表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

元同級生のマルチ商法の勧誘だと思ったら、まっとうなアドバイスをもらった件

作者: ダイノスケ
掲載日:2026/02/15

 おしゃれなカフェのドアを押し開けると、軽やかなベルの音が鳴った。

 からんころん、と場違いなくらい澄んだ音。


「いらっしゃいませ。何名様ですか?」


 柔らかな声。振り向くと、エプロン姿のウェイトレスがにこやかに立っている。


「あ……その、二名です。たぶん、もう一人は先に来てるはずで……」


 答えたのは、二十代半ばの青年。整っているとも言い難い髪型に、少し大きめのパーカー。視線は床に落ちたまま、相手の目をほとんど見ない。名は身時目。久しぶりの再会に、緊張が喉を締めつけている。


 そのとき。


「身時目くーん! こっちこっち!」


 店内の奥から、やけに通る爽やかな声が響いた。


 思わず顔を上げると、窓際の席で大きく手を振る男がいる。高身長、清潔感の塊のような笑顔、さりげなく高そうなジャケット。どこを切り取っても“成功者”という単語が似合う男――モテ杉。


「あ……モテ杉くん。久しぶり」


 小さく手を挙げて応える。


「ほんと久しぶりだね。高校卒業してから……七年ぶりくらい? 身時目くん、元気にしてた?」


 屈託のない笑顔でそう言われ、身時目は一瞬だけ言葉を失う。


 元気、というほど胸を張れる日々でもない。

 だが「元気じゃない」と即答できるほど正直でもない。


「まあ……なんとか」


 曖昧な返事をしながら席に着く。

 テーブルの上には、すでにモテ杉のカフェラテが置かれていた。フォームミルクのハートが、妙に整っている。


 七年。

 同じ教室で同じ黒板を見ていたはずの時間が、こんなにも差を生むのか。


 身時目は、無意識に自分の袖口を引き寄せた。


「モテ杉くんは、相変わらずかっこいいね」


 身時目は、カップの縁に視線を落としたまま言った。

 本心だった。だが同時に、自分と彼を並べたときの落差を確認する行為でもあった。


「そんなことないよ」


 モテ杉は軽く笑う。

 その瞬間、唇の隙間から整然と並んだ真っ白い歯がのぞいた。歯科医院のポスターに出てきそうな、非の打ち所のない清潔さ。笑顔ひとつで場の空気が少し明るくなる。


 身時目は、自分の前髪が少し伸びすぎていることを思い出した。


「身時目くんは今、どんな仕事してるの?」


 さらりとした問い。だが身時目の胸の奥に、小さな棘が刺さる。


「僕は……高校卒業してから、工場で働いてるよ。毎日同じ作業。ラインに立って、決まった部品をはめて、検品して。そんな感じ」


 説明しながら、なぜか言い訳をしている気分になる。


「モテ杉くんは?」


「僕? 東京大学を出て、いまは外資系の企業。コンサル寄りかな。もうすぐ彼女と結婚するんだ。休日はフットサルしてさ。仕事も忙しいし、毎日てんてこまいだよ」


 さらっと、とんでもない情報が並ぶ。


 東京大学。外資。結婚。フットサル。

 どの単語も、身時目の生活圏には存在しない。


 モテ杉は困ったように後頭部を掻いた。その仕草さえ様になる。

 テーブルの上に置かれたスマートフォンがふと目に入る。画面には、モデルと見紛うほど整った女性とのツーショット。海辺だろうか、夕焼けの光の中で二人が笑っている。


 身時目は、無意識に自分のスマホをポケットの奥に押し込んだ。


「モテ杉くん、サッカー部のキャプテンだったもんね。インターハイにも出たし。今でもやってるんだ」


