一発だけなら誤射かもしれない
1937年12月12日ベーリング海を航行していた日本の商船である花井丸が、アメリカ海軍により撃沈される事件が起きた。
あろうことか攻撃してきたアメリカの艦艇は救助を行わず、近くに居た保安隊の艦艇が駆けつけ救助をした。
12月の極寒のベーリング海に投げ出された乗客の殆どが死亡し、数人しか生き残らなかった。
保安局から連絡を受けた日本政府は直ぐに対応をとる。
広田弘毅外相は駐日米国大使のジョセフ・グルーを呼び出し、花井丸撃沈について問い詰めた。
13日には宇垣首相がルーズベルト大統領宛に抗議書を送った。
事件から翌々日にやっと出たアメリカ側の声明は
「悪天候により国旗を認めず、不法入国者らしき者の多数乗船を確認しており、故意から出たものではなく全く過誤に基づく不幸な事件である。」
というものであった。
まずかったのは乗っていたのが日本人だけではなく、イギリス人やフランス人・アメリカ人などが乗っていたことである。
その外国人たちも大企業の重役や、議員と繋がりのある人物たちであった。
そして、それをアメリカ政府が知らなかったのが悪かった。
アメリカ側は
「不審船が無線にも応答せず吹雪で国旗が識別できず、領海内に侵入してきた為にやむを得ず撃沈した。」
と説明した。
当時花井丸の無線機が故障していたのは事実であるが、乗組員の証言で発光信号で応答しようとしていた事がわかっている。
しかも撃沈された場所は公海上であり、アメリカの領海ではなかった。
結果アメリカ政府は他国からは抗議が来るし、国内からの突き上げにも晒される。
最終的にワシントンD.C.で日本・イギリス・フランス・アメリカの外交官、花井丸の船主である千野財閥の代表が協議を行った。
外交官と言ったが実情はどの国も外務大臣クラスを派遣して来たし、千野財閥側も元成と修大朗が来ている。
とりあえず各国と千野財閥に対して、アメリカ政府は賠償と謝罪を行うことを確約する。
それが終わると議題は次へ移った。
カムチャッカ半島地域は名目上では日本の領土ではあった。
しかし住民の殆どが日本人ではないことや、千野財閥を除いて海外資本が殆どであることから、管理権を国際連盟が持つことになった。
イギリス・フランス・日本は委託統治を国だけではなく、企業も参加できる信託統治制度に発展させた。
これによりカムチャッカ半島地域は千野財閥の信託統治地域となる。
更に共同統治者としてロスチャイルド家やロックフェラー家も参加する。
一連の流れで土地の持ち主は日本であり、管理者は千野財閥という形態を維持する事ができた。
また四国間でベーリング条約というものが結ばれた。
主な内容としては
「いかなる場合であっても、武力行使・侵略・それらに類するものを禁止する。」
といったものであり、監視の為にセントローレンス島にイギリスとフランス軍が駐留する事になった。
この事件は花井丸事件と呼ばれ、日米の軋轢を象徴する出来事として語られることになる。




