経済に絶対というものは無い
千野成章はアメリカの様子を見て、なにやらまずいことが起きていると直感した。
1929年当時のアメリカ経済は表面的には好調に見えた。
しかし天才的な勘を持つ彼はこれから恐ろしいことが起きると確信していた。
千野成章は商人である以上経済について多くを学んでいた。
近代経済学の父であるアダム・スミスの国富論に従って商売をしてきたが、彼はそれに懐疑的であった。
成章は政府による一定の介入が無ければ経済は行き詰まると考えていた。
そしてとうとう10月24日暗黒の木曜日が起きてしまった。
さらに29日には悲劇の火曜日が起き、アメリカの株価相場は大暴落した。
成章はこれを知ると世界的な経済危機が発生すると確信した。
元々千野財閥は金本位制復帰反対派であった。
しかし日本財界の総意は金本位制復帰賛成である。
だがアメリカの様子を見て三菱財閥などが金本位制復帰反対にまわった。
千野派内でも産業界と金融界が衝突し、二分することになった。
結局金本位制復帰が実行されるのだが、千野財閥はやがて訪れる不況に備え産業界をまとめ上げことにした。
輸出規模の縮小や賃金の引き上げなどを産業界全体で行った。
1930年に入り日本もアメリカの不況の影響を受けるようになった。
千野財閥の資金で東北や北海道の開発を開始し、長距離道路や飛行場・港の整備を行った。
全国でも河川工事やダム建設が開始され、強制的に仕事を増やし失業者を産まないようにした。
また千野財閥により最低賃金や労働時間が産業界で共有されることになった。
これにより産業界では8時間労働制、1時間の休憩、完全週休2日制が導入されることになる。
さらに日本の農業を牛耳る千野財閥により生産量が調整される。
千野財閥内の千野農業が補助金を出して生産を制限し、生糸や米を買い上げて農民の救済を行った。
産業界が千野財閥を中心に結託したおかげで商品市場の大暴落を防ぎ、どうにか国内市場の規模を維持した。
しかし金融界の下につく産業界は巻き込めなかった。
急激に物価が下がることを防いだが、物価が低下することは止められず株価も下落しはじめた。
農村も全てを救済することはできず、比較的マシと言うほかなかった。
それでも被害は無視できるものでも無く、不況が金融界を直撃した。
少なくはない中小企業が倒産し、それなりの失業者が発生した。
輸出が難しくなると産業界は新たな貿易先を探した。
千野財閥はアメリカ資本が撤退するドイツに目をつけた。
千野財閥は産業界を引き連れドイツへ進出、
日本資本がドイツへ流入することになった。
ちなみに中国でも千野財閥は中華民国と結託し、早々に銀元による銀本位制を諦め法幣による不換紙幣に切り替えた。
それにより中華民国の経済は安定し、物価の上昇を抑え経済を統一させた。