「まあね。体動かしてないと落ち着かなくてさ」


「すごいね。……とっても充実してるね」


 その言葉は、祝福というより白旗に近かった。


 胸の奥がじわりと熱くなる。

 嫉妬でも怒りでもない。ただ、どうしようもなく惨めだった。

 同じ教室で同じ授業を受けていたはずなのに、七年でここまで差が開くのか。


 カフェのBGMがやけに軽快に聞こえる。


「今日は、どういう用事で僕を呼び出したの?」


 身時目はカップを持ち上げながら言った。


「学生時代、そんなに仲良かったわけでもないよね」


 言ってから、少し棘が混じったことに気づく。

 本音は「もう帰りたい」だった。

 これ以上、自分の劣等感を丁寧に並べられるのはきつい。


 だがモテ杉は気にした様子もなく、ふっと真顔になった。


「そうそう。今日はね、身時目くんに大事な話があって」


 背筋を伸ばし、両手をテーブルに置く。その姿勢は、先ほどまでの雑談とは明らかに違う。


「君は、今の給料に満足してる?」


 その瞬間。


 あ、やばい。


 身時目の背中に冷たい汗が流れた。


 この空気。

 この場所。

 この切り出し方。


 脳裏に「セミナー」「成功者」「自由な人生」という単語が浮かぶ。


(やっぱり来なきゃよかった)


「僕、このあと用事が——」


 逃げ道を作ろうとした言葉は、喉の奥で止まった。ここで神経を逆撫でしたら何をされるかわからない。


「……満足はしてないよ」


 結局、身時目は正直に言った。


「給料低いし。恋愛市場とか婚活市場とか、そんな場所に参入できる感じもしないし。けどさ、僕には特別なスキルもないし。君とは違うんだよ」


 自嘲が混ざる。

 自分で自分を切り下げることで、これ以上傷つかないようにする防御。


 モテ杉は、その言葉を遮らずに最後まで聞いた。


 そして、ゆっくりと息を吐く。


「君に、人生を変える。特別な方法を紹介しようと思って、今日は呼んだんだ」


 カフェの外を、午後の光が斜めに差し込む。


 身時目の心臓が、どくりと鳴った。


 モテ杉は、コーヒーカップを両手で包み込みながら、ゆっくりと口を開いた。湯気が彼の整った横顔をかすめ、柔らかな光がその輪郭を縁取る。


「それはね――食事、睡眠、運動、読書、そして夢中になれる趣味を見つけて副業にすることだよ」


 あまりにも穏やかで、あまりにも地に足のついた答えだった。


「え、そんなこと?」


 身時目は思わず聞き返す。拍子抜け、という言葉がこれほど似合う瞬間もない。胸の奥で身構えていた疑念が、行き場をなくして宙ぶらりんになる。


 どうかした? とでも言いたげに、モテ杉は首をかしげた。きょとんとしたその表情は、計算高さとは無縁に見える。


「僕、てっきり怪しいツボを売りつけられたり、マルチ商法に勧誘されたりするのかと……」


 一瞬の沈黙のあと、モテ杉は小さく吹き出した。


「マルチ商法をやるやつなんて馬鹿だよ。あんなのでお金持ちになれるはずがないじゃん」


 言い切る声は静かだが、妙な説得力があった。


「“誰でも簡単、毎月副業十万円”とかは?」


「ナイナイ。もし本当に“誰でも簡単”に稼げるなら、わざわざ第三者に教えないよ。広告費まで払って広めるなんて、聖人かバカか詐欺師のどれかだ」


 軽く息を吐き、モテ杉はカップをソーサーに戻す。カチャリという乾いた音が、やけに現実的に響いた。


「世の中は理不尽で不条理だよ。受け身で生きていても、誰かが勝手に腹筋を割ってくれるわけじゃないし、脳みそを鍛えてくれるわけでもない。悲しいけど、今の現在地はこれまでの行動の積み重ねなんだ」


