千野財閥、土地を買う
その日外務省では書類が空を舞い、人が凄い勢いで出たり入ったりしていた。
全ては千野財閥の社員がふらっと外務省にやって来て。
「北樺太とカムチャッカ半島をソ連から買ったから、日本への編入よろしくね。」
なんて言い残して書類を置いていったのが原因である。
1932〜33年にかけてソ連のウクライナ地方を中心とした大飢餓が発生していた。
この大飢饉はホロドモールと呼ばれ、ソ連によって引き起こされた人工的な飢饉であった。
ソ連全体でも食料は不足しており、外貨獲得のため食料を輸出しているのも拍車をかけていた。
そんな有り様なので海外から食料など、到底できるものでは無かった。
そして千野財閥は飢饉真っ最中のソ連に目をつけたのだった。
日本国内では余剰生産された穀物が大量に保存されていた。
特に麦や蕎麦は米と比べて消費量が少なく、千野財閥が農家救済のため買い取った分だけで数百トンはあった。
また家畜の飼料としてアメリカからコーンを輸入しており、畜産業でも農業が機械化された事で肉牛や乳牛が溢れ返るという状態だった。
千野財閥はこれらの食料をソ連に売ろうとしたのだった。
しかしソ連には食料を購入できるような外貨も、財産なども無かった。
そこで千野財閥は大量の食料をチラつかせながら、北樺太とカムチャッカ半島を交換条件に出した。
当時のソ連にとって大量の穀物と家畜は喉から手が出るほど欲しいものであり、土地代を差し引いてもお釣りが帰ってくる程だった。
ということで日本は急に、樺太・千鳥列島・カムチャッカ半島とその付け根周辺の土地を得る事になった。
イギリスの外交官が同席し、売買契約が結ばれ国際的にも日本に所有権が移ったと認められた。
もちろんソ連政府により住民は他の土地に家が用意され、強制的に移住させられた。
北樺太から石油が出ていたが、ソ連にはバクー油田があったし、遠すぎて輸送が大変なので無視された。
豊富な地下資源だけではなく、水産資源も一気に増えた。
領海が増えて相対的に漁業可能な区域も増えたのだった。
北樺太の資源採取とカムチャッカ半島の開発は千野財閥に一任(丸投げ)された。
中国大陸での展開も合わさり、千野財閥はかなりの利益を得る事になる。
この出来事により満州で失った利権なんて問題にならなくなり、陸軍の恨みは薄れていった。
また樺太にはとある理由から、反共ロシア人が、ソ連から逃げてくる事になる。
カムチャッカ半島にもとある理由から日本人以外の移民が大量に流入するのだが、それらはまた別のお話。
ちなみに後世のロシアではこの出来事を、アラスカを売却したこと並に後悔しているらしい。




