偶然か奇跡かは経緯による
千野財閥から三菱に依頼が来た。小銃を作ってくれという注文だ。
三菱にしてみれば銃器開発の経験なんか無かったし断りたかった。
しかし相手は大のお得意様である千野財閥であり、数千挺の納入注文(実際は数万挺だった)がなされるということで断ることはできなかった。
更には千野財閥の援助により銃と弾薬の生産工場が建設され、後に三菱に新部門として三菱銃器が作られた。
まさに千野成章の基本理念、場所と道具は用意するからやってくれを体現したものだった。
さて三菱には銃を開発したことのある人材はいなかったし、他から呼ぶこともできなかった。
なので三菱は銃を開発するために陸軍から見本として銃を取り寄せることにした。
しかし陸軍は嫌がらせかどうか知らないが、シベリア出兵で鹵獲したよく分からない小銃と海外から輸入した旧式の機関銃を送りつけたのだった。
そうして銃のことをほとんど知らない技術者のもとに、フェドロフM1916とホチキス機関銃・ルイス軽機関銃が届き開発が始まった。
千野財閥から出された条件は
・三十八年式実包を使用すること
・銃剣が装着できること
・銃身が長くないこと(600mm前後)
・軽量であること(4,000g以内)
・装弾数を多くすること
・有効射程は300m以上
だった。
三菱はフェドロフM1916を元に小銃開発を始めた。
最初に銃身長が約607mm(2尺=606.6mm)に決められた。
次に作動方式はフェドロフのショートリコイル式では無く、ホチキス機関銃やルイス軽機関銃と同じロングストロークピストン式が採用された。
しかし開発陣は銃については全くの素人であり、本や資料を取り寄せて設計を行なっていた。
なのでだんだん当時のスタンダードから外れていくことになる。
たとえば
「見本の小銃に付いている木製の取手いりますかね。」
「でも軽機関銃の方には引き金の手前に付いているぞ。」
「じゃあ設計では取手を軽機関銃と同じ位置につけましょう。」
なんて会話がされるくらいだった。
さらにフェドロフM1916を元に設計しているため、セミオートとフルオートを切り替えできるようになっていた。
またセミオートとフルオートの切り替え機構は操作しやすい様に銃の左側に移され、安全装置と一体化することになる。
給弾はフェドロフM1916と同じ下からの箱型弾倉を使用し、25発から30発へと装弾数が増やされた。(千野財閥側は三八式歩兵銃を元に開発していると思っているため、5発から6〜7発にしてくれ位の条件だった。)
弾倉もセレクターの横にあるボタンを押して取り外しができるように変更された。
こうして三菱初めての銃が完成した。
もうお分かりいただけただろうが、当時の銃としてはかなり異様である。
それどころか偶然にも現代のアサルトライフルに限りなく近いものになった。
そんなこんなで試作銃のお披露目は行われ千野財閥の職員は驚いた。
まあ三八式歩兵銃みたいなのを想像していたのに、珍妙な銃が出てきたのだ無理はない。
ちなみに陸軍と海軍も視察に来ていたが、本銃を見るなり笑い、上層部に対しては脅威にはならないと報告した。(後々その評価は覆されることになる)
普通なら珍兵器や残念な銃扱いをされるのを待つだけのはずだったが、千野修大朗がこの銃を気に入ってしまい保安局で正式採用される。
その銃は三菱一型自動小銃と名付けられ、大量生産され配備されて行く。
余談だが本銃は少しずつ改良を受けながら平成まで使われることになる。