 言葉は淡々としている。慰めも、媚びもない。


「だからまずは食事、睡眠、運動。自分の体を整えること。それが土台だよ」


 身時目は眉をひそめた。


「そんな当たり前のことが、人生を変える方法なの?」


 モテ杉は静かに問い返す。


「じゃあ、その当たり前を毎日続けてる?」


 胸の奥に、ちくりと針が刺さる。


「……してないよ」


「でしょ。大きな成果って、小さな習慣の積み重ねなんだ。当たり前に効果があることを、当たり前に続ける。それだけで差は開く」


 身時目は唇を噛む。


「でもさ、お金持ちだけが知ってる特別な情報を手に入れたら、一足飛びで勝ち組になれるとか……そういうの、ないの?」


「抜け道なんてないよ。楽して大きな成果が手に入るなら、世界はとっくに崩壊してる。努力せずに報われたいって願う人が、現実から目を逸らしてるだけだ」


 その言葉は冷たい。しかし、不思議と残酷ではなかった。


「じゃあ、“絶対当たる株五選”とか紹介してる人は? 僕、それ信じて買ったんだけど」


 モテ杉は、ほんの少しだけ目を細めた。


「未来が見えるなら、広告収益なんて小銭いらないでしょ。自分で株を回して稼ぐよ。少人数の貧乏人のなけなしのお金を狙ってる時点で、怪しいと思うべきだ」


 図星だった。胸の奥に、苦い液体が広がる。


「簡単に成果が出ないなら、僕は一生追いつけないじゃないか。理不尽だ」


「何も努力してない人が、一晩で努力家と同じ成果を出せる世界のほうが、よっぽど理不尽だよ。世界は、努力した人から順番に報われる。ある意味、平等なんだ」


 身時目は拳を握りしめた。


「でも僕は……実家が貧乏で、いじめられて、毒親のもとで育って、才能もない。宝くじで一発逆転しかないじゃないか!」


「運に人生を預ける限り、変わらないよ。最後まで責任を取るのは自分だ。社会は僕たちのお母さんじゃない」


「うるさい!」


 気づけば、手がテーブルを叩いていた。ガシャン、と乾いた衝撃音が店内に響く。周囲の視線が突き刺さる。ざわめきが、波紋のように広がる。


「恵まれたお前にはわからない!」


 息が荒い。喉が焼ける。


 だがモテ杉は、静かに言った。


「しかも、自分が不幸だったからって、誰かを不幸にしていい理由にはならない」


「……!」


「身時目くんは、僕のことをどれだけ知ってる?」


 唐突な問いだった。


「プロフィール、言ってみて」


「え……イケメンで、背が高くて、勉強できて、性格よくて……」


「それだけ?」


「……うん」


 モテ杉はスマートフォンを差し出した。画面に映るのは、丸々と太った少年の写真。頬がはち切れそうで、目は自信なさげに伏せられている。


「僕、両親いないよ。施設育ち。返さなくていい奨学金で大学に行った。これは十歳の時の写真」


 よく見れば、面影がある。あの整った顔立ちの原型が、そこに確かにあった。


「嘘だろ……」


「君は“誰もわからない”って言った。でも、君は他人をどれだけ見てる?」


 言葉が、静かに胸に沈む。


 身時目は、自分がどれほど自分のことだけで頭がいっぱいだったかを思い知る。自分は不幸だ、だから救われて当然だ――そんな甘えが、いつの間にか居座っていた。


「居場所が欲しいなら、まずは誰かの居場所になってあげればいい」


 そう言って、モテ杉は微笑んだ。その笑みは、勝者の余裕ではなく、同じ泥を踏んできた者の静かな強さだった。


 身時目は椅子に深く座り直す。


「……最初に言ってた、食事と睡眠と運動の話。続きを聞かせて」



 もう帰る理由は、どこにもなかった。


 さっきまで逃げ道を探していた視線は、今はテーブルの木目を静かに追っている。カフェの照明が柔らかく落ち、夕方の光が窓越しに斜めに差し込んでいた。店内のざわめきは元通りに戻っている。だが、身時目の中では何かが確実に動き始めていた。


