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俺を無能と見下して博士の幼なじみと不倫した妻は、俺の正体を知って後悔に狂った

作者: 熾星
掲載日:2026/08/03



 「修司、ごめんなさい。書斎にあったパソコンを水で濡らしちゃったから、修理に出しておいたわ」


 妻からそのメッセージが届いた数分後、俺は彼女の幼なじみのSNSで、まだ公表されていない研究データを目にした。


 「すぐに使用をやめさせろ。あれは安全保障関連プロジェクトの資料だ」


 「任期付きの研究員に、そんな重要な仕事が任されるわけないでしょう。直哉に嫉妬しているだけじゃない」


 翌日、霞森県警は東霞理工大学の研究施設を捜索し、久我直哉に任意同行を求めた。


 その夜、九条家の門前に、所属表示のない黒い公用車が三台停まった。


 主要出資者が相次いで撤退を表明したとき、怜奈はようやく知ることになる。


 自分が無能だと決めつけていた夫こそが、九条家を支えていたただ一人の人間だったことを。



1



 午前十時十七分。俺は蒼穹先端技術研究機構の材料解析棟で、シミュレーション結果を確認していた。机の上でスマートフォンが短く震え、怜奈からのメッセージが表示された。


 「修司、ごめんなさい。書斎にあったノートパソコンを水で濡らしちゃったの。もう修理に出したから、一応知らせておくわ」


 画面を見つめたまま、俺は眉を寄せた。あれは研究機構から貸与された暗号化モバイル端末で、セキュリティ管理室に登録された環境以外では使用できない。認証済みの自宅回線から限定的な遠隔計算を行うことは許可されていたが、第三者に触れさせるなど論外だった。


 端末内には、封鎖系サーバーから自動同期された暗号化キャッシュと、正式審査前のモデルパラメータが残っている。修理業者に電源を入れさせないよう連絡しようとした瞬間、SNSの通知が画面上部に現れた。


 投稿者は、久我直哉だった。


 東霞理工大学の産学連携センター。直哉は実験台の前に立ち、背後の大型モニターには見覚えのある曲線が映し出されていた。俺たちのチームが三年をかけて構築した中核モデルで、正式報告書にもまだ記載していないパラメータまで含まれている。


 添えられた文章は、たった一行だった。


 「何年も研究室にこもって解けなかった問題を、一晩で片づけた。これが本物の実力ってやつだな」


 コメント欄には、早くも称賛が並んでいた。その一番上に表示されていたのが、怜奈の書き込みだった。


 「さすが直哉。いつか国際的な賞を取ったら、隣の席は私のために空けておいてね」


 俺はすぐに電話をかけた。向こうではグラスの触れ合う音がし、ときおり何人かの笑い声が混じっていた。直哉の研究発表が終わり、仲間内で祝っているらしい。


 「誰の許可を得て、俺の端末を直哉に渡した?」


 電話の向こうが一瞬だけ静かになった。


 「仕事中でしょう? どうしてもう知っているの?」


 「質問に答えろ」


 怜奈は、わざとらしく息を吐いた。


 「直哉のパソコンが急に壊れたのよ。午後に研究報告があるっていうから、一晩だけ貸したの。それくらい、別にいいでしょう?」


 「あれは研究機構の管理端末だ。安全保障関連プロジェクトのデータが入っている。今すぐ使用を中止させ、複製したファイルを削除しろ。端末にはそれ以上触れず、そのまま返却させろ」


 テーブルの周囲から、堪えきれない笑いが漏れた。直哉が怜奈のスマートフォンに顔を近づけた気配がする。


 「神代、研究室にこもりすぎて、ただの計算データまで国家機密に見えるようになったのか?」


 怜奈まで声を立てて笑った。


 「あなたは研究機構の任期付き研究員でしょう。安全保障だなんて、大げさにもほどがあるわ。直哉のほうが優秀だからって、脅かすようなことを言わないで」


 「怜奈。これが最後の警告だ」


 「もういい。今は直哉のお祝いをしているの。空気を悪くしないで」


 通話は一方的に切られた。


 俺はスマートフォンを机に置き、直ちにプロジェクトのセキュリティ管理室へ連絡した。十分もたたないうちに、端末が深夜、未登録の外部記憶装置へ接続されていたことが判明する。さらに一部のファイルが、東霞理工大学の学内サーバーへ転送されていた。


 管理室は情報漏えい対応手順を発動し、内閣府の担当部署と霞森県警へ通報した。SNSに投稿された画像も、削除される前に証拠保全の対象となった。


 翌日の午後、霞森県警は裁判官から捜索差押許可状を取得し、産学連携センターへ入った。直哉の研究室と学内端末が押収され、本人も事情聴取のため任意同行を求められた。逮捕状はまだ請求されておらず、彼は弁護士同席の聴取を終えると、その日のうちに県警本部を出た。


 夕方には、二人の捜査員が九条家を訪れた。俺は、端末が無断で持ち出された経緯と、怜奈から届いたメッセージについて説明した。


 二人を見送って二階の書斎に戻った直後、扉が勢いよく開いた。高いヒールの音を響かせながら、怜奈が部屋へ踏み込んでくる。顔には、冷たい怒りが張りついていた。


 「直哉を警察に連れていかせたのは、あなたなの?」


 「安全保障関連の研究データを無断で複製し、外部へ公開した。捜査機関が動くのは当然だ」


 怜奈は机の上にあった上製本をつかみ、俺に投げつけた。本の背が鼻筋をかすめ、厚い絨毯の上へ鈍い音を立てて落ちる。


 「安全保障なんて、まだ言っているの? 直哉が評価されたのが悔しくて、嫉妬しているだけでしょう!」


 痛む鼻筋に触れながら、俺は黙って彼女を見た。結婚して五年、怜奈が俺のためにこれほど感情を露わにしたことは一度もない。それなのに直哉が事情聴取を受けただけで、彼女はすべての怒りを俺へ向けていた。


 「今すぐ県警本部へ行って、あなたが話を大げさにしたと説明して。あのデータは重要ではなかったと言えば、これ以上の捜査は止まるでしょう」


 「刑事事件は、俺が取り下げると言えば消えるものじゃない。公開された内容が重要かどうかを判断するのも、俺ではなく捜査機関と主管部署だ」


 怜奈が近づき、俺の襟元をつかんだ。俺は手首を押さえ、机から引き離す。彼女は椅子の背にぶつかり、信じられないものを見るように目を見開いた。


 「修司、私を突き飛ばしたの?」


 「物を投げつけておいて、いつまでも俺が黙っていると思うな」


 「パソコン一台のために、直哉の人生を壊すつもり?」


 「壊したのは、直哉自身だ」


 怜奈は何度か大きく息をし、やがて声の調子を落とした。


 「私と直哉が近すぎるのが嫌だったんでしょう。これからは距離を置くわ。でも、このことが外に知られたら、彼の研究者としての将来は終わってしまう。誤解だったと説明してくれない?」


