地位の格式①
千野伯爵家は千野成章が亡くなってからは侯爵の爵位が叙されるはずだった。
しかしそこに横槍を入れる男が一人いた。西園寺公望である。
元々成章の功績からすれば公爵が相応しいのは誰でも分かっていた。もちろん政府の叙爵担当もそう思っていた。
そこに西園寺公が「千野修大朗伯が叛乱を鎮圧した功績で公爵に叙するべき。」と言い出した。
まあそれには反対する者はおらず別に良かったのだが、問題は他にあった。
西園寺公望は他の元老と比べると若かったが、今となっては最後の元老であり、自分でも先が長くないのも分かっていた。
自分が居なくなれば日本は悪い方へ進み出すかもしれない、と考えた西園寺公は後継者を探していた。
自分と同じくらいの立場で天皇陛下から信頼され、元老と同等の役職を持つ人物を求めていた。
そこで西園寺公は千野成章からの最後の頼み事を上手く利用しようとした。
さてそれから数日後、天皇陛下からの叙任に際し修大朗は宮城に参内していた。
天皇陛下から直々に叙任を行うと言われたのだが、初めて叙任を受ける修大朗は知らなかったがそれは極めて異例のことだった。
部屋に入ると天皇陛下の他に西園寺公望・鈴木貫太郎侍従長・久我常道侯爵・徳川宗家当主の徳川家達公爵が居た。
まず最初に西園寺公から公爵の爵位を叙されることを伝えられた。
次に久我常道と徳川家達の両名より「我々の協議により千野公爵家を源氏長者として認める。」と宣言された。
そして最後に天皇陛下から伝言を預かった鈴木侍従長より「『汝を征夷大将軍に任ずる。』との事です。」と言われた。
何故こんな事が起きたのだろうか?全ては西園寺公の策略によるものである。
実は数日前、西園寺公は久我常道と徳川家達を呼び出していた。
「たしか千野家は清和源氏の流れを汲むのだったか。」と西園寺公が切り出した。
久我・徳川両家の当主が集められたということは、源氏長者についての話というのは明らかである。
「小笠原伯爵家や南部伯爵家、諏訪子爵家などからの信頼も厚いと聞いている。」
千野伯爵家は複数の華族を率いる事が出来る数少ない家柄の一つである。
小笠原子爵家・伯爵家に始まり南部伯爵家・柳沢伯爵家・佐竹侯爵家などの華族とは親しい間柄であった。
特に諏訪子爵家とは元々同じ一族であり、諏訪大社に対して献金を永らく行ってきた。
それに伴い信仰の保護も永らく行っており、国家神道政策に反抗し特例として神職の世襲を認めさせたりした。
また千野警備での繋がりから各地の士族や華族からの信頼もあり、千野家は全国に政治基盤を持っていた。
公家や皇室とも献金を通して繋がりがあり、臣下としても孝明天皇からはじまり四代に渡って仕えている。
それ故に名実ともに千野家は五摂家に対抗できる華族であった。
そういう訳で西園寺公の根回しは功を奏し、無事に任命を迎えたわけである。




