戦艦が有るなら海軍に居る必要は?
保安隊の艦隊は大きな問題を抱えていた。
それは指揮を執れる人物が居なかったからである。
海軍出身の人材は駆逐艦と水雷艇を譲渡された時の人たちしか居なかった。
近海の見回りや離島への連絡船の護衛は出来ても、艦隊の運用などできるはずも無かった。
戦艦が有ってもまともに使えなければ、ただの置物とはよく言ったもので、戦艦群は改装されたっきり東京湾から動いていなかった。
船を動かす兵員は育成すれば良かったが、指揮をとる人材となると難しかった。
そこで保安隊が目を付けたのが条約派の海軍軍人たちであった。
当時の海軍は艦隊派が優勢であり、海軍軍令部条例改定案で揉めていた。
保安隊は艦隊派が無理矢理、改定案を押し通すのを見逃さなかった。
なんと最後まで抵抗して更迭された井上成美を筆頭に、反対していた者を保安隊に引き抜いてしまった。
しかも井上成美には艦隊司令長官の役職を与え、その他の者にも艦長などの役職を与えた。
戦艦も有れば潜水艦も有る、しかも海軍より自由に動けるとあればやって来ない筈がない。
艦隊は創設されたばかりであり司令部となる建物が無く、当分は戦艦福岡(元エジンコート)が司令部代わりとなった。
大阪級戦艦(元オライオン級戦艦)や東京級戦艦(元キング・ジョージ5世級戦艦)などの超弩級戦艦は、他の弩級戦艦と艦隊を組んでいた。
そのため使える戦艦が京都(元ドレッドノート)か広島(元ネプチューン)ぐらいしか無かった。
そこで改装を受けていない空間に余裕のある福岡が選ばれたのだった。
ちなみに福岡は砲だけは多く7基14門の主砲を持ち、井上成美によって各砲塔にギリシャ神話のプレイアデス七姉妹の名前が付けられた。
その隣には水雷艇小鷹と白鷹が連絡艇として浮かんでいた。
福岡は港に接舷されていたが、司令部付の連絡艇として使われていた。
しかし頻繁に使うのは司令部付の飛行艇ぐらいであり、水雷艇は使われることが少なかった。
そんな水雷艇を生かす為に井上成美は臨検隊を編成し、小鷹や白鷹を使って臨検訓練を行った。
武器は保安隊の物が使えるので充実していて、そのうち臨検隊は陸戦隊並みの規模へ成長した。
その後の大角粛清でも保安局は、追いやられた山梨勝之進を筆頭に条約派の人材を引き抜いてしまった。
その人たちが中心となり新しくコルベット艦(駆逐艦)やフリゲート艦(巡洋艦)、嚮導艦(軽巡洋艦)などが建造されることになる。
しかしそれらの艦は魚雷発射管を持たず、砲や対空兵装を持つだけであった。
値段が高い魚雷は運用される事なく、レーダーや対潜装備などに力が入れられる。
そうして沿岸警備隊としても保安隊は成長していくのであった。