 「誤解ではない」


 俺が調査の進捗を確認しようとスマートフォンを手に取ると、怜奈はそれを奪い、床へ叩きつけた。画面に大きな亀裂が走った。


 「いつまでこんなことを続けるつもり?」


 「それは俺の台詞だ」


 「あなたは蒼穹研究機構に十年いるだけの契約研究員でしょう。直哉は工学博士号を取り、今は東霞理工大学の特任助教よ。国の大型産学連携プロジェクトにも参加している。自分より優秀だから、嫉妬しているだけじゃない!」


 割れた画面を見下ろしているうちに、乾いた笑いが漏れた。


 「そこまで優秀なら、あのとき直哉と結婚しなかったことを後悔しているのか?」


 怜奈の視線がわずかに揺れた。だが、すぐに顎を上げる。


 「おじい様が、九条産業を継がせる条件にあなたとの結婚を入れなければ、最初から選んでいなかった。今日中に直哉へ謝って。できないなら、離婚するわ」


 「本気か?」


 「九条家を出たら、今の研究職だって続けられないわよ」


 その言葉が終わるのとほぼ同時に、書斎の扉が再び開いた。直哉が例の端末を抱え、弁護士とともに入ってくる。県警のデジタル・フォレンジック担当が内部記録を保全したあと、所有者である研究機構へ返却するよう求められたらしい。端末の外装には、まだ乾ききっていない水染みが残っていた。


 直哉はそれを机へ乱暴に置いた。


 「神代、パソコンを一晩借りただけで、ここまで大騒ぎする必要があるのか?」



2



 直哉が部屋へ入るなり、怜奈は彼のそばへ駆け寄った。顔を隅々まで確かめ、事情聴取でひどい扱いを受けなかったか見定めているようだった。直哉は安心させるように、彼女の肩へ手を置く。


 「俺のパソコンが急に壊れたから、怜奈に借りただけだ。責めるなら俺を責めろ。彼女に当たるな」


 怜奈の目元が赤くなった。


 「やっぱり直哉は優しいわね。修司にも、あなたの半分くらい思いやりがあれば、私だってこんなに疲れないのに」


 「端末は返した。弁護士も、故意に機密を漏らすつもりがなかったと認められれば、そこまで重い話にはならないと言っている」


 俺は椅子を引いて腰を下ろした。


 「その弁護士なら、関係者へ接触して供述を変えさせるようなことはするなとも言ったはずだ」


 直哉の笑顔が一瞬だけ固まった。


 「本気で、自分が国家プロジェクトの中心人物だと思っているのか?」


 「お前がSNSに公開した図表は、未公表の研究成果だ。安全保障上の重要性は、捜査機関とプロジェクトの主管部署が判断する。お前が決めることじゃない」


 直哉は、ひどく馬鹿げた話を聞いたように、机へ寄りかかって笑った。


 「だったら、その偉い主管部署とやらに説明させろ。独立した研究室すら持っていない人間が、国家機密を盾にするなんて笑わせる」


 怜奈も口元を緩めた。


 「直哉、まともに相手をしなくていいわ。修司は昔から、普通の仕事を必要以上に大げさに言うのが得意なの」


 「九条産業は材料研究センターを拡張する予定なんだろう? 神代を技術スタッフとして雇えばいい。正式な肩書がつけば、周囲に見下されているなんて思い込まずに済む」


 「実験記録の整理だって、直哉の求める水準には届かないと思うけど」


 怜奈は、俺が座る椅子の脚を靴先で軽く蹴った。


 「研究機構に長くいるだけで、外から確認できる業績はほとんどないでしょう。少しは直哉から学んだほうが、あなたのためよ」


 直哉は、あからさまな挑発を目に浮かべて俺を見た。


 「神代研究員が来てくれるなら、俺が直接指導してやるよ」


 「お前の博士論文のうち、父親が主宰するプロジェクトから持ってきた内容がどれほどあるか、自分が一番よく知っているだろう」


 書斎の空気が止まった。俺は椅子の背へ体を預け、直哉から視線を外さなかった。


 「三年前、お前の父親は白岳プロジェクトへの参加を申請し、仲介者を通して俺に計画書の評価を頼んできた。あの人でさえ中核チームに入る資格を得られなかった。それなのに、お前が俺へ何を教えるつもりだ?」


 直哉の顔がみるみる赤くなった。


 「神代修司、いい加減にしろ。怜奈の夫だから話を聞いてやっているだけだ。そうでなければ、お前なんかと口を利く理由もない」


 怜奈が直哉の前へ出た。


 「直哉に謝って」


 「謝る理由はない」


 頬に鋭い衝撃が走った。怜奈の手は空中に残り、指先がわずかに震えていた。自分でも本当に殴るとは思っていなかったのだろう。それでも、彼女は謝ろうとはしなかった。


 「あなたは九条家に婿入りしてから、この家で暮らし、九条家の信用を使ってきた。おじい様が結婚を認めたのは、あなたに居場所を与えるためよ。家の中で偉そうに振る舞うためじゃない」


 俺はゆっくりと顔を戻した。


 「そこまでして、今日は直哉の側に立つのか?」


 「自分を買いかぶらないで」


 怜奈は持っていたファイルから、数枚の書類を抜き出して机へ投げた。財産関係の合意書、株式譲渡の意向確認書、そして大部分が記入済みの離婚届だった。証人欄は空白で、法務部長と秘書室責任者が、双方の意思を確認したあと署名することになっているという。


 俺は結婚時、戸籍上の姓を九条へ変更していた。ただし研究者としては旧姓使用の手続きを行い、論文も職務上の記録も「神代修司」の名で通している。


 「署名して。あなたが持っている九条産業の非公開株式も、直哉へ譲渡することに同意してもらうわ。実際の譲渡には取締役会の承認が必要だけれど、先に意向書へ署名すれば、あとは私が進める」


 宗一郎が一部の株式を俺名義にしたのは、単なる結婚祝いではない。俺と九条産業を長期的に結びつけ、技術ライセンス、政府プロジェクトへの推薦、投資家からの信用を維持するためだった。怜奈は、その意味を一度も考えたことがないらしい。