 モテ杉は指先でカップの縁をなぞりながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「僕たちはさ、日々が忙しいと、どうしても食事や睡眠や運動をおろそかにしがちだよね」


 穏やかな声。責める響きはない。


「でもそれって、燃料なしで車を走らせるようなものなんだ。いつか必ずガス欠する」


 身時目は、自分のここ数日の生活を思い出す。コンビニ弁当、深夜二時までの動画視聴、朝はギリギリに起きてコーヒーだけ流し込む。休日は昼過ぎまで寝て、夜更かしして、また月曜が来る。


「貧乏暇なし、とか、貧すれば鈍するって言うでしょ」


 モテ杉は続ける。


「生活が逼迫すると、明日を生きることで精一杯になる。そうなると、人生を長期で考えられなくなる。だから“短期間で一発逆転”を狙いたくなる」


「……うぐっ」


 心当たりがありすぎて、喉が詰まる。


 宝くじの売り場で立ち止まった夜。

 “絶対当たる株”の動画に吸い寄せられた日。

 あれは希望ではなく、焦燥だったのかもしれない。


「人生を変えるには、スキルや経験、とにかく自分を鍛えることが重要なんだ」


 モテ杉の声は、少しだけ強くなる。


「ブランド品に頼るとか、親のスネをかじるとか、パートナーの収入に期待するとか、会社の終身雇用を信じるとか。第三者に依存しても、その第三者はいつでも自分を切り捨てられる。だから不安は消えないし、自信も持てない」


 言葉が、静かに胸を刺す。


「けど……そんなスキルや経験を学ぶ時間なんてないよ」


 反射的に出た言葉だった。


 モテ杉は一拍置き、さらりと言う。


「スマホのスクリーンタイム、見せて」


「え、それってどうやって見るの?」


 機械に弱い自分が恥ずかしい。

 身時目はスマートフォンを差し出した。


 モテ杉は慣れた手つきで画面を操作する。数秒後、数字が表示された。


「平日でも、毎日四時間は触ってるよ。ほとんどがYouTubeとソシャゲ」


 その数字は、残酷なほど明確だった。


「ほら。時間、あるじゃないか」


 身時目は思わず顔をしかめる。


「でも……ゲームしないと、ストレス発散できないよ」


 仕事終わりの虚無感。

 誰とも話さない夜。

 画面の中だけが、確実に報酬をくれる世界だった。


「目先の“楽”を追い求めると、人生全体が“楽”とは程遠くなる」


 モテ杉は少し笑った。


「夏休みの宿題を八月末まで放置した時みたいな人生になるよ」


 その例えに、身時目の脳裏に小学生の自分がよみがえる。焦り、汗、夜更かし、後悔。


「そんなぁ……」


「人生の困難は、序盤で立ち向かった方がリターンが大きい。十代で失敗したら、その後七十年挽回できる。五十代で失敗したら、猶予は短い」


 窓の外では、学生らしき若者たちが笑いながら歩いていく。

 自分はもう十代ではない。だが、まだ五十代でもない。


「確かに……でも、筋トレとか読書とか、モチベーション湧かないよ」


 正直な本音だった。


 モテ杉は即答する。


「だから、まず寝るんだ。そして健康にいいものを食べる」


「え?」


「気力や体力が落ちてると、自制心も落ちる。追い込まれてると、人は目先の快楽に流されやすい。逆なんだよ。やる気があるから行動するんじゃない。体調を整えるから、やる気が生まれる」


