屋上=聖域 4
カラオケ屋の扉に手をかけていたエムはキョトンとした顔で俺の方へ振り返った。
「え、今からですか?」
「うん、一緒に」
眉を顰め口をへの字にして怪訝そうな表情を向ける。
俺はんー、と唸るエムの横を通り過ぎて扉を開けて外に出た。首の後ろが熱っぽく手を当ててじんわりと熱を逃す。
手に添わすように頭を上げて淡い青色の空を見上げるとビルとビルと間で白い光が輝いていた。輝きすぎて少し眩しいくらいだ。
こんなにも朝日は眩しかっただろうか、と手庇しつつ目を細める俺の隣で同じように空を見上げたエムが
「まぁちょっとだけなら」
と、呟くように言った。
それから俺たちは空いた電車に乗った。車内は二人とも無言でスマホを触っていた。
目的の海岸はそこまで離れていないのでうつらうつらし出した辺りで最寄りの駅に到着する。
隣であくびを噛み殺すエムと共に駅を抜けると見た事のない街が広がっていた。
俺はそんな風景にどこか心が浮き足立つ。エムは顔も上げずにつまらなそうな顔でスマホを触っている。
しばらくスマホのマップを見ながらグルグルと路地を抜けていく。
ーーここを曲がれば
そう思いながら顔を出す。
人通りの無い道路と高架のトンネル、その奥にまだ少し遠い海が見えた。
少しベタつく潮の風に乗って磯の生臭い匂いがする。
ホッとすると同時に実際の海が見えた途端、俺の中で湧き上がるものがあった。
「海ですね」
いつのまにかスマホをしまい、まだ遠い海を眺める俺をエムは不思議そうな表情で見上げていた。
「あぁ」
と、頷き口の端がムズムズと上がっていく。
「シャアッ!!」
俺は声を上げて大袈裟に手を振り走り出す。
「もぉー」
そんなエムの呆れた声が聞こえたような気がする。
高架の下はジメッとしていてひんやりしていて、灰色の壁に描かれた赤色のよくわからない文字列が踊っていた。
そんな文字列を悪くない、と鼻で笑い飛ばし俺は高架の下を抜ける。
一段と濃くなった海の匂いと眩しい太陽に一瞬、目が眩んだ。
眩んだものの勢いそのままに防波堤へ突っ込み、ぶつかる様にして止まり腕を乗せて海を眺める。
久々にきた海はせっかくの朝方だというのにあまり綺麗には見えない。青と表現するには少し黒すぎる色をしている。けれど、それでも良かった。本当に感じたいものはこれじゃない。
「よいっしょ」と、防波堤に登って腰掛け砂浜から続く広い海を眺める。
波面は一面、白く輝いてゆっくりと海のさざめきが聴こえてくる。鼻から大きく息を吸い込み潮の匂いを肺にこれでもかと注ぐ。
「綺麗ー」
と、隣で座ったエムが声を上げた。
エムの方を見ると目を見開いてスマホを取り出していた。
スマホの写真を撮るのに集中していたのだろう。
目を見開き横にしたスマホを掲げて覗き込むその無防備な横顔を眺める。
その時、ちょうど風が吹いた。
エムの長く黒い髪が朝の眩い光を纏って大きく揺れる。
パシャリ、とシャッター音に紛れ俺はハハッと声に出して笑い、ガクンと首を垂れ目を閉じた。
「来てよかった…本当に」
俯いた顔の下では決して誰にも見えないよう薄く笑っている。
「ねーよかったです!」
そう言ったエムの口角の上がった口といい輝く澄んだ瞳といい小さく頬の辺りで凹んだ控えめなエクボといい、俺を心の底から来てよかったと思わしてくれる。
「綺麗だなー海」
「ですねー前朝方に来たことあるんですか?」
「いや、ないけど動画で見てさ。いつか行きたいなって」
「あぁー」
と、エムは強く頷いた。
「あっ下までおります?」
「降りようか」