 直哉が彼女の後ろへ立ち、書類に目を落とした。


 「素直に署名しろ。今なら、まだ体面を保って出ていける」


 俺は直哉を無視し、怜奈だけを見た。


 「本当に離婚するんだな?」


 「とっくに限界だったの。おじい様が止めなければ、この離婚届は何年も前に市役所へ出していたわ」


 腕を組んだまま、彼女の表情には迷いがなかった。


 「すぐ署名してくれるなら、別に百万円を渡してもいい。何か月かの家賃にはなるでしょう。九条家を出たあと、泣きながら助けを求めに来ないでね」


 「百万円はいらない」


 俺はペンを取り、財産関係の合意書と株式譲渡の意向確認書、離婚届に、戸籍上の名である「九条修司」と署名した。怜奈は一つずつ確認し、ようやく満足そうな表情を見せた。


 「明日の午前、主要出資者と取引金融機関を集めた緊急経営説明会がある。そこで正式に発表するわ」


 「好きにすればいい」


 直哉が鼻で笑った。


 「今は余裕があるふりをしていろ。研究機構との契約を切られたとき、自分が何を失ったか思い知るだろう」


 俺はペンを机へ戻し、立ち上がった。


 「また明日」


 書斎を出たあと、予備端末から主要投資家へ書面通知を送り、九条産業の取締役会へ技術顧問辞任届を提出した。高密度蓄電材料に関する基礎特許は、蒼穹研究機構と、俺が設立した知的財産管理法人が共同で保有している。九条産業に与えられているのは期限付きの商業実施許諾であり、俺は契約に従って今期末までの履行と、次年度以降の自動更新を行わない旨を通知した。


 同時に、俺個人が提供していた共同研究への推薦と、技術面での信用保証も撤回した。すべてを終えると、返却された端末を外で待っていた研究機構のセキュリティ担当者へ引き渡した。


 これで、すべてが動き出す。



3



 翌朝、九条産業ホールディングス本社は、普段より騒がしかった。怜奈は仕立てのいい白いスーツを着て、直哉の腕に自分の腕を絡めながら一階ロビーへ入ってきた。二人は周囲の視線をまるで気にせず、新しい関係を早く見せつけたいとでもいうように歩いていた。


 ラウンジから、声を潜めた会話が聞こえる。


 「社長、とうとう九条家の婿と別れるらしいよ」


 「相手は研究機構の任期付き職員で、経歴もほとんど公表されていないんでしょう。九条家が何年も面倒を見たんだから、もう十分じゃない?」


 「久我さんは違うものね。東霞理工大の工学博士で、特任助教。父親は産学連携センター長だし」


 「この前のチャリティーオークションでも、社長が久我さんのために限定モデルの腕時計を落札したって。前から付き合っていたんじゃない?」


 俺はロビーの反対側を通り、そのままエレベーターへ向かった。乗ってきたのは、何年も使っている年式の古いハイブリッド車だ。高級車でもなければ、外装にも細かな傷がある。九条産業の社員から見れば、社長の配偶者が乗る車にはふさわしくないのだろう。


 エレベーター前で、怜奈が俺を呼び止めた。


 「修司、説明会が終われば、あなたが九条家と無関係になることを全員が知るわ。直哉に謝るなら、今が最後の機会よ」


 「謝ったあとは?」


 「直哉のお父様に頼んで、大学の研究室で技術スタッフの職を紹介してもらえるかもしれない。失業して、住む場所までなくすよりはいいでしょう」


 直哉はネクタイを整え、余裕のある笑みを浮かべた。


 「心から反省するなら、俺もいつまでも責めるつもりはない」


 「二人とも、自分たちの今後を心配したほうがいい」


 エレベーターの扉が開き、俺は先に乗り込んだ。


 最上階の会議室には、主要出資者の代表、取引金融機関の担当者、主要取引先の責任者が集まっていた。九条産業は非上場企業だが、複数回の第三者割当増資と銀行融資によって事業を拡大してきた。ここにいる人々の判断が、次の資金調達と事業継続を左右する。


 俺が入ると、交わされていた会話が順に止まった。数人の大口出資者が立ち上がり、軽く頭を下げる。その直後、後ろから腕を組んで入ってきた怜奈と直哉を見て、彼らの表情は一様に硬くなった。


 怜奈は異変に気づかず、正面の席まで進んだ。


 「今後の事業計画をご説明する前に、私事ではありますが、一点ご報告いたします。私は修司と離婚することで合意し、離婚届への署名も終えました」


 彼女は直哉の腕へ手を添えた。


 「今後は久我家との縁組も視野に入れ、九条産業と、久我教授が率いる東霞理工大学産学連携センターとの協力を全面的に進めます」


 直哉が軽く一礼した。


 「久我家としても怜奈を全面的に支えます。九条産業は、東霞理工大学の優れた研究資源を活用できるようになるでしょう」


 会議室に拍手は起こらなかった。


 最大級の出資者である沢村ベンチャーキャピタルの代表が、俺へ視線を向けた。


 「神代先生。九条社長のお話は、事実でしょうか」


 「離婚届はまだ提出されていませんが、署名したのは事実です。それとは別に、昨夜付で九条産業の特別技術顧問を辞任しました。中核特許の実施許諾についても、契約期間が満了する今期末をもって更新しない旨を通知しています」


