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第三章 顔のない人間

「じゃあ、脚本は誰がやる? 経験ある人……」

 ざわつく教室に、誰かの声が響いた。一瞬にして静かになった教室で、空気読みが始まる。

 ――誰か、手上げるかな。

 宮原えみは、ペンを見つめるふりをしながら、他の生徒同様周囲の様子を窺っていた。

 演劇は嫌いじゃない。観るのはむしろ好きだった。とくに、中村希望の演技には、前から興味があった。

 彼女の演技は「まるで本物みたい」とよく言われていて、感情がじわっと染み込んでくるような不思議な存在感があるらしい。演じているのに、演じていないように見える――そんな演技が、本当にあるのなら、一度ちゃんと自分の目で見てみたかった。

「大塚、読書好きだし向いてるんじゃない?」

 誰かの声が飛んだ瞬間、空気がふわりと動いた。教室がざわつき、前の方の席で大塚があわてて手を振るのが見えた。

「本、好きなんでしょ? だったら物語作るの得意そうじゃん!」

 冗談のような、でも否定しにくいテンション。教室全体が、それに乗っていく気配。やがて、大塚が小さな声で言った。

「……わかった。やってみるよ」

 その瞬間、教室全体が安堵したように和んだ。

 ――すごい……引き受けるんだ。

 その声は、自信に満ちていたわけじゃない。むしろ戸惑いと不安がにじんでいた。けれど、その場に流れる空気を壊すことなく、静かに受け止めた彼の姿勢が、宮原にはまぶしく見えた。

「じゃあ次、美術班を決めよう」

 クラス委員が声を上げると、教室がまたざわつく。

「背景とか大道具とかってこと?」「描ける人いたっけ?」

 そんな断片的な言葉が、あちこちで飛び交った。

「宮原さんって、美術部だったよね?」

 教室のどこかから放たれたその声に、宮原の時間がふっと止まる。

 顔を上げると、視線が自分に集まっているのがわかった。温度が一気に上がったような感覚。汗ばんだ手のひらが、机の下でじっとしていられない。

「え、私……?」

 かすれた声が口から漏れた。自分でも驚くほど頼りない響きだった。

 視線は優しかった。責めるようなものや、押し付けるようなものではなかった。けれど、視線が注がれるという事実だけで、胸の奥がざわざわと波立った。

「じゃあ、美術班お願いしていい?」

 逃げ道のない問いかけが重なっていく。

「えっと……うん。わかった」

 口元がひきつる。けれど、なんとか笑ってみせた。

 教室にはまた安堵したような空気が広がり、和らいでいった。

 ――なんで、断れないんだろう。

 大塚も、あのとき同じ気持ちだったのだろうか。ふと、そんなことを思った。

 その後おおまかな役割が決まり、解散した教室にはまだ数人のクラスメイトが残って雑談をしていた。

 宮原は、自分の席でスケッチブックを開いたまま、ぼんやりとその光景を眺めていた。

 そのとき、不意に声がかかった。

「宮原さん、お疲れ様。お互い押し付けられちゃったね」

 顔を上げると、大塚が近くに立っていた。彼もまた、自分と同じように、目立たない存在だった。だからこそ、その距離感が心地よかったのかもしれない。

 大塚の言葉に、宮原は思わず苦笑してしまう。

「ねえ、宮原さん。文化祭の演劇って、前の年の資料とか……どっかにあったりするのかな」

 不意に投げかけられたその質問には、不安の色が滲んでいた。

 宮原は一度視線を落とし、記憶を巡らせる。それから、あることを思い出して口を開く。

「たしか、図書室に、過去の文化祭の資料があるって聞いたことがあるよ」

 それは以前、美術部で展示の参考資料を探していたとき、生徒会長の笹田から教えてもらったことだった。

 

 翌日から背景作りが、本格的に始まった。

 黒板の横に立てかけられた、大きなベニヤ板。そこにはまだ何も描かれていない木材の肌が広がっていた。物語の舞台は“森”。枝を広げる木々、差し込む光、茂みに隠れる影──それらすべてを、絵筆で描いていく。

 教室の隅に絵具や筆、パレットが並び、新聞紙が床に敷かれると、どこか“制作の場”という空気が漂いはじめた。美術班に割り当てられたクラスメイトが数人、輪になって下描きの確認をしていた。

