったんだろう。
週末テストの結果が返ってきた月曜日の帰り道。
「はぁ……」
僕は平均点が95点未満になったテスト結果を思い出しながら、重い足取りで家へと向かっていた。
気配を感じてふと横を向くと、そこにいるはずのないものと目が合い、思わず後ずさる。
あの猫だ。この前ひかれて死んだはずの。
一瞬幽霊かと思ったが、そんなわけがない。
今は夕方で幽霊が出るような時間でもないし、第一ちゃんと足がついている。猫の幽霊ってやっぱり後ろ足だけなくなるんだろうか。ってどうでもいいか。
とにかく、猫はあのときは死んでいなかった。きっと気絶していただけだったのだろう。
そういえば車にひかれたにしてはきれいだったし、体も温かった。
血を吐いていたから病気かなにかだったんだろうか。
「自力で回復したのかな」
言ってから、当たり前だなと思った。猫が自ら病院に行くわけがない。
これが僕なら親が病院に連れて行くだろう。
あんな親でも助けるはずだ。
僕に倒れられたら地位が維持できなくなるから。
と、そこまで考えてあることに気づく。
「……そうか!」
あの安堵感の正体がわかった気がする。
猫は自由だ。
だけど、病気になっても助けてもらえないように、自由であるがゆえに誰からも守られない。
だから、猫でない自分に安堵感を覚えた。
守られている自分と守られていない猫を比べて安心した。
道具扱いであろうと価値があれば大事にされる。
安全な自分の部屋で快適な生活をして、ご飯が食べられ、好きなものも買えるだけのお小遣いをもらえる。
ちょっとテンションがあがってきたぞ。
そうだ、荒井先生のスパルタ指導も見方を変えれば、僕に見どころがあるから贔屓して答えさせているとも言える。
つまり、僕が大事であることの裏返しとも取れるんじゃないか。
「……あまりありがたくはないけどねぇ」
荒井先生の怒鳴り声を思い出し、苦笑する。
ふと気づくと、猫はすでに姿を消していた。
「このことを気付かせるために姿を見せてくれたのかな、なんて」
そんなファンタジーじみた考えを口に出すほど気分が高揚していた。
安堵感の正体とは別に、もう一つ重要なことに気づいたから。
月曜日。帰宅して玄関に上がったところでいつもの甲高い声が飛んできた。
「おかえり勉ちゃん!週末テスト何点だった?!」
「89点」
僕は余裕に満ちた声で高らかに点数を宣言した。
とたんに甲高い声の主は顔を凍りつかせる。
そして鬼のような形相から耳をつんざくような絶叫を放った。
「は、はちじゅうきゅううてん!?ランク3じゃないの!なんて点をとってるのこの役立たず!」
先週からたった6点ダウンしただけとは思えない怒り方だった。
90点未満だと地位がかなり低くなるらしい。
「ランク3!?この私が!ランク3ですって!ああああ!何のためにあんたを生んだと思ってるの!こんな点数とらせるために生んだんじゃないのよ!あああ、こんなのなら生むんじゃなかった!」
激しく身をよじりながら聞くに堪えない暴言をまくし立てる。
僕の表情や気持ちなんてお構いなしに。
今までの自分ならその日は立ち直れないぐらいのショックを受けていたろう。
だけど、もう脅えない。涼しい顔で受け流す。
僕の立場を理解したからだ。
あの時気づいたのは自分が庇護されていることと、もう一つ。自分が必要不可欠な存在になっているってこと。
確かに僕は守ってもらっている。彼女の地位のために。
でも、同時に僕は彼女の権力闘争の道具としてなくてはならないものになっている。
だから、どれだけ怒ろうと僕を捨てることはできない。
切れないはさみは取り換えられるが、自分の子供は取り換えられない。
もちろん僕も育ててもらっている以上その恩に報いるつもりだ。
テストの点をとって彼女の地位を高めることに協力するのは構わない。
だが、僕は彼女の弱みを握っている。
その事実が僕に余裕を持たせる。
「つ、次にこんな点数をとったら承知しないからね!」
一通りの暴言を吐いた後、肩で息をしながら憎しみのこもった捨て台詞を僕に投げつけ、彼女は奥に消えて行った。
それを醒めた目で見届けると、僕は自分の部屋へ向かった。
自由になれるだけの力を得るまでの辛抱だ。
それまでは都合のいい道具でいてやろう。
かばんからノートを取り出しながら、そんなことを考える。
そして机に座った僕は今日もノートを開く。
自由をつかむその日を夢見て。