 沢村代表は目を閉じ、机上の資料を静かに片づけ始めた。


 「承知しました。沢村ベンチャーキャピタルは、現在進めている増資交渉を中止し、投資契約に基づく退出手続きの検討に入ります」


 別の出資者も立ち上がった。


 「弊社が九条産業へ出資した最大の理由は、神代先生が技術方針を継続的に監督されることでした。前提条件が変わった以上、共同事業を含め、すべて再評価します」


 銀行の担当者はノートパソコンを閉じた。


 「融資枠と財務制限条項については、当行の審査部門で改めて確認し、後日正式にご連絡いたします」


 数分のうちに、会議卓の席は半分近く空いた。そこで初めて、怜奈の顔に焦りが浮かんだ。


 「お待ちください。技術顧問が一人交代するだけなのに、どうして増資まで中止するのですか?」


 沢村代表は出口で足を止め、振り返った。


 「九条社長。あなたは、九条産業の信用が何によって成り立っていたのか、一度も理解していなかったようですね」


 それ以上は説明せず、秘書を伴って会議室を出ていった。


 怜奈が追いかけようとしたとき、廊下の向こうから三人の捜査員が現れた。先頭の刑事が身分証と逮捕状を示し、直哉の前に立つ。


 「久我直哉さん。不正競争防止法違反の疑い、および安全保障関連研究データを不正に取得、複製した疑いで逮捕します」


 手錠が手首にかけられた瞬間、直哉の顔から血の気が消えた。


 「待ってくれ。昨日、事情聴取には応じただろう! 弁護士はどこだ?」


 「弁護人へ連絡する権利は保障されています。抵抗せず、同行してください」


 怜奈は刑事の腕をつかんだ。


 「何かの間違いです。あのデータは修司のものなんだから、本人が訴えを取り下げれば済むでしょう!」


 刑事は彼女の手を外した。


 「捜査を継続するかどうかは、捜査機関が判断します。公務の執行を妨げないでください」


 直哉がエレベーターへ連れていかれる。怜奈は二歩ほど追いかけたが、そのときスマートフォンが鳴った。画面に表示されていたのは、宗一郎の名だった。


 「おじい様、すぐ弁護士に連絡して! 直哉が逮捕されたの!」


 受話口の向こうで、机を強く叩く音がした。


 「まだ久我直哉の心配をしているのか! お前が勝手に離婚を発表したせいで、出資者は撤退を始め、銀行も融資の再審査に入ったんだぞ!」


 「そんなはずないわ。意味のない結婚を終わらせただけでしょう」


 「意味がないだと?」


 宗一郎の怒声は、会議室中に聞こえるほど大きかった。


 「今すぐ修司に謝れ。それから本邸へ戻ってこい!」



4



 通話が切れたあとも、怜奈は長いあいだスマートフォンを握ったまま立っていた。やがて俺へ向き直ると、動揺を押し隠すように目をつり上げた。


 「昨夜、裏で何をしたの?」


 「自分の役職を辞め、許諾と推薦を終了させただけだ」


 「あなたが意図的に九条産業を壊そうとしたと分かったら、絶対に許さない」


 それだけ言い残し、怜奈は足早に会議室を出ていった。


 俺も辞任に伴う事務手続きを終え、九条家の本邸へ向かった。本邸は御代原市北部に建つ和洋折衷の屋敷で、何度か改修されてはいるものの、庭には宗一郎が若い頃に選んだ庭石と黒松が今も残っている。


 居間へ入ると、宗一郎は狭心症の薬を服用したばかりだった。長年診療を担当している主治医がそばで様子を見ており、屋敷の家政責任者が背を支えていた。


 怜奈は周囲の様子も見ず、ソファの前まで進んだ。


 「おじい様、出資者が撤退するってどういうこと? 直哉は正式に逮捕されたのよ。知っている弁護士や議員に連絡して、何とかして」


 宗一郎は俺の姿を見ると、肘掛けにつかまって立ち上がった。


 「神代先生、本当に申し訳ない。私が怜奈を甘やかしすぎました」


 「おじい様、どうして修司にそんな態度を取るの?」


 「こちらへ来て、謝りなさい」


 怜奈はその場で固まった。


 「どうして私が謝るの? 修司は九条家に婿入りしただけの人でしょう」


 宗一郎の声が一段高くなった。


 「黙れ。どんな方法を使ってでも、今日中に修司の許しを得なさい。できないなら、お前を九条家の後継者から外す」


 「おじい様、もう判断力までなくしたの? この人は何年も九条家の家に住み、九条家の立場を使ってきたのよ。私が受け入れたからここにいられたの。私が出ていけと言えば、出ていくしかないでしょう」


 怜奈はさらに一歩前へ出た。


 「今は直哉を助けることが先よ。九条産業と久我家が協力すれば、まだ立て直せる――」


 乾いた音が、その言葉を断ち切った。


 宗一郎の手は空中に止まり、力を使い果たしたように体が揺れた。家政責任者が慌てて支え、主治医もすぐにそばへ寄る。怜奈は頬を押さえ、何が起きたのか理解できないように祖父を見つめた。


 「まだ久我家の名を出すのか!」


 宗一郎は息を整えながら、怜奈をにらんだ。


 「修司と結婚できたことは、お前にとっても九条産業にとっても幸運だった。それを、お前は自分の手で追い出したんだ!」


 「修司のどこに、そこまで言わせる価値があるの?」


 「膝をついて謝れ」


 「嫌よ」


 怜奈は俺を振り返った。向けられた目には、謝罪ではなく憎しみが浮かんでいた。


 「私はおじい様の孫なのよ。九条家に養われてきた人のために私を殴って、今度はその人に土下座しろっていうの?」


 宗一郎は怜奈を指さそうとした。だが唇が震え、次の瞬間、胸を押さえて崩れ落ちた。


 俺はすぐに肩を受け止め、ソファへ仰向けに寝かせた。主治医が救急薬を使い、呼吸と脈を確認する。状態が落ち着くと、家政責任者へ病院の受け入れを確認するよう指示した。


 意識を取り戻した宗一郎は、それでも俺の手を離さなかった。


 「修司、すまない。怜奈には必ず心から謝らせる。だから、今すぐ九条家を見捨てないでくれ」


 「無理に謝らせる必要はありません」


 「九条産業は、君を失えば終わる」


 「九条家との関係は、ここで終わりにします」


 宗一郎はソファの端から滑り降り、畳に両膝をついた。


 「頼む。残ってくれ」


 怜奈が駆け寄り、祖父の腕を取る。


 「おじい様、何をしているの? 立って!」


 宗一郎は逆に、怜奈の手首をつかんだ。


 「怜奈、膝をつきなさい。私からも頼む。修司に謝ってくれ」


 「できないわ」


 俺は宗一郎を抱えるようにして立たせた。これ以上、この場で争う気力は残っていなかった。


 「あなたは、俺が一番苦しかった頃に食事をさせてくれ、納付期限の迫った授業料も立て替えてくれました。その恩を返すため、俺は怜奈との結婚を受け入れ、戸籍上は九条姓を名乗り、五年間にわたってグループへ技術支援を提供しました」


 俺は彼の手を離した。


 「恩は、もう返し終えています」


 窓の外から、複数の車が庭へ入ってくる音がした。所属表示のない黒い公用車が三台、主屋の前で止まる。白岳特別研究区の連絡官が降り、門の警備員へ内閣府共同プロジェクトの身分証を示した。


