第7話 エヴィリオの覚悟
「エヴィリオ様から手を離しなさい」
「私が相手をすればいいのでしょう?だから、もうやめなさい。これ以上は見過ごせません」
オルビアの忠告をあざ笑うように男たちは口の端を吊り上げる。
騒ぎの中心で、エヴィリオが静かにオルビアの前に立った。
「オルビア。君は下がっていろ」
「貴様の振る舞いは、実に無礼だ。相応の罪を覚悟してもらうぞ」
表情は冷ややかに、言葉には王族としての威厳を乗せて言葉を放つエヴィリオ。
だが、その言葉を聞いた傭兵が、せせら笑うように言い放った。
「おっと、王子様が怒ったぞぉ。怖い怖い!それで?…力もないのにどうやって俺たちを捕まえるつもりだ?」
「非力のくせに、護衛が一人もいないようだが?」
嘲笑は店内に波紋のように広がり、傭兵たちの表情に余裕が浮かぶ。
エヴィリオの奥歯が、音を立てて噛み締められた。
(そうだ……護衛は、いない)
彼は、冷酷な王子として扱われるようになって以来、人と関わることを避けてきた。誰に守られることも、誰かと心を通わせることも、すべて遠ざけていた。
そして今日も――たった一人で、ここにいる。
(護衛がいれば……こんな連中、すぐに取り押さえられただろうに)
「チッ」
舌打ちが漏れる。
(どこまで……俺は無能なんだ)
そして今、目の前には震えるノエルがいる。
……せめて彼女だけはこの場から逃がさねばならない。
「さてと。盗賊としての初仕事といくか」
傭兵がニヤつきながら武器を抜く。
「王子を潰して、身につけてる金品を根こそぎ奪ってやろうぜ!」
「うおおぉ!」
周囲の傭兵たちが歓声を上げ、士気を高め始める。
「どうなるか、覚悟はあるんだろうな」
「ふん。盗賊になると決めた時に、覚悟なんざとっくに決まってる」
男の目が鋭く光る。
「――それに王子。お前、ほんとうに必要とされてるのか?そんな冷酷な王子なんざ、誰も惜しまねぇ。……試してやるよ。お前を殴ったら、誰がどう動くのか!」
「やめ――!」
オルビアが叫ぶより先に、男の拳がエヴィリオの頬を捉えた。
ドガァン!
まるで雷のような音と共に、エヴィリオの身体が壁に叩きつけられる。
「ぐあっ……!!」
「エヴィリオ様っ!!」
ノエルが叫びながら、彼のもとへ駆け寄った。
血が滲む彼の頬を、震える手でそっと撫で、傷口を確かめるように手当てを始める。
「エヴィリオ様……大丈夫ですか……?すぐに手当てを……痛いところは……」
ノエルの手は震えながらも、必死に傷を拭おうとしていた。指先が赤く染まり、彼女の涙がぽろぽろと零れる。
「なんだ、若い女が新しく入ったのか、おいこっち向いてみろ」
「やめなさい!」
オルビアの叫びが、店内に響いた。
「その方はミラージュ家のノエル様よ!」
傭兵たちにざわめきが広がる。
「ミラージュ……?あの『蜃気楼の美しさ』って呼ばれてるノエル嬢のことか?」
傭兵が疑わしげに笑った。
「まさか。こんな傭兵だらけの領に、ミラージュの女がいるわけがない……」
それでも、半信半疑で男がノエルに近づく。
「……一応、顔を拝んでおくか」
その手がノエルの両頬を掴む。
指先が無遠慮に彼女の顔を持ち上げ、まじまじと眺めた。
「……美しい……間違いねぇ。どうやら本物のミラージュの女みてぇだ。――どうだ、俺たちと一緒に来ねぇか?」
「やめろぉ!!」
ズドンッ!
怒声と共に飛び込んできたエヴィリオが、全身の力を込めて男を突き飛ばした。
傭兵の身体が宙に浮き、椅子を巻き込んで床に転がる。
「俺の後ろにいろ、ノエル」
エヴィリオはそのままノエルを庇い、立ちはだかる。
「……隙を見て、逃げ出せ」
「そ、そんな……!」
「こんな噂ばかりの俺に、あのミラージュが婚約してくれるとは思ってなかったよ。少しの時間だったが……悪くはなかった」
それは、自嘲と本音が混じった小さな呟きだった。
人から忌み嫌われ、近づこうとする者すらいなかった彼にとって、それがたとえ短いものであっても――彼の心には、確かな温かさを残していた。
ノエルは息を呑んだ。
「逃げる時は――これも持っていけ」
エヴィリオは中指から指輪を取り外し、ノエルの手に握らせた。
「それは、王族しか持っていない指輪だ。奴らに取られるわけにはいかない。無くさないように、しっかり填めておけ」
(無事には帰れそうにないからな…)
「は、はいっ……!」
ノエルが震える手でその指輪を中指にはめた瞬間だった。
――指輪が、赤色の光を放ち始めた。
命のように熱いその真紅の光が、空間のすべての色を塗り替えていく。
赤というにはあまりに深く、まるで魂そのものが燃えているかのようだった。
床も壁も、光に触れた瞬間、現実の輪郭を失い始める。
まるで――世界そのものが塗り替わっていくように。
誰もが真紅の光に目を奪われ、時が止まったように動きを止めた。
「な、なんだ……?」
傭兵が真紅の光に一斉に目が眩む。
「指輪が……赤色に……光った……?」
ノエルに渡した指輪は、王族と、神脈の加護に選ばれた貴族だけが所有を許される特別な指輪。
貴族がその加護を授かるのは、五十年に一度あるかないかという奇跡。
――それに、選ばれた者の指輪は、金色に光るのが通例だ。
だが、ノエルが嵌めたその指輪は――何かが“発動”したかのように、圧倒的な光を放っていた。
ノエルはその光に包まれながら、エヴィリオの後ろ姿を見上げた。
――彼の背は、ひどく頼もしく、美しく見える。
(エヴィリオ様……)
彼女の心に、小さな決意が芽生えようとしていた。
(私は……あなたを、絶対に見捨てたりしない)