 身時目の胸の奥で、何かがカチリと音を立てる。


「だから……僕は惰性だとわかってても、スマホを触り続けてたのか」


 不安が、ゆっくりと言語化される。


 モテ杉はうなずく。


「意志が弱いんじゃない。疲れてるんだ」


 その一言は、救いのようでもあり、言い訳を許さない宣告のようでもあった。


 身時目は椅子に沈み込む。


「でもさ……毎日激しい筋トレとか、ジム通いとか……そんな未来、想像できないよ」


 未来の自分は、いつもぼやけている。


 モテ杉は静かに微笑む。


「誰もいきなり“別人”になれなんて言ってないよ」


 カップの底に残ったコーヒーを一口飲み、続ける。


「腕立て伏せ一回。スクワット五回。寝る前にスマホを十五分早く置く。それだけでいい。小さすぎて笑えるくらいでいい」


 夕暮れの光が、二人の間に長い影を落とす。


「未来はね、“今日の一ミリ”でできてるんだ」


 身時目は、自分の両手を見る。

 特別でも、才能に満ちてもいない手。

 だが、何かを積み上げることはできる手だ。


 胸の奥に、ほんのわずかな熱が灯る。


 それは一発逆転の炎ではない。

 消えそうで、けれど確かに存在する、小さな火種だった。


モテ杉は笑いを含んだ声で首を振った。カフェの柔らかな空気に、彼の言葉だけがやけに鋭く響く。


「いきなり大谷翔平と同じトレーニングをしたって、潰れるのは目に見えてるよ。違うんだよ。今、自分が“ギリギリできるかできないか”のところに挑戦することが重要なんだ。最初は五分の散歩でも、スクワット十回でもいい。それを継続することが大事なんだよ」


身時目は眉を寄せ、口の端が震えた。そんな小さなことが、積み重なって何かを変える――頭では分かっているはずなのに、体のどこかが逆らう。


「でもさ、職場の付き合いでギャンブルだのタバコだの飲み会だの、行かなきゃいけないんだよ」


モテ杉は瞬きもせずに、淡々と返す。声には毒はないが、理屈が冷たく鋭い。


「その人のアドバイスに忠実に従ったら、その人みたいになるよ」


身時目はむっとして顔をしかめる。「職場の上司たちは、価値観を押し付けてきて嫌いだ。あの人たちみたいになりたくない」――言葉にするほど、胸の奥の苛立ちがざわつく。


モテ杉はじっと身時目を見つめ、少しだけ皮肉を混ぜて言った。「身時目くんも、僕と同じサッカー部だったよね? サッカーが上手くなりたかったら、何をした?」


身時目は考え込むように視線を泳がせた後、ぽつりと答える。「自分より上手い人に教わったり、プロの解説動画を見たり、いっぱい練習したり……」


「でしょ」モテ杉は満足そうに頷く。「貧乏からお金持ちになった人たちも同じなんだ。毎日最低七時間は寝て、日々三十分は運動と読書の時間を確保する。要するに、やってることは地味だ。だから“どうしてお金持ちの行動や思考や習慣を真似しないんだろうね?”って話になる」


身時目の声が小さく漏れる。「た、確かに……」


モテ杉はテーブルに肘をつき、笑顔を崩さずに続ける。「お金持ちも貧乏人も、与えられた時間は24時間で同じだ。問題は優先順位。重要なことを順位づけしないまま、どうでもいいことで一日が終わるんだよ」


「じゃあ、食事・睡眠・運動を改善したら、次は何をすればいいの?」身時目の質問に、モテ杉は目を細めると、ページをめくるように説明を始めた。


「まずはインプットだ。本を読む。異文化に触れる。狭い世界だけで生きていると、見えてるものが世界のすべてだと勘違いする。そうすると解決策が見えなくなる。視野を広げれば、選択肢が増える」


窓外を行き交う人波が、二人の声を遮る。モテ杉は続ける。「逆に、能力があっても努力を怠れば、誰だって井の中の蛙になる。だから常に“学ぶ”姿勢が必要なんだ」


身時目が眉をひそめる。「でも、副業とかってどうなの? 爆速で稼げる副業とか、おじさんのSNSリポストで金が回るってのはダメなのか?」


モテ杉の表情が曇る。カップの縁に指を立て、きっぱりと言い切った。「簡単に稼げると思ってる人たちとつながるだけになるよ。『類は友を呼ぶ』って言うだろ? “お金配りおじさん”には彼らなりのメリットがある。楽して金が入ると本気で信じている情報弱者を囲って、回す。結局、自分の成長につながらない」