防波堤から下へ伸びる錆びついた手すりとコンクリートの階段を見下ろす。学校の階段と大して変わらないはずが酷く不安定なものに見えた。少し角度がキツイからかもしれない。
隣に軽く視線をやると同じ事を思ったのか階段を見下ろしたまま止まったエムがいる。
あぁ、ここでただの友達や後輩と先輩じゃなく違う何かだったらエムに手を差し出す事ができるのだろうか。
そう小さく息を吐いた俺の腕をエムが当たり前のように絡め取って体を寄せる。それから見上げながらエヘヘと歯に噛むように笑い「結構急ですね」と言った。
それも良いんだ、と自分の中で引いた予防線がまだ少し中心へと下がっていく。
「そうだな、気をつけて」
一歩、一歩、降りる。
サクッと踏み締めた砂の感触、パッと離される腕、駆けていくエムの後ろ姿。
「何やってんだろ」
俺はエムにとって何者でもない、それどころかエムの彼氏は俺の友達だ。
なのに下がった予防線の分、空いた空白の分、何かをそこへ求める自分がいる。
きっと、寂しいのだろう。
「子供だな」
サクサクッと沈んでいきそうで沈まない砂浜を進む。
「せんぱーい!」
こちらに手を振るエムが見える。
後ろでは輝く波面が眩しく太陽を反射している。
「もう…なんでもいっか!」
靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、沈み込みそうになる足を大きく上げて海に駆け寄る。
足の指にまとわりつく波がゾクリと背筋を震わせた。
「やばー!」
キャハハと甲高い声をあげて手を打ち笑う。
「冷てぇ!」
青く高い空へそう吼える。
腹の底から声を出す。多分、近くの住民に聞こえているだろう。
起きるにはまだ少し早い時間。
でも、どうでもよかった。そういう所も俺はまだ子供だ。
「あーでも、気持ちいい」
声に出して笑う。
「写真撮ってあげますよ」
そう言われてピースを向けた。
「映えですねぇ」
「投稿できないけどな?」
エムはあぁーっと軽く口を開け思ってもいなかったような顔をした。
「じゃあ、今日の記念に取っときます」
「そうして」
そう言っておく。
まぁ、どうせリップサービス。いずれサラッと消されているであろう写真だ。
期待はしない。砂浜へ上がりスマホを取り出し近くのコンビニを探した。
「一旦、コンビニ寄ろう。このままじゃ俺電車乗れないから」
「あっはい」
そう言って後ろでは手を組み階段へと向かうエム。
俺はスッとスマホを掲げる。
「エム」
と、呼ぶと同時に写真を撮った。
「え」
「そういえば写真撮ってなかったなって」
「えーダメですよ!今、全然映えてないし」
「どうせ投稿できないから映えとかどうでもいいよ」
うん、撮れてる、とスマホを確認して頷いた。
何気なく振り向いた顔、揺れる髪。
映えてはないけれど、これでいい。
俺はスマホを握ったまま砂を足で踏み締めて先で待つエムの隣まで歩いた。
「いやいや、大切ですから」
「そういうもんか?」
「はいーだから消してください」
「…まぁ俺のお願い聞いてくれたしな。消すよ」
背後から波の音がする。それと同時に二人分の足音が続く。
スマホを触り撮った写真はゴミ箱に入れた。
撮りたかったのは、きっと上手く言えないあの一瞬に感じた何かだ。
「えぇ、消しちゃうんですか」
ゴミ箱に放り込んだ後、そんな言葉が聞こえる。甘えるような口調な気がした。
眉間に皺が寄っていく。どっちだよ、と笑いながら言うつもりで上げた視線はエムではなく後ろの防波堤で手を広げて歩くランドセル3人組に移った。もう朝だった。
「消すよ」
「ま、それがいいですよね」
そうはっきりと言ってエムはさっさと階段を上がっていく。