 宮原は、膝をつきながら細い鉛筆で下絵をなぞっていた。筆圧を強めすぎないように注意しながら、枝の線を引き、葉の輪郭を足していく。

「宮原さん、やっぱり上手いね」

 隣に座っていた女子が、声をかけてきた。何気ないトーン。悪意も、裏もない。ただの素直な感想なのだと分かる。

「……ありがとう」

 それでも、声に出すときには喉の奥が詰まりそうになった。うまく笑ったつもりだったが、口元が引きつっていたかもしれない。

 胸の奥に、ゆるく鈍い波のようなものが立ち上がる。

 ――大丈夫だよね。似てる絵とかないよね。

 ペン先がわずかに止まる。

 中学の頃の記憶が、頭をよぎった。

 あのときも、自分の気持ちに素直になって、ただ描きたかった絵を描いただけだった。夕方の公園、ベンチの背後に沈む夕陽。温かい色を重ねて、柔らかく光を表現しようとした。けれど、出来上がった絵は、偶然にもある有名な画集の一枚に似ていた。

『これ、パクリじゃん』

 そう言ったのは、同じ美術部の女子だった。明るくて、友達が多くて、先生からの信頼も厚い。彼女が言えば、白も黒になった。

 コンクールに出す予定だった作品は、彼女の一言で出品を見送られ、代わりにその子の絵が選ばれた。

 事情を知らない人たちは、噂だけを信じた。「盗作したらしいよ」「あれ、真似だったんだって」。教室のあちこちでささやかれた言葉が、名前の代わりに背中に貼り付けられた。

 絵が好きな気持ちは、ずっと変わらない。

 でも誰かの目に触れるたび、あの時の感覚が蘇る。色を塗るたび、声をかけられるたび、誰かの言葉に自分が上塗りされていくような──そんな、塗り潰されるような息苦しさ。

「先に帰るね」

 声がして顔を上げると、鞄を肩にかけた美術班の子が手を振っていた。時計を見ると、ずいぶんと時間が過ぎていた。教室に残っているのは、もう数人だけだった。

「うん、おつかれさま」

 軽く笑って見送ると、静かになった教室に自分の呼吸だけが戻ってくる。

 西日が窓から射し込み、ベニヤ板に斜めの影を作っていた。朱色の光が教室の床を伸びていく。

 宮原は、絵全体を見渡した。

 そして、筆を取ると、背景の片隅、木々の影の中にそっと描き足した。

 葉の間に埋もれるようにして、人の形をしたシルエット。

 目も、口も、鼻もない。

 ただ輪郭だけが、そこに立っていた。

 顔のない人間。

 見つからないように、でも、誰かに見つけてもらえるかもしれないという、淡い期待だけがこもっていた。

 きっと、それは今の自分だった。

 

 

 数日後、放課後の教室は、まるで小さな劇場のようになっていた。机と椅子が端に寄せられ、黒板前には即席のステージが作られ、照明の代わりに西日の光が差し込んでいた。背景画はまだ未完成だったが、読み合わせは本格的に始まっていた。

