アドバイスを聞くのは大事だけども
「銃で有名な国は何処か?」という質問をされたとしよう。
ある人は銃大国のアメリカだと答え、またある人はオーストリアやベルギーと口々に答えるだろう。
千野修大朗は誰かに「銃が強い国は何処か?」と質問をした。
その人は「ドイツ」と答えた。
「でも君ドイツは先の大戦で負けたじゃないか。」
「しかし技術力は確かだ。工業機械だってドイツかアメリカだぞ。」
「それもそうか。」
その人は「ドイツ」と答えてしまった。
千野成章に限らず修大朗も行動力が凄まじく、考えたら直ぐ行動に起こすタイプの人物だった。
「諸君、ドイツに行くぞ。」
そう言い放ったのは会話した人と別れ、保安局に戻ってきた瞬間だった。
翌日には事務の責任者やら数十人を連れてドイツ行きの船に飛び乗った。
ドイツまでの往路で千野財閥を通じてドイツの主要な銃器メーカーにアポイントを取る。といった所からかなり行き当たりばったりといことが分かる。
さて当時ドイツはヴェルサイユ条約によって銃の保有数や生産が制限されており、銃器メーカーは条約を掻い潜り開発や生産を行なっていた。
しかしそれにも限界はあり銃器メーカーにとっては厳しい時代となっていた。
それに再軍備のための準備をするにはドイツ国内では難しかった。
そんな最中に修大朗一行はドイツを訪れたのだった。
最初に訪れたのはモーゼル社だった。
モーゼルの社員は、てっきり輸出かライセンスの話だと思っていた。しかしやって来た日本人はとんでも無いことを言い出した。
「日本に工場作りませんか?」
「は!?」
目の前の日本人はそれどころか土地や住居を用意すると言った。さらには日本の企業と合弁会社を作らないかとも言ってきた。
都合が良すぎるとモーゼルの社員は思った。
「一回考えさせて下さい。」
そう言うのが一般社員の彼らには精一杯だった。
さて修大朗一行が去ったあとモーゼル社は直ぐに役員会議を行った。
だが千野修大朗は待ってくれない。モーゼル社を訪れた後、その足でその日のうちにワルサー社にも訪れ同じことを提案した。
何故か修大朗はラインメタル社やクルップ社にも訪れ同じことを提案した。
他の会社にも同じことを提案しまわっていると知ったモーゼル社は、提案を受けた会社同士で会合を行った。
はっきり言って合弁会社を隠れ蓑にしてヴェルサイユ条約を掻い潜れるし、自由に銃の生産や開発ができるので断る理由は無かった。
結局どの会社も提案を呑むことになり、ドイツの軍需メーカーは実質的に連合を組んだ。
そして三菱・三井・千野連合とドイツ連合の合弁会社として大日本兵器が作られた。
ちなみに工場は東北地方に何もない土地を買って一から作り、団地や商店街が併設されたので閉鎖都市の様になっていたらしい。