顔を上げるとヒラヒラと舞う短いスカート、すらっと伸びる白い足が見えた。
ため息が出ていく。
「ねむっ」
ゴツゴツした階段を上がり自販機で水を買って足を洗ってから靴を履いた。
隣を歩くエムの歩調は来た時よりどこか早い。
「先輩はこれからどうするんですか?」
「俺は、家に帰ってバック取って学校行こうかな。エムは?」
「私は一旦、家でゆっくりしてから行きます」
「そっか」
そう言った後、小さく息を吐いた。
冷静になってみれば俺は何をやっているのだろうか。
海に誘った事、だけではない。
カラオケに誘われてホイホイついていった。本当は断るべきことだ。
その中で何か間違いがあると考えるのは普通のことのような気がする。もし聞かれたら俺はどうするのだろうか。
次から次へとネガティブな感情が浮かんでくる。
「…悪いな、俺の思いつきに付き合わせて」
「まぁ楽しかったんで良いですよ」
あいつにも悪い事したな、と言いそうになりやめた。
それはなんとなく言いたくない。
そもそもあいつが…
(やめとけって)
頭を振ってそんな思考を打ち消す。
それ以上に進めば俺は取り返しがつかなくなるような気がした。
けれど、どこまでが取り返しつくのだろうか。
分からない。もはや手遅れな気さえしてくる。
「それにあの人は先輩と遊んだくらいでとやかく言いませんから」
そう言ったエムを俺は思わず見た。
その横顔は少しつまらなそうな顔をして前を向いている。
慰め、に似たような声色だったが、まるで独り言のようにも聞こえて、しばらく何も言えず「そっか」と遅れて呟くように言った。「はい」と同じような調子が帰ってきて俺たちは別々の駅で降りて別れた。
その日は大きくズレた朝を一日中引きずり続けた。自分でも不思議なほど頭が働いていない。
友達からもボーッとしてると言われ、オールした事だけ話した。
あいつは「珍しいーゲームか何か?」と呑気に話を回していた。
思考は回らずカラオケの部屋と朝見た海の景色がグルグルと順番に浮かんでくる。
「やばいな」
寝不足は何度かあったが、ここまで頭が回らないのは初めてのことで俺は何度目かそう呟いた。
幸い今日はコハチの授業が無いお陰でグルグルと意味なく回り続ける頭を抱えた状態でも授業についていくだけならば何とかなった。
この状態で話しかけると支離滅裂な事を言いそうだ。せっかくのチャンスなのにそう考えてしまうと躊躇っていたことだろう。
コハチは俺が話しかけなければこんな反応の無いクラスからサッサと出て次のクラスへ行く。
それってなんか嫌だな、の代わりに別の言葉が声を伴って浮かんできた。
「私だけ好きなのってなんか違くないって思うんですよ」
あぁ、そっか。確かにな。
一人、持ってきていない弁当を探し続け遅れて食堂へ向かう廊下でハハハ、と小さく聞こえないように笑い、笑っているはずなのに心はドスンと重りを抱えたように沈み込んだ。
そんな時、スマホが鳴る。
またか、と思いつつスマホを見る。やはりエムだった。
度々、授業中にスマホが鳴っていてお礼や撮った写真なんかが続いている。
それを俺も律儀に返すので連絡はずっと続いていた。
「先輩ってバイトはいつ休みなんですか?」
エムはまた遊ぶ気なのだろう。
律儀に返信する俺もきっとまた遊ぶだろう。
食堂へ続く足取りが少し遅くなっていた。
「あれ、コハチ」
ちょうど別のクラスから出てきたコハチがいた。
微笑むような笑顔で出てきたばかりの教室へ小さく手を振っている。コハチは他のクラスなら人気だ。俺たちのクラスだけ少しおかしい。
俺は握っていたスマホが震えたのを無視してポケットにしまった。その間にも足は自然とコハチへ駆け寄っていた。