東京駅では総理大臣が良く襲われる
千野財閥によってかき乱されたロンドン海軍軍縮会議であったが、一般市民はともかく海軍は条約の内容について注目していた。
結局アメリカ有利の形で会議は終始進み、日本は譲歩せざるを得なかった。
海軍内では弱腰な政府に対する不満と、余計なことをした千野財閥への恨みが噴出した。
一方で陸軍はそんな海軍を横目にして笑っていた。
結果的には海軍と千野財閥で日本全体の戦力バランスはつり合っていた。
しかし海軍のプライドにかけてそれは許されないことであった。
あくまで海軍は単独でアメリカとやり合えるほどの戦力が欲しかったのである。
さて海軍内部が条約派・艦隊派・千野派に分裂している頃、帝国議会でもとある問題が提起され紛糾していた。
総理大臣がロンドン海軍軍縮条約を承認することは、天皇陛下の海軍に対する統帥権の侵害であると意見が出た。
俗に言う統帥権干犯問題であるが、これは世論には火が付かず一部で爆発した。
千野財閥の話題が大き過ぎて、統帥権干犯問題の話題が上ってこなかったせいである。
しかし野党や反条約派・右翼などが結託し、議会はすっかり統帥権干犯問題の議題で持ちきりになってしまった。
これに艦隊派が乗じて、陸軍も巻き込んで内閣を倒そうとした。
だが陸軍はとある事に夢中であったし、陸軍大臣である宇垣一成がそれを許さなかった。
ロンドン海軍軍縮条約は議会を通り、枢密院にかけられることになった。
内閣と枢密院の激しい攻防の末、条約は1931年6月1日に発効・公布される。
この結果に海軍の艦隊派は納得していなかった。そして追い詰められた彼らは最後の手段に出る。
1930年11月14日濱口首相銃撃未遂事件が発生した。
海軍士官が東京駅を訪れていた総理大臣を銃撃しようとしたのである。
幸いにも周りに潜んでいた保安局の警備部により阻止された。
警備部の職員が間に割って入り、身代わりとなって撃たれた。
犯人はしばらく警備部と撃ち合いをした後、弾切れにより拘束された。
濱口首相は無事だったが、翌年の帝国議会に於いて海軍の監督不行届きとして海軍大臣が辞任した。
それにより連鎖的に濱口内閣は総辞職する事になる。
直ぐさま西園寺公望により第二次若槻内閣が発足した。
これから国民の不信感は軍部へと向き、政府は軍部と鎬を削ることになる。
ちなみにこれらの出来事と並行して陸軍内ではクーデターが企てられた。
しかし東京で一万人規模の暴動を起こして、陸軍を出動させるという計画は保安局が邪魔となり結局お流れになる。
というか海軍が不祥事を起こしたので、陸軍も世論を敵に回すとまずいということで、無かったことになった。
世論を敵に回すとまずいのは陸軍も済南事件で分かっていた。