 その空気を、宮原は教室の隅から静かに見つめていた。

「……ねぇ、私の気持ちなんて、誰も興味ないの?」

 台詞を読み上げる中村の声には、息遣いのひとつまでが演技に組み込まれているようだった。教室の空気すら、彼女の言葉に合わせてわずかに震えるように感じた。

「すげえ……」「やっぱ、中村がやると違うなぁ」「安心して見てられるねー」

 そんな声があちこちで囁かれるのを、宮原は膝の上で組んだ手に視線を落としながら聞いていた。

 やがて通しが終わるが、最後のシーンは無かった。どうやら、まだ脚本が完成していないらしい。教室の空気がふっと緩んだ、そのときだった。

「きゃっ……!」

 鋭い悲鳴が、教室を裂いた。

 宮原は思わず顔を上げた。教室の端に立てかけてあった大道具が、ゆっくりと、しかし確実に傾いていくのが見えた。

 ドン、と重く低い音が床を鳴らし、紙の装飾が空中に舞った。

「危ないっ!」

 背景のパネルの角が床に突き刺さり、すぐそばにいた中村をかすめた。

「中村さん!」

 澤田の叫び声が響く。宮原は、手にしていたガムテープを強く握ったまま、ただ立ち尽くしていた。

「大丈夫? どこも怪我してない?」

 澤田の声には、聞いたことのないほどの緊張が滲んでいた。

「大丈夫です! 当たってませんから」

 中村の声は明るく、気丈だった。その瞬間、ざわめいていた教室の空気がわずかに緩んだ。けれど、澤田だけはなお、張り詰めた表情のままだった。

「ごめん、土台が甘かったみたいで……」

 背景係の男子が駆け寄って謝る。その声を遮るように、澤田の声が教室に落ちた。

「何をやっているんですか」

 凍りつくような沈黙。

「安全確認は何度も言いましたよね? 万が一、中村さんに当たっていたらどうするつもりだったんですか」

 その言葉は冷静に選ばれていたが、語尾には鋭い緊張が宿っていた。普段は穏やかな澤田の声が、まるで教室を切り裂く刃のようだった。

 宮原の背筋を、ぞわりとした寒気が這い上がった。

 ──なぜ、こんなに怖いんだろう。

 誰かが怒られているだけなのに、自分の心まで凍ってしまう。

 そのあとの作業は中断され、片付けと安全確認の作業に移った。宮原は黙々と、倒れた大道具の確認に加わった。パネルの端が少し欠けただけで、大きな損傷はなかった。けれど、手が震えていたのは気のせいではなかった。



「じゃあ、宮原さん。私塾あるから先帰るね」

「うん。お疲れ様」

 教室が静まり返る頃には、夕日が窓の向こうに沈みかけていた。

 ベニヤ板に描かれた森の風景。その奥、木々の影に紛れるように、宮原が密かに描いた“顔のない人間”のシルエットがあった。

 誰にも気づかれないように、そっと、淡く。

 宮原が視線を落としかけたとき、誰かの足音が近づいてきた。

 反射的に身を引き、教室を出る。階段の影に身を隠し、誰が来たのかをそっと覗くと、中村の姿が見えた。

 ──なにしてるんだろう。

 その好奇心が、宮原の足をもう一度教室へと向かわせた。そっと扉の隙間から中を覗く。

 中村は台本を手に、黒板横の背景画の前で立ち止まっていた。

 そして、静かに、ぽつりと呟いた。

「……この絵、私だ」

 宮原の心臓が跳ねた。

 彼女の視線の先には、たしかに“顔のない人間”がいた。

 自分しか知らないはずの絵。自分以外の誰かに重ねられるなんて、思ってもみなかった。

 でも、なぜだろう。怖くなかった。むしろ、ほんの少しだけ、温かかった。

 宮原は、誰にも見つからないようにその場を離れた。

 その夜。

 宮原は机に向かい、スケッチブックを開いた。あの“顔のない人間”を、何度も描き直した。

 線が重なるたびに、少しずつ何かが変わっていく。

 ふと、目を描こうとして、手が止まった。

 目を持たせた瞬間、きっとこの人は“誰か”になってしまう。

 それは、なんだか怖かった。

 静かに、輪郭だけが残されたままの人影。

 それでもその絵は、確かにそこに“いた”。

 

 

 文化祭本番を前にした数日間、教室の空気はどこか張り詰めていた。

 演者たちは台詞や動きを確認しながら稽古を重ね、大道具や衣装、小道具の調整に余念がなかった。美術班もまた、舞台裏で細やかな作業を続けていた。

 宮原は、背景画の前にしゃがみ込み、筆の先端で木々の陰影を描き足していた。影を濃くするために、ほんのわずかに黒を混ぜた緑を重ねる。その色が乾くか乾かないかというタイミングで、また次の葉を描く。