 宗一郎は車を見つめ、徐々に顔色を失った。


 「行かないでくれ」


 「白岳プロジェクトは最終段階に入っています。戻らなければなりません」


 「君がいなくなったら、九条産業はどうなる?」


 「それを背負うのは、九条産業の経営陣です」


 俺は振り返らずに本邸を出て、先頭の車へ乗った。


 怜奈は縁側に立ち、見知らぬ人間を見るような目で俺を見ていた。おそらくこの時点でも、公用車は俺が権威を装うために用意したものだと思っていたのだろう。


 車のドアが閉じると、宗一郎は力なく畳へ座り込んだ。


 「終わった。九条家は、本当に終わった」


 「おじい様、神代修司一人に、九条産業をどうにかできるはずがないでしょう」


 「出資者の撤退は一時的かもしれない。私が銀行と株主へ連絡すれば、きっと戻ってくるわ」


 電話をかけようとした怜奈の手を、宗一郎が押さえた。


 「誰も戻ってはこない」


 「どうして?」


 「神代修司こそが、K博士だからだ」


 怜奈の手が途中で止まった。


 「K博士……?」


 「白岳特別研究区の首席研究責任者で、蒼穹先端技術研究機構では最年少の特別主任研究員だ。九条産業が使ってきた高密度蓄電材料の基礎特許、その半分近くは彼のチームが生み出したものだ」


 宗一郎は目を閉じた。


 「沢村ベンチャーキャピタルをはじめとする投資家が資金を出し続けたのは、修司が技術面の信用を保証していたからだ。九条産業が国の共同プロジェクトへ参加できたのも、彼が推薦していたからにすぎない」


 怜奈は、ゆっくりと床へ座り込んだ。


 「でも、修司はずっと普通の研究員だったはずよ……」


 「安全保障上の理由で立場を公表できなかった。それに、本人も名声を望まなかった」


 宗一郎は、庭の外へ消えた車の方向を見つめた。


 「初めて会ったとき、彼は東霞理工大学大学院工学研究科の学生だった。両親を亡くし、奨学金とフードデリバリーの配達アルバイトで生活費を稼ぎ、花守町の古い木造アパートで暮らしていた」


 「大雨の日、配達中に転倒した彼を見かけて、食事をさせ、その期の授業料を立て替えた。数年後に再会したとき、彼はすでに白岳プロジェクトの中核研究者になっていた」


 宗一郎の声が少しずつ低くなる。


 「修司は私を信頼し、身分を明かしてくれた。私はその信頼を利用し、昔の恩を理由にお前との結婚を求めた。彼の力で、九条産業を守ろうとしたんだ」


 「二人が結婚してから、投資も融資も共同事業も次々と九条産業へ入ってきた。お前は自分の経営手腕によるものだと思っていたが、彼らは修司がいる限り、この会社が致命的な判断をしないと信じていただけだ」


 怜奈は、九条産業が最も急速に拡大した時期が、結婚直後から始まっていたことを思い出した。


 彼女は、すべてを自分の能力だと思っていた。成果が増えるほど、表立った肩書を持たず、高級車にも乗らず、華やかな経済界の集まりにも出ない夫を見下すようになった。


 結婚したばかりの頃、修司は夜遅くまで帰宅を待ち、翌日の会議資料を整理してくれた。だが怜奈が余計なことをするなと突き放すたび、彼は少しずつ口数を減らした。やがて、結婚記念日のことさえ言わなくなった。


 怜奈は、端末に研究資料が入っていると知りながら、直哉へ渡した。契約研究員に、本当に重要な成果などあるはずがないと決めつけていたからだ。


 修司は嘘をついていなかった。


 直哉が逮捕されたのも、嫉妬のせいではなかった。


 怜奈は突然立ち上がり、主屋を飛び出した。公用車はすでに庭の外の長い坂を下っている。彼女はハイヒールを脱ぎ、石畳を裸足で走った。


 「修司!」


 門の外へ出たところで足を滑らせ、路肩へ激しく倒れ込む。


 「私が悪かった! 戻ってきて!」



5



 助手席に座っていた連絡官が、後ろを振り返った。


 「神代主任、停車しますか」


 俺は後部座席へ体を預け、目を閉じた。


 「必要ない」


 「九条さん、転んで怪我をしたようですが」


 「本邸には人がいる。誰かが対応する」


 車内は再び静かになった。


 俺は怜奈に、何度も機会を与えてきた。俺を愛せないなら、それでもよかった。離婚を望むことも、彼女自身の選択だ。


 だが、研究成果を無断で他人に渡し、重大な結果が生じる可能性を知ってなお、直哉を逃がすことだけを考えた。それは、夫婦のすれ違いでは済まされない。


 一度越えた一線は、なかったことにはできない。


 白岳特別研究区へ戻ると、俺は再び閉鎖管理下の研究へ入った。高密度蓄電材料の最終検証が進んでおり、参加者全員に外部との接触を減らすよう指示が出ていた。俺も九条産業の状況を追わなくなった。


 一か月後、直哉は不正競争防止法違反、研究データの不正取得、証拠隠滅を働きかけた疑いなどで起訴された。父親は東霞理工大学産学連携センター長を辞任し、大学は調査委員会を設置した。直哉がこれまで関与した論文と共同研究についても、データの出所や著者資格が検証されることになった。


 九条産業は、翌年度以降の特許実施許諾を失ったことで、複数の主力製品を継続生産できなくなった。新製品にも従来の中核技術を使えず、更新計画と供給契約が相次いで停止する。


 投資家は契約に基づく退出手続きを進め、主要取引銀行は財務指標の悪化を理由に、追加担保の提供と融資枠の縮小を求めた。怜奈は代替技術を探し、久我家が持っていた人脈にも連絡した。だが、K博士が完全に手を引いたと分かると、それまで彼女を取り囲んでいた人々は電話に出なくなった。


 半年後、霞森地方裁判所は九条産業の民事再生手続廃止を決定し、続いて破産手続開始決定が下された。九条家本邸はグループの資産管理会社名義で、会社融資の担保にも設定されていたため、破産財団の処分対象となった。


 その事実を知ったのは、俺が一区切りの実験を終え、白岳を出たあとだった。九条家へは戻らず、花守町へ向かった。


 そこには、築四十年以上の小さな木造平屋がある。六畳の和室が一つ、古い板張りの居間が一つ、改修された狭い浴室と台所。それだけの家だった。


 大学院時代、俺は近くの古い木造アパートに住んでいた。最初の特許収入を得たとき、取り壊される予定だったこの家を買い取った。高価な家具はなく、台所も一人が立てばいっぱいになる。それでも、ここは初めて扉を閉め、誰にも遠慮せず自分の研究に向き合えた場所だった。