身時目は俯き、言い訳を探すように呟く。「でも、不安なんだよ。いきなり稼げるわけじゃないし、僕は最初どうすれば……」


「当たり前だよ」モテ杉は軽く肩をすくめる。「義務教育でお金の稼ぎ方なんて教えない。僕らは小学校一年生みたいなもんだ。お金は信用や社会への貢献の対価だ。つまり、誰かを喜ばせたり役に立ったりしない限り、いきなり金が舞い込むことはない。マルチみたいな“実利と不釣り合いな商品”を売って一時的に儲けても、それは富を生まない。恨みを生むだけだ」


身時目の顔に、怒りと戸惑いが交差する。「でも、イーロン・マスクみたいに最初から社会に役立つことをやった人が金持ちになったんだよね?」


「そういうことだ」モテ杉は肯いた。「社会に価値を与えたからこそ大きく報われる。だからお金目的だけで副業を片っ端からやるのは続かない。モチベーションが続かないから失敗するんだ」


「じゃあ、趣味を副業にするっていうのは?」身時目の目が少しだけ光る。ここが核心だ。


モテ杉の声が、急に柔らかくなる。「好きでやれることから始めるんだ。金にならなくても好きだから続けられるでしょ? そうやってスキルが磨かれる。スキルがあれば、誰かを助けられる。助けた結果、信用が生まれて、巡り巡ってお金がついてくる。しかも“好き”で続けてきた時間は、苦にならないから耐えられる」


カフェの時計が静かに時を刻む。身時目は拳を開き、ゆっくりと息を吐いた。心の中にあった言い訳や諦念が、少しずつほぐれていくのがわかる。モテ杉の言葉は甘い蠱惑ではなく、現実的で冷たいが、確かな道筋を示していた。


「まずは五分の散歩からだ」とモテ杉は締めくくる。声は相変わらず優しいが、命令のような確信があった。


身時目は苦笑いを浮かべ、膝を伸ばした。帰る理由が消えた今、代わりに小さな“やらねばならないこと”がぽつりと立っていた。




 身時目が眉間にしわを寄せる。声には、これまで何度も繰り返してきた言い訳と、まだ消えない希望のどちらも混じっていた。


「けど、大半の大人たちはさ、『好きなことで生きていけるほど世の中甘くない』って言うよね」


 モテ杉は、カップに残ったコーヒーの縁をそっと指でなぞりながら、まるで子供の質問に答える教師のように、しかし冷静さを崩さずに応えた。


「その人たちは、自分が『好きなこと』と真剣に向き合ったことがないだけだよ。お金が稼げるまで、好きなことを継続しなかった人間が、自分の人生を正当化するために言い訳してるだけ。好きじゃないことを嫌々やらされて成功するほど、社会は甘くない。昔、本田圭佑も言ってたよね。『好きなことなら必ずそれで食っていけるようになる。食っていけないなら、対して好きじゃない』ってさ」


 身時目の顔に、ぽつりと赤みが差した。口元が震える。ゲームの話になると、目の奥に子供のような輝きが戻るのが自分でもわかる。


「確かに僕は仕事が全然好きじゃないから、全然仕事もできないし、改善する気も湧かない。ゲームだけはすごく好きで、何度でも試せるのに」


 モテ杉は小さく笑い、テーブルに肘をついた。笑顔は柔らかいが言葉は手堅い。


「だから趣味が大事なんだ。趣味って能動的に動くから、好奇心のフィードバックループが働く。学習能力が勝手に上がるんだよ。好きでもないことは、興味が湧かないからただ流れに身を任せるだけ。努力に見える行為も、好きなことなら苦にならず続けられる。イチローが言ってたように、『努力と思ってるうちは、好きな奴には勝てない』ってね。感情の力って、案外デカいんだよ」