 作業に没頭しているはずなのに、台詞や笑い声が遠くの風景のように耳に残っていた。

 ふと視線を上げると、中村が黒板前のステージの中央で軽くストレッチをしていた。照明代わりの西日が、彼女の髪を柔らかく染めている。

 周囲と談笑しながら笑みを浮かべていたが、宮原にはその笑顔の奥にほんの少しの影が見えた気がした。

 思い出されるのは、先日の中村の姿。稽古のあと、誰もいない教室に入ってきた中村が、背景の片隅に描かれた“顔のない人間”のシルエットを見つけた。

 自分しか知らないはずの絵だった。誰かに見つかることなんて、想定していなかったのに。

『……この絵、私だ』

 その声は、驚くほどやさしく、どこか寂しげだった。宮原はその場からそっと離れたけれど、あの一言はずっと耳に残っている。

 あの中村希望が、自分の描いた絵に“自分”を重ねた。

 それ以来、中村を見るたびに、心のどこかがざわついた。

「ごめん、宮原さん。脚立取ってきてもらえる?」

「わかった」

 ちょうどお手洗いに行こうとしていたところだった。用を済ませてから、宮原は体育館裏にある備品倉庫へと向かった。

 昇降口を出た途端、空気がひんやりと変わる。人通りの少ない裏手には、風に揺れる木々の音と、自分の足音だけが響いていた。

 倉庫の重い扉に手をかけた瞬間、不意に背後から声がした。

「大道具、また倒れないようにするなら、釘の向きを変えた方がいい。あのパネル、木目と逆に打っていたから、力が弱くなっていた」

 振り返ると、一人の男子生徒が立っていた。夕日を背負っていたせいで、一瞬誰だかわからず、宮原は息をのんだ。

「……どうして、それを私に?」

 この学校の生徒会長として知られ、何事にも冷静で、少し近寄りがたい──そんな印象のある笹田が目の前にいて、宮原は戸惑いを隠せなかった。驚きと困惑が混ざった声が、自然と口をついて出た。以前少しだけ関わったことがあるが、それだけの関係だった。

 笹田は少しだけ首を傾けてから、まるで当然のことのように言った。

「あれ、君がC組の演劇の美術班じゃないのか?」

 宮原は、しばらく言葉を失い、小さく頷いた。

 笹田は、宮原の様子を少しだけ眺めてから、ぽつりと続けた。

「君の絵、俺はけっこう好きだよ。前に、美術部の展示で見たことがある。……あの、窓際の影のやつ。暗いのに、すごく静かで」

 その一言に、宮原の手がわずかに揺れた。

 それは、宮原が高校に入ってすぐに描いた絵だった。中学での“パクリ騒動”を引きずって、誰にも見せるつもりのなかった心の底を、ただ一人で描いたもの。

 部内で展示する絵が足りないということで、仕方なく出した、窓際に差し込む夕暮れの光と影の構図だった。

 ――誰にも届かなくていい、と思いながら描いたはずの絵。

 実際、展示されたときの人気投票では、ほとんど票が入らなかった。他の明るい絵や映える構図の作品に埋もれて、誰の記憶にも残らないと、そう思っていた。

 けれど今、誰かがそれを見て、覚えていて、言葉にしてくれた。

 沈黙を破ったのは、笹田だった。

「それもあって君だと思っていたのだが。もし違ったのならすまない。忘れてくれ」

 急な謝罪に、宮原は少し戸惑った。一拍置いて、首を振る。

「ううん、私で合ってる。笹田くん、ありがとう」

 アドバイスをくれたことも、もちろん嬉しかった。

 けれど、それ以上にあの絵が“好きだ”と言われたことが、何より心に残っていた。

 その言葉に笹田はふっと目を細め、けれどすぐに表情を引き締めた。

「気をつけてくれ。もし次同じような事故が起きたら、最悪中止になることもありえるんだからな」

 注意というより、まるで本当に心配しているかのような口調だった。

 それだけ言うと、彼は何もなかったかのように倉庫横の階段へ向かって歩き始めた。

 その背中を見送りながら、宮原はその場に立ち尽くしていた。

 鼓動が、耳の奥で静かに反響していた。

 笹田の言葉が、風に乗って耳の奥に残っている。

 誰にも見られたくないと思っていた絵だった。

 けれど、誰かがちゃんと見てくれていた。

 中村のような中心にいる人に、自分の絵が届いていたことが嬉しかった。

 それだけじゃない。

 あまり関わりのないはずの笹田のような人にも、自分の絵は何かを届けられていた。

 それは、想像もしていなかった温かさだった。

 自分が描いたものが、誰かに届いていた──その静かな事実が、胸の奥を深く、ゆっくりと温めていくのを感じた。

 脚立を持って教室に戻った宮原は、いつものように背景画の前に立った。

 描いた“顔のない人間”の輪郭を、そっと見つめる。

 この絵は、ただの背景ではない。

 自分がここにいるという、小さな、小さな証明だった。

 筆を握る指先に、さっきより少しだけ温もりが戻っていた。

 

 

 文化祭本番の朝。

 教室には、緊張と高揚が入り混じった空気に包まれていた。衣装を直す者、鏡の前で台詞を小声でなぞる者、小道具の最終調整をする者。それぞれが浮き足立ちながらも、自分の役割に集中しようと懸命だった。