 結婚後も売却しなかった。毎年、管理会社に屋根や配管、電気設備の点検を頼んでいたが、自分で戻ってくることはなかった。


 扉を開けると、室内は意外なほどきれいだった。窓枠に埃はなく、畳も最近拭かれたように見える。スーツケースを壁際へ置いたところで、玄関の鍵が回る音がした。


 怜奈が入ってきた。


 俺の姿を見た途端、彼女は玄関で動きを止めた。色の褪せた上着に、スーパーで売られているような布製のトートバッグ。以前は秘書が用意したブランドバッグにさえ文句をつけていたのに、今は靴の縁に泥がつき、指先は洗剤で荒れていた。


 「今日、戻ってくるとは思わなかった」


 「どうしてここの鍵を持っている?」


 「予備の鍵が、九条家の金庫に保管されていたの。本邸が処分される前に持ち出したわ」


 怜奈は靴を脱ぎ、玄関の上がり框で立ち止まった。以前のように、当然の顔で奥へ入ろうとはしなかった。


 「九条産業は破産した。本邸も破産管財人の管理下に入って、私は出なければならなかったの。行く場所がなくて、ここに住ませてもらっていた」


 俺はしばらく黙り、居間を指した。


 「座れ」


 怜奈は畳の端へ、小さく腰を下ろした。


 「今は、どうやって生活している?」


 「ビルメンテナンス会社の登録スタッフとして働いているわ。仕事が入れば、オフィスビルやマンションの共用部を清掃する。シフトがない日は、コンビニの夜勤に入っている」


 怜奈はかつて数百人の社員を率いていた。しかし、会社を一人で経営する能力が本当にあったわけではない。重要な判断は宗一郎、財務責任者、外部顧問が行い、怜奈は後継者として表舞台に立っていただけだった。


 支えていた仕組みを失うと、一般企業の管理職にさえ採用されなかった。


 「おじい様は?」


 怜奈は視線を落とし、トートバッグの持ち手を強く握った。


 「本邸に、担保不動産競売開始決定の通知が届いた日、心筋梗塞を起こしたの。病院に運ばれたときには、もう間に合わなかった」


 俺はすぐに言葉を返せなかった。


 宗一郎は昔の恩を使って俺を九条家へ縛りつけた。それでも、俺が最も困っていた時期に助けてくれたのも事実だ。彼の善意と打算は、最後まで完全には切り分けられなかった。


 怜奈が顔を上げた。


 「全部、私のせいよ。端末を直哉に渡さなければ、あなたを追い出さなければ、会社は破産しなかった。おじい様だって死なずに済んだ」


 俺はティッシュを一枚取り、彼女の前へ置いた。怜奈は受け取らず、代わりに俺の手をつかんだ。


 「修司、私が間違っていた。離婚届はまだ市役所へ出していないから、私たちは今も夫婦よ。もう一度だけ、やり直す機会をくれない?」


 俺は手を抜いた。


 「怜奈。すべてが、やり直せるわけじゃない」


 「変わるから。あなたが嫌だったところは、全部直す」


 「もし俺が、本当にお前が思っていたとおりの人間だったら?」


 俺は彼女の目を見た。


 「名前も金もなく、研究機構との契約をいつ切られるか分からない、九条家に入っただけの男だったとしても、今と同じように後悔したか?」


 怜奈の唇がわずかに動いた。だが、答えは出なかった。


 それで十分だった。


 彼女が取り戻そうとしているのが、かつての夫なのか、それともK博士がもたらしていた生活なのか、本人にも分かっていないのだろう。


 俺は立ち上がり、スーツケースを持った。


 「この家は九条産業の資産ではない。しばらく住んでいていい。ただし、安定した住居が見つかったら、できるだけ早く出ていってくれ」


 玄関まで来たところで、怜奈が追いかけてきた。


 「たとえあなたが本当に何も持っていなくても、もう二度と見捨てない!」


 狭い廊下に、彼女の声が響いた。


 「修司、愛しているの。必ず証明するから」


 俺は振り返らず、荷物を持って蒼穹研究機構の職員宿舎へ向かった。



6



 俺は、怜奈が身分と生活を同時に失った現実を受け入れられず、一時的に混乱しているだけだと思っていた。時間がたてば、いずれ冷静さを取り戻すだろうと考えていた。


 だが数日後、彼女は弁当を持って職員宿舎を訪ねてきた。警備員は俺へ連絡して面会の意思を確認したうえで、入口横の面会室へ案内した。


 弁当箱を開けると、クリームソースのきのこリゾットが入っていた。


 「五年間も一緒に暮らしていて、俺がきのこアレルギーだと知らなかったのか?」


 怜奈の顔から血の気が引いた。慌てて蓋を閉め、弁当箱を自分のほうへ引き寄せる。


 「ごめんなさい。今まで自分であなたの食事を作ったことがなかったから……。家では料理人と家政スタッフに任せきりで、本当に知らなかったの」


 その謝罪を聞いても、心は動かなかった。


 同じ屋根の下で五年を過ごしながら、俺たちは互いをほとんど知らなかった。その事実が、以前よりはっきりしただけだった。


 「昔は、怜奈を好きだった」


 彼女が顔を上げた。


 「だが、その気持ちはもう使い果たした。今になって優しくされても、過去に起きたことは消えない」


 「K博士だと分かったから、戻りたいわけじゃない」


 「花守町で聞いた質問に、お前は答えなかった」


 怜奈の顔色が、また少しずつ白くなった。


 「あのときは、どう答えればいいのか分からなかっただけよ」


 「なら、無理に答えを作る必要はない」


 俺は、まだ提出されていない離婚届の写しを机へ置いた。


 「時間を決めて、御代原市役所へ行こう。双方が署名した以上、この婚姻を正式に終わらせる」


 「嫌よ」


 「怜奈」


 「結婚したばかりの頃は、私たちだって幸せだったでしょう。残業のあと迎えに来てくれたし、私が熱を出したときは一晩中そばにいてくれた」


 彼女は膝の上で両手を握りしめた。


 「直哉に騙されていたのもある。でも一番悪かったのは、周りの称賛を全部、自分の力だと思い込んだこと。今になって、誰を愛していたのかやっと分かったの。離婚したくない」


 「もう無理だ」


 怜奈は勢いよく立ち上がり、わずかによろめいた。


 「あなたが、本当に何も感じなくなったなんて信じない」


 面会時間が終わり、俺は警備員に彼女を出口まで案内してもらった。怜奈は抵抗しなかったが、宿舎の門前に長いあいだ立ち続けていた。


 それから毎日、メッセージが届くようになった。朝は食事をしたか、昼は実験が順調か、夜はきちんと休んでいるか。かつて俺が欲しかった言葉ばかりだったが、今では重荷にしかならなかった。


