機械化歩兵ってサイボーグみたいなネーミングだよね
「車とバイクが欲しい。」と修大朗が言い出した。別にわがままではない。(いままでの無茶振りも一応必要ではあった)
基本的に現時点での保安局の活動圏内は東京市から横浜までの一帯である。流石に徒歩だけではどこかきついものがある。
日本の警察にパトロールカーというものが導入されたのは昭和25年のことである。
さらには日本陸軍が軍用車を導入するのは昭和5年以降になる。
しかし意図せず世界一周をした修大朗からしてみれば、アメリカやヨーロッパの自動車やオートバイが走る社会を見た後では、日本はとても遅れていると思えた。
イギリス組とアメリカ組に電報が届いたのは仕事が終わって帰国できるかという時だった。
イギリス組にはトライアンフ社とウーズレー社へ、アメリカ組にはフォード社へ行くように指令が出された。
トライアンフ社との交渉では千野財閥と資本提携し工場を日本に建てることになった。
第一世界大戦でオートバイの有用性が証明され、一時期は需要が増えたが大戦後はトライアンフ社の業績は低迷する。
1923年に超低価格車のモデルPが登場し、成功はしたが油断は出来なかった。
オートバイ業界ではハーレーダッビトソン社が世界最大のメーカーになり、トライアンフ社が落ち目だったのは否めないだろう。
トライアンフ社にとって日本という新しい市場に参入することができ、支援も得られるのならば選択肢は一つしかなかった。
ウーズレー社との交渉では千野財閥がウーズレーを買収することになった。
当時ウーズレー社は多額の負債を抱えており破産寸前だった。
ウーズレー社は千野財閥のグループ会社となり、ウーズレーブランドは千野財閥のものになった。
フォード社との交渉ではフォードが日本に進出しようとしていたのもあり、フォード社と千野財閥が半分ずつ出資してフォード・ジャパンが設立された。
すでに日本フォードが存在していたが、それを千野財閥が半分買収する形で出資することになった。
実はフォード社もアメリカ国内でGM社とクライスラー社に需要を奪われていた。
そのため千野財閥による出資の話は願ってもないことだった。
これらの工場は横浜と川崎一帯に作られ、千野財閥の販売網によって車が売り出された。
さらには千野財閥によって日本各地に自動車教習所が作られた。
こうして日本のモータリゼーションは一歩進んだのだった。
また千野財閥は日本各地に拠点がありトラックを使うことで、物流網を強化する狙いがあったと言われている。(特にウーズレー買収)
保安局はその後豊田や日産などからも自動車を購入するが、それは昭和8年以降までまたなければならない。
ともかく保安局は自動車とバイクを手に入れ、世界でも本格的な機械化部隊となった。
保安局の車両は灰色に塗られ、白い字で車体横に保安局と書かれた。
後に内閣保安局はCabinet Security Bureauと訳され、それを略したCSBという文字も書かれることになる。
さらには警察もまだ車両を導入していないので、警察の代わりに保安局が車でパトロールするようになった。
東京周辺をパトロールする保安局の自動車やバイクはやがて住民に親しまれることになる。
保安局のパトロールによって犯罪率は低下し、治安の維持に役立ったことが翌年には発表された。
実際に犯罪率は低下しており、大正末期から昭和始めの混乱した情勢を安定させるのに一役買った。