 身時目は黙って頷く。だがすぐに眉を寄せて、言葉を返す。


「で、でもさ。僕がゲーム好きでも、ゲームするだけで生活できないのはなぜ? ただ遊んでるだけじゃん」


 モテ杉は軽くため息をつき、テーブルの上に置かれた小さなナプキンにペンで丸を描くように指を動かした。


「簡単だ。君がゲームしてる『様子』をアウトプットしてないからだ。社会に富を生み出していない。お金を稼ぐ方法は大きく二つに分かれる。時間を切り売りするか、自分にしかできない価値を提供するか。ほとんどの人は“自分にしかできない仕事”なんて最初から持ってない。だから、選ぶべきは『自分の好きなことを、どうやって誰かの役に立てるか』って視点だよ」


 身時目の指先が、カップの取っ手をぎゅっと掴む。湯気が指先を冷たくする。


「特別な仕事って言うけどさ……学校って、才能を潰して苦手を均一化する工場みたいなもんだよね。平均的なスペックを作るんだ。平均点だと、『嫌ならやめろ、君の代わりはいくらでもいる』と叩きつけられる」


 モテ杉は頷き、言葉を重ねる。


「それでいいと思ってる人もいる。でも、君が今の生活を変えたいなら、希少性を高めるしかない。全員が特別なんてことはあり得ないけど、君が『行動する少数』に入ればいい。大半は行動しないんだから」


 身時目の表情が緩む。誰かが、自分の内側にある小さな怠惰を、あからさまに指摘してくれることが、どこか痛快でもあった。


「例えばだよ、君が家でゲームしてるだけなら確かに誰にも感動は与えない。でも、プロゲーマーになる、攻略法をまとめる、実況プレイを配信する、ゲームの解説を読む人向けに記事を書く――どれでもいい。『画面の向こうの誰か』を笑わせたり驚かせたりできれば、君のファンは増える。視聴数が増えれば広告収益が入るかもしれないし、スポンサーがつくかもしれない。いきなり大金が入らなくても、積み重ねで仕事になる」


 カフェの窓には夕暮れが映り、通行人のシルエットが長く伸びていた。身時目は目を細め、まるで自分がモニターの前に座って実況する姿を遠くから覗いているように想像した。胸のどこかで、ひとつの問いが小さく芽吹く。


「でもさ、趣味から始めるって、最初は全然お金にならないんじゃない? どうやって続ければいいの?」


 モテ杉は手元のナプキンに小さなチェックリストを走り書きしながら言う。


「まずはアウトプットの習慣化。日記でも、短い動画でもいい。週に一回、10分でいいから自分のプレイを録ってアップする。技術解説を書くだけでもいい。次に小さな目標を設定する。フォロワー百人、再生数千回。達成したら次の目標。三つ目は、コミュニティに入ること。似たことをしてる人に混じれば、学びも紹介も得られる。つまり、好きで続けられることを『誰かのために』変換するスキルを身につけるんだ」


 身時目の手の震えが、ほんの少しだけ収まった。彼の唇の端に、小さな微笑みがこぼれる。希望というには薄く、まだ頼りない火種だが、確かに暖かさを含んでいる。


 モテ杉は最後に、いつもの淡い笑いを漏らすように付け加えた。


「好きであることは才能だ。だが、その才能を“見せる”か“隠す”かで、人生は変わる。君がずっと誰にも見せないままだったら、才能はただの趣味のまま終わる。見せた者だけが、いつかそれで食っていける可能性を掴むんだよ」


 カフェの時計が一秒を刻む。身時目はゆっくりと息を吸い、そして吐いた。外の冷たい空気が、窓ガラスを叩く。彼の胸の中にあった躊躇いは、まだ大きいが、その場で消えることはないだろうと、彼自身が感じていた。