 番号を着信拒否にすると、怜奈は研究機構の敷地外にある公道沿いで待つようになった。雨の日も、冷え込む日も、正門から少し離れた歩道に立っている。


 蒼穹研究機構は高度な警備対象施設で、事前登録のない訪問者は構内へ入れない。警備員は何度も帰るよう促したが、翌日になるとまた現れた。


 仕事への影響を避けるため、俺は白岳特別研究区へ戻る申請を出した。


 プロジェクトへ復帰した日、研究統括部長が新しく加わったメンバーを紹介した。列の最後に立っていた若い女性研究員は、黒髪を簡単に後ろで束ねていた。胸元のIDカードには「水城七海」と書かれている。


 彼女はまっすぐ俺へ手を差し出した。


 「水城七海です。専門は材料システム工学とマルチスケールシミュレーションです。博士後期課程の頃、神代修司名義で発表された材料シミュレーションの論文を読みました。白岳に配属されて、初めてK博士と同一人物だと知りました」


 「研究区では、神代でいい」


 七海は少し笑った。


 「では、神代主任。よろしくお願いいたします」


 七海は俺個人の助手ではない。プロジェクトの人事審査を経て、モデル検証グループへ配属された任期付き研究員だった。独立した課題を持ち、共同実験では俺へ検証結果を報告する立場にある。


 最初のグループ会議で、彼女は俺の計算モデルについて、境界条件が理想化されすぎていると指摘した。会議室が静まり返っても、七海は引かなかった。検証データをすべてスクリーンに表示し、自分の指摘が感覚的な反論ではないことを示した。


 俺がモデルを確認し直すと、彼女のほうが正しかった。


 それからもチームが行き詰まるたび、七海は別の角度から解決案を出した。専門家同士としての呼吸が少しずつ合い、互いの作業の進め方を、長く説明しなくても理解できるようになった。


 離婚が片づいていない状態で、彼女に精神的に依存することを恐れ、別グループへの配置転換を検討したこともある。だが申請書を提出する前に、七海のほうから研究棟の屋上で俺を呼び止めた。


 「神代主任。離婚の手続きを進めていると伺いました」


 「離婚届には署名したが、まだ提出していない。法律上は夫婦のままだ」


 七海はうなずいた。落胆した顔も見せず、それ以上距離を縮めようともしなかった。


 「では、手続きが終わってから、もう一度お聞きします」


 「何を?」


 「私とお付き合いしていただけるかどうかです」


 それだけ告げると、七海は資料を抱えて去っていった。


 彼女の率直さに、追い詰められたとは感じなかった。越えてはいけない線を理解し、俺の選択を待つと言ってくれたからだ。


 怜奈から逃げ続けても、何も解決しない。


 この婚姻は、正式に終わらせなければならなかった。



7



 怜奈から、花守町の家を譲渡するために必要な書類が、旧白岳山岳リゾートの管理事務所に残っていると連絡があった。九条産業が開発した施設で、破産後は営業を停止し、資産整理のため最低限の管理だけが続けられている。


 人目のある場所で話したかったが、書類の確認には本人の立ち会いが必要だという。俺は管理会社へ連絡し、怜奈に一時入館の許可が出ていることを確認したうえで、指定された日時に現地へ向かった。


 旧管理事務所の会議室で、怜奈は約束より三十分早く待っていた。清掃会社の制服の上に古い上着を羽織り、椅子の横にはあの布製トートバッグが置かれている。


 短い期間で、彼女は以前とは別人のように見えた。


 俺は準備してきた書類を机へ置いた。


 「離婚届の提出に同意するなら、花守町の家を怜奈へ名義変更する。それとは別に、当面の生活資金として一千万円を支払う。財産分与の義務を認めるという意味ではない。今後、住む場所と生活を立て直すための金だ」


 俺たちに子どもはいない。九条産業の破産によって、以前の合意書にあった株式譲渡も事実上意味を失っている。残るのは離婚届の提出と、財産関係を整理することだけだった。


 怜奈は金額に目を向けなかった。


 「同意しない」


 「拒み続けても、結論は変わらない。協議で終わらないなら、家庭裁判所へ夫婦関係調整調停を申し立てる」


 「私は九条家も、おじい様も、昔から知っていた人たちも全部失った。今度はあなたまで、お金を渡して私を遠ざけるの?」


 「金は、生活をやり直すためのものだ。許しと引き換えにするつもりはない」


 怜奈が顔を上げた。あまりにも静かな目をしていて、かえって不自然だった。


 「修司は、水城さんが好きなの?」


 「それは俺たちの離婚とは関係ない」


 「関係あるわ」


 彼女の手が、トートバッグの中へ入った。書類を取り出すのだと思った。


 次の瞬間、折り畳み式の金属製トレッキングポールが、後頭部へ叩きつけられた。


 視界が急速に暗くなった。意識を失う直前、耳元で低い声が聞こえた。


 「あなたは私のものよ。誰にも渡さない」


 再び目を開けたとき、周囲がわずかに揺れていた。


 俺は古いロープウェイの搬器内に横たわり、両手を背中側でロープに縛られていた。窓の外には白岳西側の谷が広がり、足元の原生林は夕暮れの中で黒く沈んでいる。


 このロープウェイは、九条産業が開発した山岳リゾートの設備だった。営業停止後は保守点検用の電源だけが残され、一般客は立ち入りできない。怜奈は旧管理権限と、管理事務所に残されていた保守用キーを利用し、点検運転を開始したらしい。


