天災はいつも唐突にやって来る
1933年3月3日三陸地方で地震が発生した。
北丹後地震以降、1930年に北伊豆地震が1931年には西埼玉地震が発生していた。
その度に保安局は救援を行なったが、いずれも被害が大きかったのが東京から近場であった。
今回の地震は保安局にとって、北丹後地震以来の遠方で発生した地震であった。
昭和三陸地震と呼ばれることになるこの地震は揺れによる被害は少なく、地震によって発生した津波が殆どの被害を引き起こした。
死者・行方不明者数が多い明治以降の地震では、北丹後地震につぎ被害が大きいとされる地震であった。
津波により建物は流され更地同然になり、多くの人が行方不明になった。
仙台市には保安局の支局があり保安隊が二個連隊駐屯していた。
しかし仙台も甚大な被害を受けたのと、三陸地方全体に及ぶ被害は二個連隊程度では対応出来なかった。
現地の保安隊も救助を始めたは良いが、本格的な支援を行えるのは東京から応援が来てからだった。
幸いにも発生してから直ぐに、仙台支局からの無線通信により本庁に地震発生の知らせが届いた。
それに続いてラジオ放送により地震発生のニュースが報じられ、日本全国の知るところになった。
たまたま試験の為に東京湾に待機していた救援支援艦に救援命令が出された。
一隻しか無かったが上陸部隊の一個大隊と支援物資を積載し、数隻の車両揚陸艦を伴って三陸地方へ向かった。
津波により港が機能せず、そもそも大きい港が無い三陸地方で救援支援艦は真価を発揮した。
その揚陸艦としての機能により救援物資を迅速に陸揚げし、人員と物資をピストン輸送した。
さらに東北で救援支援艦の2番艦が艤装途中だったが、地震発生直後に沖へ退避し無事だった。
その後は接岸する事で臨時の人工埠頭として活躍した。
これにより通常の輸送船も物資の輸送ができるようになり、より多くの人員を輸送できるようになった。
仮設住宅や炊き出しにより寒さから被災者を保護することはできたが、問題は山積みであった。
昭和恐慌での被害は抑えられものの、1931年の冷害での被害は避けられなかった。
農業組合は救済に努めたが、全ての農家を支援することはできなかった。
それに加え地震が発生し、津波による被害により追い討ちを受けた。
1934年には凶作も重なり、東北の農家たちは危機的状態に置かれていた。
これに対して千野財閥主導の民間公共事業では、地震対策も兼ねて大規模堤防の建設が始まった。
今までも長距離道路の敷設や空港の建設が進んでいたが、それだけでは足りなくなったからである。
ともかく東北には地元の労働者を含め、他所からやってきた労働者により開発が進むことになる。
東北の発展は地震からの復興でもあり、恐慌への救援でもあった。
だが発展したとはいえ、貧困に喘ぐ農民が居るのは避けられないのである。
それはとある出来事で如実に現れるのだが、それはまた別の話である。