 そんな中、宮原は背景画の前に立っていた。

 陽の光がカーテンの隙間から斜めに差し込み、ベニヤ板に描かれた森の風景を淡く照らしている。木々の枝の重なり、葉のにじみ、柔らかく差し込む光と影。それらが、ただの絵ではなく、“劇の世界”の一部として今日だけの命を持とうとしていた。

 その片隅に、小さな人影がある。“顔のない人間”。

 誰にも気づかれないように、木々の影にひっそりと描いたその輪郭を、宮原はそっと見つめた。目も口もない、ただの人の形。けれど、彼女にとっては、ずっと自分自身の象徴だった。

 ──今日で、お別れだね。

 その思いが、胸の奥が静かにざわめいた。絵が消える寂しさなのか、やり切った安堵なのか、自分でも判別できない感情が、心を優しく揺らしていた。

 やがて出番が近づいた一同は、舞台設営のために体育館へと移動した。

 カーテンが閉じられたステージの内側では、美術班のメンバーが大道具の設置を黙々と進めていく。打ち合わせの声は少なく、皆の動きには一分の迷いもなかった。幕の向こうからは、観客の話し声や足音がかすかに響いてきて、そのざわめきが次第に期待の熱を帯び始めているのがわかる。

 その中で、担任の澤田と生徒会長の笹田もステージに立ち、大道具の支柱や設置箇所をひとつひとつ丁寧に確認していた。角度や固定の甘さがないか、位置のバランスはどうか。二人の視線は細部にわたり、わずかな不安も見逃さない。観客が見ることのない舞台裏で、静かに劇の骨組みが完成していく。

 やがて合図のベルが鳴る。場内の照明が落とされ、観客席のざわめきがゆっくりと静まっていくのが分かる。カーテンの裏側では、最後の確認を終えた美術班が、静かに舞台袖へと下がっていった。誰もが息を殺し、足音ひとつ立てずに。

 そして、カーテンが開く。

 照明が舞台に落ちた瞬間、暗がりの中に光の世界が立ち上がる。

 そして、静かに物語が幕を開けた。

 カーテンが開いた舞台の中央に、中村が静かに登場した。その瞬間、体育館の空気がふっと変わった。

 彼女が放つ台詞のひとつひとつに、観客席から小さな笑いが起こり、次の瞬間には息を呑むような静けさが訪れる。その空気の揺れが、まるで波のように広がっていく。

 背景に映るその森は、もう“背景画“ではなかった。そこには風が吹き、光が差し、誰かの感情が生まれていた──そんな錯覚を、宮原は確かに感じていた。

 その後も、舞台は何のトラブルもなく進んでいった。役者たちの動きも、照明の切り替えも、小道具の出し入れも、すべてがなめらかに進行していく。

 誰もが集中し、劇の世界を壊さないように息を合わせていた。まるで、一枚の大きな絵の中に、それぞれがそっと自分の役割を描き加えているかのようだった。

 そしてラスト、舞台の中央にただ一人、ライトに照らされた中村が立った。

 静まり返った体育館の中、中村の表情はなにかを振り切ったような清々しさがあった。

 その瞳はまっすぐ前を見据え、言葉をゆっくりと紡ぐ。

「うまく言えなくても、誰かに笑われても、間違っていても……これが、私なのだから。──私はここにいる!」

 その声は、観客一人ひとりの胸に静かに届いた。

 幕が下りたとき、割れんばかりの拍手が体育館に響き渡った。

 教室に戻ったあとも、余韻はしばらく消えなかった。衣装を脱ぎながら笑い合う声、記念写真を撮るシャッターの音、舞台裏を片づける忙しない足音。それらを背に、宮原は静かに背景画の前へと戻っていた。

 これは、明日にはすべて解体される。背景画も、きっと誰の記憶に残らないまま、処分されてしまうのだろう。

 その前に。

 宮原は、静かに筆を取った。

 木々の影に紛れるように立つ“顔のない人間”の輪郭の前に、そっと腰を下ろす。

 そして、躊躇いながらも、細い筆先を動かした。

 目と、口。ほんの少しだけ上向きの、優しい表情。

 それは誰のためでもない。誰かに見せるためでもない。

 自分のために、自分の手で描く。

 それは、他人の評価を求めるのではなく、自分自身を信じて一歩を踏み出すということだった。

「……また、自分の好きなものを描いてもいいよね」

 宮原は、小さく呟いて、筆を置いた。

 教室の窓から差し込んだ西日が、背景画の森と、描き足された顔を、そっと照らしていた。


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