偉い人の思いつき程ろくでもないものは無い
修大朗はアメリカに渡るとウィンチェスター社へと向かった。
12ゲージのM1897とM12のライオット型とトレンチガン型のライセンスを購入しようとしたが、ウィンチェスター側がM12のライセンス販売を渋った。
日本は一応仮想敵国であるため旧式のM1897は良くても、M12のライセンスを販売することに抵抗があったのだ。
それでもアメリカは資本主義の国、ライセンスだけではなく銃本体も数千挺を新規購入すると言うと、渋々であるが販売を承諾した。
これでやっと修大朗について来た職員も手続きの為に残る人以外は日本に帰れることになった。
しかし帰国間際に修大朗はある銃を見ることになる。それはブローニングM1918自動小銃、いわゆるBARだった。
そこで手続きを終えて後は帰国するだけのドイツやフランスに残った職員に電報が出された。
実はアメリカではレミントン社にも訪れたが、モデル11は既にレミントン社がオート5をライセンス生産している物だった為、ドイツに残った職員にはFN社からライセンスを購入するのにベルギーに行かせるつもりだった。
残念ながら修大朗が軽機関銃が欲しいと思っちゃったので、ドイツ組はマドセン軽機関銃のライセンスを取るのにデンマーク行きも決定した。
フランス組はドイツ組に比べてましだった。ホッチキスmle1922は国内のホッチキス社を訪れるだけだったからだ。
どちらも7.92×57mmモーゼル弾を使用するものが選ばれた。(大日本兵器で生産する為)
結果的に彼ら一行の旅は世界一周旅行になってしまった。
日本を出発しインド洋を渡りヨーロッパに訪れた。さらに大西洋を渡りアメリカを横断して太平洋に出て日本に帰って来たのだった。
しかし約三ヶ月間の旅はその分多くの成果を日本に持ち帰って来た。
まず保安局は自前で銃を用意できるようになった。ただそれだけに尽きるが、バリエーションが凄まじい。
保安局はドイツの技術と世界各国の銃を手に入れたのだった。
そして数多くの戦車や装甲車を手に入れた。残念ながら砲や機関銃は取り外された状態だが。
だがこれらの働きのおかげで日本の工業は飛躍的に発展していくことになる。
たとえば部品の共通化が進んだり、ライン生産方式がとられるようになった。
東北地方に工場が建てられ経済的にも発展していくことにもなる。
ちなみに資金は殆ど千野財閥持ちである。世界有数の大企業は伊達ではないのだ。
こうして保安局は確実に勢力を伸ばしていくのだった。
そして修大朗がまた何かを思いつく。
まだ帰国できないイギリス組とアメリカ組はさらに仕事が増えることになるのだが、それを彼らはまだ知らない。