モテ杉の言葉に、身時目の決意は一瞬で膨らんだ。胸の中で何かが「今だ」と叫んだのがわかった。だから彼は、つい勢いで口に出してしまった。


「じゃあ僕、今の仕事を辞めてYouTubeを目指すよ!」


モテ杉はコーヒーの縁に指を当てたまま、じっと身時目を見た。目はやさしいが、そこに無責任さはない。


「それはやめたほうがいいよ」


一語一句が氷水のように冷たい。身時目は一瞬しゅんとする。


「どうして? モテ杉くんは副業しろと言ったり、仕事辞めるなと言ったり、一体何が言いたいんだよ!」


身時目の言い分は、怒りにも似た早口に変わった。期待と焦燥が混ざり合っている。


モテ杉は肩をすくめて、説明を始める。冷静で、余裕がある。説教ではなく計画だ。


「本業の傍らで副業を続けるんだ。転職活動を並行してもいい。いきなりメインの収入を失うと、生活のためにやりたくないことをやる羽目になる。正社員の仕事を見つけ直すのも時間がかかる。そうすると、せっかくのゲーム実況する時間もなくなるでしょ?」


身時目は「あ、確かに」と小さく俯いた。理屈は通っている。だが内側の反抗心はすぐには消えない。


「だから日頃から、趣味に没頭する時間を確保するために健康管理やトークスキル、物事を言語化する力、思考力を養う。勉強して本を読む。体力と知識と表現力を鍛えるんだ。それがないと、副業は長続きしない」


二人の会話はだんだん落ち着きを取り戻し、カフェの空気はいつもの静謐へと戻る。湯気、スプーンの小さな金属音、人々の遠い話し声。時計の針だけが確かに進んでいた。


身時目は、素朴な疑問を口にした。「なんで僕になんか、こんな話をしてくれるの? モテ杉くん、忙しいんでしょ? それに僕とはそんなに親しくもなかったじゃないか」


モテ杉は伝票に軽く指を当て、どこか昔のことを思い出すような目をした。


「君の苗字、身時目。惨めの“みじめ”って字が見える気がしてたんだ」


身時目は咄嗟に顔を赤らめた。「え、まだだけど」


「でも、君は惨めじゃない。誰より真面目で、いつも下を向いたまま真摯にやる。学生時代、君は植物に水をやったり、部室の掃除を率先したり、朝早く来て自主練をしていた。そういうの、俺は見てた。誠実に取り組む姿勢は、簡単に真似できない。しかも君は、俺と似たような境遇を背負ってる。だから放っておけなかったんだ。大丈夫、君は変われる。俺だって、買われたように楽してここまで来たわけじゃない」


彼は伝票をつまんで立ち上がる。動作は無駄がなく静かで、どこか儀式めいていた。


「じゃあ、俺は用事があるから行くよ」


モテ杉が席を立つと、身時目の胸になにか温かいものが広がった。言葉ではない“恩”のようなものだ。ふたりは店の出口まで少し会話を交わし、別々の方角へ歩き出す。


「またね。僕、モテ杉くんに追いつけるようになるよ。今日教えてくれたことは必ず返すから」


身時目は足取りがいつもより確かに軽く、前を向いて歩いた。夕暮れが道をオレンジに染め、街の空気がやわらかくなっている。希望はまだ小さく、燃え広がる様子もないが、確かに熱があった。


「あ、」


身時目は立ち止まり、振り返る。人混みに紛れて、モテ杉の輪郭はもう見えなくなっていた。じっと立ちつく間、彼は自分の胸に手を当てる。心拍が静かに落ち着く。


そのとき、どこかで聞いたような軽い独り言が、風に混ざって耳に入る。

モテ杉の背中は遠ざかるが、その口元が最後に言った言葉だけは、はっきりと脳裏に残った。


「モテ杉くんに宗教と新聞と保険の勧誘するの忘れてた」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