 彼女は向かい側の座席に座り、遠い稜線を眺めていた。


 「目が覚めたのね」


 「搬器を下ろせ」


 「修司。人は死んだら、どこへ行くと思う?」


 手のひらに冷たい汗がにじんだ。だが、できる限り声を乱さないようにした。


 「怜奈。まだやり直せる。まず制御端末を渡してくれ」


 彼女は、ゆっくりとこちらを向いた。


 「どうやってやり直すの? あなたにもらった家に住んで、一千万円を使いながら、普通の人間みたいな顔で生きろっていうの?」


 「自分の仕事で、すでに生活しているだろう」


 「そんなものは生活じゃない」


 怜奈が立ち上がると、搬器が大きく揺れた。


 「私には家族がいない。帰る場所もない。この世界で、昔の九条怜奈を知っているのは、もうあなただけなの」


 彼女は俺の襟元をつかんだ。


 「私を置いていかないで」


 「置いていかない。まず下へ戻ろう。それから、落ち着いて話せばいい」


 怜奈は長いあいだ俺を見つめ、ふいに微笑んだ。


 「やっぱり変わっていないのね。危険なことが起きると、自分のことより先に、全員を生かす方法を考える」


 手を伸ばし、俺の頬へ触れた。


 「あなたみたいな人なら、これからもたくさんの人に好かれるでしょうね。水城さんも、そばにいてくれるんでしょう?」


 「今、話すことじゃない」


 「離婚届なら、市役所へ出してきたわ」


 俺は言葉を失った。


 「今日の午前中、御代原市役所で受理された。もう自由よ」


 「なら、なおさらこんなことをする必要はない」


 「あるの」


 怜奈は保守用扉のそばへ移動し、安全ロックへ指をかけた。


 「最後の一日だけ、私のそばにいてほしかった」


 遠くから、回転翼の音が聞こえた。


 俺が予定時刻を過ぎても研究区へ戻らず、連絡も取れないため、研究機構が警察へ通報したのだろう。警察は車両の通行記録とスマートフォンの最終位置情報から、営業停止中のリゾートを特定したらしい。


 救助ヘリが谷の反対側から近づき、拡声器で冷静に行動するよう呼びかけている。怜奈を刺激しないよう、俺は少しだけ体を前へずらした。


 「怜奈。おじい様は、お前が死ぬことなんて望んでいない」


 結婚したばかりの頃、二人きりのときにだけ使っていた柔らかな呼び方で、もう一度名前を呼んだ。


 その瞬間、怜奈の目から険しさが消えた。


 「時間を稼ぐために言っているのは分かっている」


 彼女が保守用扉を開く。山の冷たい風が、一気に搬器の中へ吹き込んだ。


 「それでも、うれしい。最後にもう一度、昔みたいに名前を呼んでくれたから」


 「扉を閉めろ」


 「修司は帰って」


 怜奈は扉の縁に立ち、こちらを振り返った。


 「幸せに生きて」


 俺は床を蹴って飛びついた。だが、足に絡んだロープに動きを止められる。


 指先が彼女の上着の袖へ触れた。次の瞬間、布は手の中から滑り落ちた。


 怜奈の姿が、深い谷へ消えた。



8



 救助隊員が搬器へ乗り移り、俺の手を縛っていたロープを切った。ヘリへ移されたあと、警察と山岳救助隊は、怜奈が落下した位置を中心に捜索を始めた。


 二日間、彼女は見つからなかった。


 谷には広大な原生林が広がり、斜面は急で、夜には激しい雨も降った。捜索範囲は何度も拡大されたが、衣服も所持品も、はっきりとした痕跡も発見されなかった。


 あの高さから落ちて、生存している可能性はほとんどない。それでも俺は、捜索を続けてほしいと求めた。


 何があったとしても、怜奈に死んでほしいと思ったことは一度もない。


 三日目、警察から、事件当日の午前中に御代原市役所が離婚届を受理していたと知らされた。証人欄には、かつて書類を準備した九条産業の元法務部長と元秘書室責任者が、双方の意思を確認したうえで署名していた。形式上の不備はなかった。


 俺たちは、もう夫婦ではなかった。


 花守町へ戻り、怜奈が残した物を整理した。押し入れの奥から、封筒が一通見つかった。表には「修司へ」とだけ書かれていた。


 修司へ


 この手紙を読んでいる頃、私はもういないと思います。


 二十年以上、九条家の令嬢として生きてきました。周りの人が私を優先するのは当然だと思っていました。何もかも失って初めて、私は普通の生活の仕方さえ知らない人間だったのだと気づきました。


 おじい様が亡くなってから、帰りを待ってくれる家族は一人もいません。昔の私を知っているのは、修司だけです。そして、私が一番ひどいことをした相手も、修司でした。


 許してほしいとは言いません。ロープウェイへ連れていったのは、最後に少しだけ一緒にいたかったからです。あの場所で何を言ったとしても、あなたを傷つけるつもりはなかったことだけは信じてください。


 離婚届は提出しました。これからは何の負担もなく、新しい人生を始められます。


 どうか、これからの人生が穏やかでありますように。


 怜奈


 警察は最終的に、怜奈を行方不明者として継続登録した。遺体が見つかっていないため、九条家の墓に正式な納骨を行うことはできなかった。


 俺は宗一郎の墓のそばに、小さな供養碑を建てた。怜奈が残していた髪留めを、碑の下に納めた箱へ入れる。


 別の世界があるのなら、彼女が、祖父に手を引かれて歩いていた頃の少女に戻れることを願った。まだ他人を肩書や家柄で測ることを知らなかった頃の怜奈に。


 すべての手続きを終えると、俺は白岳特別研究区へ戻った。


 装置が動く低い音、実験記録に並ぶ数字、繰り返せば同じ結果を示す検証。その確かなものだけが、落ち着かない心を少しずつ静めてくれた。


 七海は、谷で何があったのか詳しく聞かなかった。以前と同じ仕事の距離を保ち、俺が連日遅くまで残っていると、当直表を机へ置き、安全管理規程に従って研究室を出るよう注意した。


 俺たちは高密度蓄電材料の最終検証を終え、プロジェクトの中で公開が許可された基礎研究成果を共同で発表した。


 七海はもう、K博士を見上げるような態度を取らなかった。意見が違えば、研究グループ全員の前でも、俺の誤りをはっきり指摘した。


 二年が過ぎても、怜奈は見つからなかった。


 俺は花守町の供養碑に白い花を供え、その足で七海に会いに行った。


 「水城七海さん」


 七海は手にしていたコーヒーカップを置き、こちらを見た。


 「急にフルネームなんて、どうしたんですか?」


 「これから話すことが、正式なことだから」


 俺は指輪の箱を取り出した。


 「俺と結婚してくれないか」


 七海は数秒間動かなかった。やがて、その目がゆっくりと笑う。


 「今回は、手続きが終わるまで待たなくてもいいんですよね?」


 「ああ」


 彼女は俺の前へ左手を差し出した。


 「では、つけてください」


 一年後、俺たちには娘が生まれた。


 生まれたばかりの小さな手は、俺の指先をかろうじて握れるほどだった。病院の個室で、疲れながらも穏やかに笑う七海と、朝の光を受ける娘を見つめた。


 家とは、高価な屋敷のことではない。誰かに依存する代わりに与えられる身分でもない。


 互いを知ったあとでも、隣に残ることを選び続けられる場所なのだ。


 俺は娘の手を握った。


 あの瞬間ほど、自分がようやく本当の幸せを手に入れたのだと、確信したことはなかった。





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