黒いモヤ
――私は、またあの空間にいた。
和姫ちゃんと初めて出会った、足元に霧が巻いている場所だ。
和姫ちゃんを降霊してからはもう来ることは無いかなぁと思っていたのだけど……。あの『屑男子鉄槌事件』以来、和姫ちゃんの気配がなかったから心配していたんだよね。
霧が巻いている、薄暗い空間で。
和姫ちゃんは地面に膝を突き、しくしくと泣いていた。
淡い恋心を抱いていた男子から、あんな態度を取られたのだから当然だ。存分に泣いていいし、この身体に憑依してもう一度アレを殴っても許されると思う。
でも、和姫ちゃんは泣いたままで。
彼女が涙を零すたびに、足元の霧に黒い『モヤ』のようなものが広まっている気がする。
そのモヤを見て、私は言いようのない不安に襲われた。なぜだか、『信春騒動記』の悪徳姫・和の姿を思い出してしまって……。
――このまま、放っておいたらマズい。
あのモヤに包まれたら、和姫ちゃんが戻ってこられなくなる。
直感に突き動かされ私は、和姫ちゃんに近づいた。
一歩。踏み出すたびに黒いモヤが足に纏わり付く。見た目は霧状なのに、重さはまるで泥のようだった。
じりじりと。モヤの中に入った足が痺れてくる。
でも、前世の激痛に比べればマシだ。
黒いモヤが血管を通って全身に回り、心臓を圧迫しているような感じがする。
でも、前世の息苦しさに比べればどうということはない。
激痛も、苦痛も、私の動きを止められるほどではなかった。
「――和姫ちゃん」
少々苦労しながらも和姫ちゃんのところまで移動した私は、彼女の前で両膝を突いた。
こういうときは、共通の『敵』を話題にすればいいと思う。
「……見た目は良かったけど、中身は駄目だったね」
誰のことか。和姫ちゃんは言わずとも察してくれたらしい。
『……中身の駄目さなら、妾の方が遥かに上です。――全部、妾が悪いんですから』
いやアレより駄目な人間なんてそうはいないと思うけど? ちょっと自分を卑下しすぎじゃない? ……まぁ、淡い恋心を抱いていた相手からあんな態度を取られれば、多少はしょうがないのだろうけど。だからといって頷くわけにもいかない。
「和姫ちゃんは悪くないでしょう? 銀髪赤目になったのだって、きっと私が中に入っちゃったからだろうし」
『それでも、妾が悪いんです。全部、妾が悪いんです』
「う~ん……」
頑固。
というか、自分に言い聞かせているような?
こういうとき、どうやって説得すればいいのか……よく分からない。そもそもが人生の大切な期間を病院で過ごしたような女だ。家族からも愛されなかったような女だ。まともな対人経験なんて、ない。
だから私は説得を諦めた。
諦めて、別の方向から攻めることにした。
まずは私だけで立ち上がり、和姫ちゃんに手を伸ばす。
「こういうときは気分転換ね!」
『気分転換、ですか?』
「うん、そう。まずは外に出ましょう! お出かけしましょう!」
『おでかけ……』
「ずっと室内にいると余分なことを考えちゃうもの。元気になって退院する子に嫉妬したり、医者や看護師に厭われているんじゃないかと不安になったり……。きっと、そういうときは外に出て、外の空気を吸った方がいい。……私も経験はできなかったから、本当に好転するかは分からないけどね」
『…………』
我ながら格好付かない説得だなぁと思ったけど、それはそれで和姫ちゃんの心に響くものがあったのか、和姫ちゃんは私の手を取り、立ち上がってくれた。
黒いモヤが晴れる。
もう大丈夫だろうなと思いつつ、約束したのだから『お出かけ』はしなくちゃね。
まずは、屋敷から抜け出す方法を考えないと。




