活路
「......リョウ、このまま逃げる。古代魔術は私にはあまりわからない。
グレン・アーカイブのこの魔術は物を腐らせるということしかわからない。情報もなしに突っ込むには危険すぎる」
シェリーは風を起こし、その場を飛び退こうと腕を振る。
だが、その行為は俺の背中を軽く叩くだけにとどまった。体を動かすための強風が吹く気配もないまま、数秒の時が流れる。
「こほッ、けほっ、けほっ」
「シェリー?」
唐突に、シェリーがせき込み始めた。息つく暇もなく、何度も、何度も、シェリーは咳を繰り返す。
次第に俺の体を掴んでいる力が弱まっていく。
俺は急いでシェリーを背負い直し、未だ地に立ったままのグレンへと視線を向けた。
「お前、シェリーに何をした!」
「何をしたもこうしたもない。あのまま落石に潰されていればよかったものを、貴様らが生き足掻き、今に至ったんだ。勝手に自滅してるだけだろうが」
自滅? いいや、そんなことはない。間違いなくあいつの、腐蝕領域の絶対者とかいう古代魔術の力だ。なんだ、腐蝕領域......腐蝕、腐り、蝕む。
「げほっ」
く、とりあえず今はシェリーを楽にさせなきゃ。
「シェリー、少しだけ高度を下げれるか? 少し下げてくれればあとは俺が何とかするから」
シェリーは咳をし続けたまま、小さくうなずき、ゆっくりと降下を始めた。
「よし、ここでいいぞ、シェリー」
だが、シェリーは降下するのをやめなかった。
「......床まではおろす。そこから後は任せる」
息も絶え絶えの状態でそう言い、シェリーは俺を地面に下ろした。
瞬間、シェリーは今までよりも強い咳をし始める。
「シェリー、大丈夫か?」
シェリーは咳をしながらも、その首を横に振らない。
辛いだろうけど我慢してもらうしかないか。
にしても、この匂いは何だ? 何かを腐らせたような、溶かしたような......。
俺は足元を見た。さっきシェリーが火球で開けた穴。その端から煙が立ち上っている。
「空を飛ぶのはもうやめたのか?」
「空にいたら、俺が攻撃できないからな」
気づけば、グレンはすぐそこにいた。腕を伸ばせば届く距離。強烈な刺激臭を放ちながら、足元の岩石を溶かしている。
こいつの能力は、腐らせるだけじゃなく、溶かすという能力もある。
さっきシェリーは天井を炎で壊した。溶かしたり、腐らせたりさせているものはなんだ?
塩酸などの強酸に近い物か?
「ほう。この魔術を見せても、そんな強がりを言ってきたのは坊主が初めてだ」
「そうかい」
俺はじりじりと距離を離す。シェリーの咳はいつまでたっても収まらず、より酷い物へとなっていく。
「......一つ聞かせてくれ。お前のその古代魔術、制限時間みたいなのはあるのか?」
「俺が、不利になることを言うとでも?」
やっぱりダメか。慢心していってくれるかもとか期待したけど......。
「だが、俺がこれを使ったのは今日が初めてだ。それだけ坊主と小娘はこの俺を追い詰めたということだ。あの世での自慢話にするといい」
「へっ、そんだけの力をを持っていながら一人の人間と一人の魔族に負けたっていう恥をかかせてやる」
俺はシェリーを胸に抱きかかえる。ステータスプレートを覗いてもMPが回復する見込みはない。
シェリーを守りながら、このでこぼこの地面を走り、グレンの隙を伺ってとどめを刺す。
はは、言うは易く行うは難しだな。ま、やらなきゃいけないんだけどな。
「シェリー、休んで体力を回復しろ。それまでの間、俺が持ちこたえる」
俺は後ろへと思いっきりジャンプする。不安定な足場に着地し、態勢を崩すが、すぐに持ち直す。
3m近い距離を開けて、俺はグレンと再び対峙した。
「無駄話は終わりだ。ここまで戦えた褒美として一瞬で殺してやる」
「やれるもんならやってみろ!」
気を強く持て。今の俺は逃げることしかできない。気持ちで負けたら待つのは死だけだ。
グレンから何かが飛んできた。俺はとっさにそれを躱す。瞬間、左足が焼けるような痛みに襲われる。
見れば、俺の左足は制服ごと溶かされ、爛れていた。
「ぐぁ、あああああ!」
毒の壁に触れた時とは比較にならないほどの痛み。俺はその場に倒れこむ――直前、胸に抱えるシェリーの存在を思い出し、ギリギリ踏みとどまる。
「避けなければそんな痛みを味わうことなく死ねただろうに」
こいつ、違う。言ってることとやってることが、一致してない。痛みなく、死ねるだと? 俺の足を爛れさせるのが精いっぱいの攻撃で、そんなことができるはずない。
こいつは、俺をいたぶるつもりだ。どんだけ屈辱的だったのかは知らねえけど怒ってることだけは確かだ。
俺は左足を引きずりながら、遠くに遠くに移動する。
「俺がいまするべきは時間稼ぎだ。俺のMPが回復するまで、そしてシェリーが戦える状態になるまで」
「逃げようってか?」
グレンはまたも何かを飛ばしてくる。俺は体の右側に倒れこむようにそれを回避する。
グレンの飛ばしてきたそれは、着弾と同時に飛び散り、拡散した。
「これか、さっきの攻撃は!」
倒れた状態から半身を起こし、さらに遠くへと飛び退く。
遠隔攻撃......。でも、近くに行けば近接で殴られるだろう。......死ぬしかないのか?
「あまり無理をしても、たどり着く結果は変わらん。坊主はここで死ぬんだ」
酸性雨がグレンの頭上から降り始める。それは徐々に俺のほうへと範囲を広げてくる。
岩石に穴が開き、でこぼこの地面が平らに整備されていく。
「......リョウ、あいつに限界まで近づくことできる?」
少しやつれた顔でシェリーが顔をのぞかせた。紅い瞳が色濃く輝き、自信のありようを報せてくる。
「秘策、か?」
「一か八か。でも、やる価値はあると思う」
一か、八か......。いや、このままいってもジリ貧の可能性が高いんだ。これに賭けよう。
「わかった。俺はあいつに近寄ればいいんだな」
「......うん。そしたら私が全力で攻撃する」
俺はシェリーを背中に背負い、クラウチングスタートの構えをとる。
左足は未だに痛みを訴えてくるが、俺は奥歯を噛みしめて堪える。
「次の攻撃が来たら動くぞ」
「......うん」
ここが、天下分け目の天王山だ。